松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

教師の自己研修とは

2010-01-28 11:13:16 | Weblog
 
 次の文は、ある研究会に参加した若い教師のものである。

 「先日は、ご指導ありがとうございました。日々の忙しさの中で、授業研究の会(新城の会)は貴重な時間であり、いつも自分の指導を振り返る大切な時間となっています。
 表現や合唱の実践を見たときに、3年前はこうだったなあと今の指導の足りなさを痛感しました。今は口が開いていないで声が出ていない校歌を聞くことが普通になっていました。目指すべき子どもの姿を2カ月に1回でも見ることで、本当の教育をぶれずに流されずに持つことができています。
 卒業まであと2カ月ですが、自分のクラスの子どもたちにはもうひと花さかせてあげたいなあと思います。」

 上記の文は私のブログに寄せていただいたものです。先日ある研究会で一緒に勉強した若い教師からのものです。
 この若い教師は、この研究会によく参加されます。自分の実践も持参します。大変熱心です。この教師は研究会参加のことを次のように言っています。
○ 自分の指導を振り返る大切な時間である。
○ 今の指導の足りなさを痛感します。
○ 目指すべき子どもの姿を2カ月に1回でも見ることで、本当の教育をぶれずに流されずに持つことができています。
○ 自分のクラスの子どもたちにはもうひと花さかせてあげたいなあと思います。
若いのに凄いことを言っています。自分の実践を振り返る→指導の足りなさを痛感する→目指す子どもの姿、本当の教育を持つ→自分のクラスの子どもの上に実現する→それには何と言っても勉強しなければならない・・・・こういうことなのです。
この教師に私は下記のコメントを送りました。
「『3年前はこうだったなあと今の指導の足りなさを痛感しました。』・・・この言葉を3年前、2年前の先生方に読んでもらいたいものですね。
 私は退職して今の仕事(初任者指導)をしていますが、自分で授業をすることはほとんどありません。この年で今さら勉強をと思いますが、初任の先生はもちろん、若い先生方によい授業や学級づくりをしてほしいと心底思うからこそこのような研究会に参加して勉強しているのです。
 先生の考えや行動は素晴らしいことなのです。それを裏付けるように、先生の担任している子どもたちは確実に力をつけています。先生の持参してくる素晴らしい実践がそれを物語っています。教師の自己研修の基本はこうあらねければならないですね。これからもよろしくね。」

今は授業への憧れ、教育への憧れを強く持って仕事をしている教師がどれだけいるのでしょうか。そして、その憧れはどれほど明確に持っているのでしょうか。とても気にかかっています。
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初任者・若い教師へ 基礎・基本5「物語文の読み取りとは」

2010-01-26 11:02:34 | Weblog

 初任の先生の中には、国語の教科書の「単元名」と「目標」を読んで、簡単に物語文の学習を考えている場合がある。
 例えば、2年生の物語文の「ふきのとう」の場合は、単元名が「みんなで よもう」である。目標が「みんなで こえに 出して たのしく よみましょう」である。これらをみると、読み取るとは、「みんなで こえに出して たのしくよむ」ことだと捉えてしまうことである。だから、文番号もふらず、場面分けもせず、文や言葉にも注目することもなく、①声に出して読む ②楽しく読む ③役割演技で読むで終わってしまう。これでは国語の勉強にならない。読書教材として終えてしまうのとあまり変わりはない。
 では、「みんなでよもう」とはどういうことなのか。それは①疑問や問題を出し合い ②読みの課題をつくり ③それを子どもたちが自由に読み取り④その後、どの読み取りが文に即しているか話し合い ⑤その読み取ったことの情景がわかるように声に出して読む・・・・大変大雑把ではあるが、少なくともこのような学習をしなければ授業とはいえない。
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教員は専門職か?初任者研修は?

2010-01-21 12:49:52 | Weblog

    【講師の先生から指揮法学ぶ現場の教師】


 教員の職業を「聖職」とか「専門職」とか「労働者」とか、まあ、いろいろと言われる。多くは専門職と言われることが多いだろうか。しかし、専門職などと言われても、それにはほど遠ものだと私は感じている。
 例えば医師の世界ではどうだろうか、医大において学生は、教授が行う医療処置を直接見て学ぶ、インターンの時代には、やはり教授の助手をしながら学ぶ、そして、こんどは自分で教授の指導を直接受けながらする。これが一般的である。
 職人の世界ではどうだろうか。例えば大工ならば棟梁の仕事を直接見て学ぶ、盗む。棟梁の直接の指導のもとで技術を磨く。
 教員の世界ではどうだろうか。大学で教職課程を選択する。教育原理や心理学などを講義で受ける。2~4週間の教育実習をする。大雑把に言えばこんなものであろう。ようするに、教員の場合は、学生の時代に教授から現場でおこりうる仕事の指導を直接受けることがほとんどないと言っても過言ではあるまい。そういう学生が、教職の試験を受け、教員となって学校に入ってくる。そして、1つの教室を与えられ、子どもたちの学級担任になり授業をするのである。これは恐ろしいことである。
 初任者は一年間の初任者研修があるが、本人が相当真剣に学び、先輩の先生方から進んで直接指導を受けたり、先輩の先生方の指導の技を盗むような研修をしなければ一人前の教師にはならない。
 民主党のマニフェストでは、「教員養成課程6年制」で教員の資質や能力を高めると言っている。しかし、その学びの内容が現場から離れたものであったら今までとは変わりはないであろう。
 私は、もう少し学校現場での初任者研修のシステムや内容を変えていくほうがよいと考える。
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学習発表会を考える

2010-01-13 12:56:52 | Weblog
 

  2学期後半から3学期にかけて、多くの学校で「学習発表会」という行事を行う。そこで、実施にあたり私の考えていることを記してみる。
1 出し物(演目題材)
 子どもに任せるだけではいけない。「この出し物は子どもを育てる力があるのか」「この出し物をとおして子どもをどのように育てるのか」がなければ教育ではない。テレビ等で流行しているものを安易に取り入れるのは論外である。
 多くの学校の出し物を見ていると、生活科や総合学習、教科等で学んだことを寸劇やクイズなどで紹介するというのがある。学習発表会であるのでそれでもよいが、短い時間にあれもこれもとやるので、単発で瞬間芸のようなものになってしまいがちである。
  価値あるものを丁寧に指導し、子どもの演技も心も育てたい。私が奨励するのは、朗読、歌、劇(道具を使わず、自身の身体を使って表現するもの)などであり、長期的に指導したものがよいと考える。そのほうが教育的であり、効果もある。
2 練 習
 練習は計画的にやらせたい。積み重ねる練習の中で子どもの演技力と心を鍛える。片付け仕事にならないようにしたい。
3 下 見
 校長、学年、学年団の教師で見合うべきである。校長としては当然全校の子どもや保護者に見てもらうのだから、どんな内容のものであり、できばえはどうかを事前に見ておく必要がある。その上に立って必要ならば指導しなければならない。このことは校長だけでなく、そこの学校のすべての教師がしなければならないことである。できたら学年や学年団の子どもたちにも見せるべきである。自分の学級や学年がよければよいというようなものではない。
  事前に出し物を見せると楽しみがなくなるという教師がいるが、そんな出し物はおそらくドタバタ劇かクイズかお笑いのようなものであろう。そうであるならばやらせないほうがよい。
4 意外に大事
  演技の前後の出入りは大切である。出入りも含めて演技と考えたい。そそくさと、あるいは小走りに入場し、演技を終えて退場するこれではダメである。演技のイメージを大事に持ってゆっくりと入場させたい。退場は、やり終えた満足感を持ってゆっくりと胸を張って退場させたい。
5 影響力が大きい
  全員の子どもたちや多くの保護者が見る。影響力が大きいと言えよう。質よいものであれば、それが全校に広がっていく。ドタバタ劇のような粗悪ものであれば、また、それも全校に広がっていくからである。

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授業の「展開」をどのように捉えるか

2010-01-07 11:47:19 | Weblog


 多くの教師は「授業の展開」(学習指導案での展開)をどのように捉えているだろうか。私の見ているかぎりでは、展開=①繰り広げる②平に広げる(広辞苑)・・・と捉えている。
 つまり、教材研究してきた指導案を子どもの前に広げ示し、「さあ、これを考えなさい、これを解きなさい」という感じである。そして、それができる限り支障なくスムースに進むことをよいこととしているようである。だから、指導が一方的になったり、平板になったり、羅列的になったりすると言えよう。
 授業における「展開」とはどういうことか、その考えを変えていかなければ授業は変わらないのである。
 斎藤喜博は授業が「展開」するということは、授業のなかに①教材とか②教師や③子どもの思考とかからくる④矛盾が起こり、教師と子ども、教師と教材、子どもと子ども、子どもと教材との間に、⑤対立が起こり、⑥衝突・⑦葛藤が起こり、それを⑧克服(突破)した結果として、⑨新しいものが発見されたり、ときには⑩未知の⑪不明のものがつくり出されたりしたとき、その授業は「展開している」ということができるのである。・・・と言っている。
 これは、ずいぶん一般的な考えと違う。ここに私たちの授業改革のひとつがあるようである。
 ブログ「子どもの四季」に関連して書きました。
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こんな授業をしたい、こんな子どもを育てたい

2010-01-03 10:11:59 | Weblog

 
 斎藤喜博、宮坂義彦、大槻志津江、戸田淳子・・・追求方式の授業と目指す教師は幸せである。
 今、現場の多くの教師は、目指す教育法、授業法を持たない。何か今までの惰性で、その日暮しで仕事をしてるように思えてならない。
 もちろん、どんな教師もこんな授業をしたい、こんな子どもを育てたいという願いは持っている。しかし、それを達成するための術を知らない。何を目的に、どのように勉強したらよいのかがわからない、知らない。残念なことである。
 イチロー選手は、大リーガーで年間200本安打を9年連続で達成して大記録を打ち立てた。イチローは、いつも目標に向かって努力を積み重ねている。だからすごい仕事ができるのだ。人間も技も伸びていく。教師だって同じだろう。
 目標を持った教師は幸せである。今年もがんばろう。
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