松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

初任の先生に伝えたいこと②

2009-06-25 09:48:57 | Weblog
 
 初任の先生に伝えたいこと①の続きである。
4 給 食
 給食準備、食べ終わり、片付けの時間も各自が意識していること。
 特に給食の準備、片付けは無言でやらせる。掃除なども同じである。独り言もだめである。黙ってやれば自分の行動がすすむからである。また、まわりの様子など、いろいろなことに気づいて、手伝いなどもできるようになるか ら で ある。
食べるのに遅い子どもは、どんなに時間があっても食べられないようである。それは、よぶんなおしゃべり、いたずら、食べ物を口に運ぶのが遅い等である。ですから、時間がきたら終了させるとよい。このことにより、子どもは時間を考えて、できるだけ早く食べることをしていくようになる。教師が「はやく食べて!」と言っても、簡単にできるものではない。
  給食がはやく終えることは、楽しい昼休みの時間も長くなるというメリットも 同時に知らせておきたい。
5 帰りの支度
 終わった授業の教科書等をその都度カバンに入れさせる。帰りの支度の時間がきたら、黙って用意をさせる。帰る用意をすることに集中させるためである。できた子どもは自席につかせる。トイレもできるだけがまんさせる。水飲みはさせない。いつまでたっても全員がバラバラになって集まらないからである。
  帰りの支度ができた班から帰らせる。こうすると同じ班で遊んでいる子どもや動作が遅い子どもが注意されるようになり、行動がはやくなるからである。

○ 配慮すること
※ それぞれの教育活動の「準備、中身、片付け」等にかかる時間の目安を子どもに教えておくことも大切である。そして、早くできると「遊べる」「家に帰れる」など、そのよさも教えておきたい。
※ 教師の見届け指導の継続が大切である。「よりよい行動が子どもの法律になるまで指導する」ことである。途中で根負けしないようにしたい。
※ 教師が価値観を高くもたないと、こういう問題点が見えてこない
※ 特別に支援しなければならない子どもについては、指導が異なってくる。 

初任の先生に伝えたいこと①

2009-06-22 13:26:41 | Weblog
 初任の先生を見ていると、指導の徹底が苦手のようである。その中の1つに子どもに「時間を守らせる」ということがある。それがうまく指導できないために、「授業」「朝夕の会」「給食」「帰りの支度」などの終始が遅れる。  
 学校は、時間で教育活動が組まれている。これがうまくいかなくては、すべての教育活動に影響する。
 初任者の教室を見ていると、いつも隣の組に負けている。遅れている。これは、子どもの責任ではない。明らかに教師の指導力の差である。
 初任者はもっと研究すべきである。「先輩の先生はどのような指導をしているか見聞きする」「どのようにすれば時間が守れるようになるか自分でも工夫する」「参考になる本を読む」などして、早くできるシステムをつくることである。そうして、実践してみる、問題点を改善するなどを、ぜひやっていただきたい。
 このようなことに気づかないと、もしくは、気づいてもそのままにしておくと学級崩壊になるおそれがある。大切な中身の学びもできにくくなる。
 「時間を守らせる」指導について、いくつか例を出して、そのシステム等を考えてみる。ぜひ、参考にしてほしい。

1 ノーチャイムの意識を徹底する
 今の学校は、ノーチャイムのところが多い。子どもが 自分の目で時計を見て動けるようにしたい。ここでは「自分の目」というところが、ポイントである。よく、仲間が知らせることがある。「おおい、時間だぞ!」とか、当番や係が「席についてください」などとやる。これはダメである。子ども同士がやるのだから、よいのではないかと考えてはいけない。これも他人に合図されていることになるからである。自分から行動できるようにしたい。
2 朝夕の会
  「朝夕の会」の時間がきたら、各自が自席に着くようにする。
当番は、教師の合図がなくても前に出て司会ができるようにする。始めの挨拶に時間をかけないことも大切である。
 子どもたちが歌を歌ったり、スピーチをしたりするが、何の歌を歌うか、スピーチは誰がするのかなど、しっかり決まっていることも大切である。歌詞を黒板に事前に掲示すること、係やスピーチをやる人の出入りもすばやくすることも大切である。
 教師は、子どもへの連絡等もメモしておき効率的に話したい。子どもへの配布物も時間がかからないように工夫したい
 いつも1校時に入ってしまわないように気をつけたい。
3 授業の終始
 授業の始まりは、「朝夕の会」と同様に開始したい。特に始めの挨拶に時間をかけてしまう場合が多い。全員が気をつけになるまで待つのはしなくてよい。つまらないところに時間をかける教師がいる。ほんとうに集中させるのは授業の内容でさせたい。
  「起立、今から○○の勉強をはじめます。礼、着席」などと丁寧にやる必要はない。できたら、全員座ったままで、「姿勢を正しましょう、はじめましょう」でよい。
  授業が終わったら、必ず机上には、次の時間の準備をさせておくこと。これもきびしく教師がしつけたい。

砂場の教育

2009-06-19 16:07:27 | Weblog
 砂場の教育「人生に必要な智恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」
                  ロバート・フルガム著より

人間がどう生きるか、どのようにふるまい、
どんな気持ちで日々を送ればいいか、
本当に知っていなくてはならないことを、
私は全部残らず幼稚園で教わった。

人生の知恵は大学院という
山のてっぺんにあるのではなく、
日曜学校の砂場に埋まっていたのである。
私はそこで何を学んだろうか。

何でもみんなで分け合うこと。
ずるをしないこと。
人をぶたないこと。
使ったものはもとのところに戻すこと。
散らかしたら自分で後片付けをすること。
人のものに手を出さないこと。
誰かを傷つけたら、ごめんなさい、と言うこと。
食事の前には手を洗うこと。
トイレに行ったらちゃんと水を流すこと。
・・・・・・・。

※ ほんとに子どもたちは砂場が大好きですね。
小学生でも砂場は大好きです。
  そして、遊びをとおしていろいろ学んでいますね。

ホタルが10分の1に激減

2009-06-17 13:29:01 | Weblog

 ゲンジボタルが10分の1に激減しているという話を聞いた。どうもその原因は、外来種であるコモチカワツボ(1980年代のニュージーランドからの外来種)であり、これがカワニナと同様にゲンジボタルの幼虫の餌になっているためだそうだ。
 ホタルが発光するのは、餌となるカワニナの中にあるマグネシウムを体内に取り入れることにより可能になる。しかし、コモチカワツボのマグネシウムはカワニナの10分の1しかない。そのために、ホタルの発光も10分の1と弱いものになってしまった。ホタルの交尾はメスがオスの光を求めた結果行われる。したがて、オスの光が10分の1に弱まれば、交尾の機会も計算上では10分の1になる。だから、当然、産卵の量も10分の1となり、ホタルが激減することになる。
  コモチカワツボは氷の中でも、水温30度以上でも棲息する。また繁殖力が強く、どんどん日本各地に増えている。そうなると一層ゲンジボタルは減ってしまうことになる。淡い光で初夏の夜をほんのりと照らすホタルは、日本の夏の風物詩である。これがいつまでつづくであろうか心配である。

教育メモ④

2009-06-15 14:00:18 | Weblog

Q グループ学習、個別学習について
A 「一斉授業」の基盤に立ってこその個別化
子どもの学習・行動が変容していく過程である典型が、一斉授業にあるとすれば、その学習形式が個別の学習形態の基礎ともなるはずなのである。そのような教師や子どもの訓練を抜きにして、学習の個別化や多様化をいたずらに実施しても、ほんとうに成果がえられるかどうかはなはだ疑問である。

Q 一斉授業と子どもの発言について
A 発言する子どもが少ないとか全員が活躍していない、といったたぐいの議論がある。これもやはり集団のなかの相互作用を全く無視した議論である。発言しない子どもは、全くなんの学習をしていないのではない。それどころか、この間にこそ本当の学習をしているのである。
 教師と他の子どもたちのやりとり(コミュニケーション過程)は、も ちろんそれに直接参加する子どもの学習を含んではいるが、実はそれ以上にほかの子どもたちの学習活動にとって重要な刺激として働いているのであり、それ自体がひとつの教材とさえいえるほどである。だから発言が多かったからとか、多くの子どもの学習活動がとりあげられたからといって、その授業がよい授業だったというこにはならない。逆もまた真である。一時間中ほとんど発言しなかった子どもが最も深く考え、よい学習をしていたことはしばしばある。
 跳び箱のうまく跳べない子どもを、他の子どもの前で何回も繰り返し指導して跳べるようにしてやる過程は、ほかの子どもにとって時間のむだどころか、単純な運動をめいめいが平板に繰り返すより、はるかに密度の高い学習となる。
 合唱練習の場合など、ひとつのパートを丹念に指導していると、それを黙って聞いていた他のパートが、何もしないはずなのに、ずっとうまくなってしまったというような例もよく知られていることである。

Q 他の学校の参考になるもの、影響を与える研究会とは
A 他の学校が明日からでも取り入れていけるような実践は、一般的にはどこでもやっている実践であるといえよう。それでは、本当に教師や子どもは変わらない。 今までの多くの研究会に参加してきたが、概してその実践は形式的、概念的なものが多く、見る者を感動させたり、驚かせたりするものは少なかった。ゆえにその実践に憧れ自分や自分の学校の授業に取り入れていくというようなエネルギーが湧かなかった。従って何度も何回もそれらを参観しても、そのことにより自分の授業が変わったり、子どもが変わっ たりすることがなかった。
「追求方式の授業」は授業に具体性とリアリズムがある。およそどんな学習であれ、具体性やリアリズムを欠いては子どもに真の学習が成立するはずはない。 

Q 「授業」概念の形骸化について
A 「与えられたカリキュラムをこなすのに精一杯」、この「ノルマの消化」ということがなによりも教師の意識を占めることによって、授業はその固有の内実(授業でこそ果たされうる教育機能)の側面がともすれば忘れられがちとなる。
いまや授業という言葉は「教授=学習過程」という本来の意味よりも、第一義的には「管理=経営」的な従属的意味の方が強まりつつあるとさえいえよう。
少数の例外はあるが、一般的に「授業によって子どもを変えることができる」という信念の乏しいことである。
教師は極端にいうと「知識」(より正確には「情報」)の伝達のパイプとしてしか捉えられず、教授の質の問題は抜け落ちてしまっている。
したがって授業の質を変えようと思ったら、なによりも上から下ろされて来るカリキュラム=教材の量や質を変えるしかないということになる。

Q 学習課題につて
A 日常性においては、われわれはふつうことばの本来の意味で「考える」ということをしない。「思考」とか「判断」とかいっても、既成概念や一定の反応形式(つまり習慣)に依存して行動しているのである。これが破られて、はじめて本来の思考が起こる。それにはわれわれがある「事件」に遭遇し、あるいは「危機」に追い込まれることが必要である。そうした非日常的場面においてのみ。われわれはふだんことばの表面しか接していなかった物事や世界と、リアルに対面することになる。
これは決して、いわゆる「問題解決学習」を採用せよということではない。そうでなくては、通常はあたりまえあるいは、自明とされているようなこと、あるいはそんな意識にさえのぼらないようなことのなかに最も本質的な課題のひそんでいることを、学習過程の要所要所で発見していくことを指すのである。

Q 教材解釈について
A 日常的な授業を変革していくために、いかに教材のとらえ方が重要かということがわかるであろう。「よい」教材を選んだとしても平板で一般的な「借りもの」の解釈をとおりいっぺんに行っていたのではどうにもならない。まず教師は自分の主体をかけて教材と「出合う」ことが必要である。
授業で本質的に必要なことは、いったいこの教材で何を教えたいのか、なぜこれを選 ぶのか、ということがぎりぎりまで考えぬかれていることである。それは単に将来なに かの役に立つから、とういうような功利主義のレベルを超えた何ものかを持っていなければ教育にならないであろう。単に「そこにあるからだ」式の授業には、子どもも教師もともどもにあきあきしているのである。
そこで大切なことは、子どもにとってどうだから、という以前に、まず教師自身にとってどうだから、という視点、つまり教師と教材との共感(出合い)がもっとも重視されねばならないであろう。


今後の国語指導

2009-06-11 11:09:22 | Weblog

 例えば、多くの教師は「国語科の『モチモチの木』で、子どもは、どんな学力が身に付いたか」と聞かれると、答えに迷うをのではないだろうか。私の場合は、
① 新出漢字、読みかえ漢字
② 辞典上の言葉の意味
③ 豆太やじっさまの気持ち
④ 「モチモチの木」の情景や様子
⑤ 物語のおもしろさ
⑥ 音読や朗読
およそ上記の①~⑥であろう。①~⑥の中で、①②はどんな教師も具体的に教えるであろう。③④⑤⑥は読めば誰でもほぼ理解できるものであろう。
 ところで、新しい学習指導要領 国語 第1 目標では、次のように示されている。
 「国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し、伝え合う力を高めるとともに、思考力や想像力及び言語感覚を養い、国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる。」とある。
ここでは、「適切」「正確」「伝え合う力」「思考力」「想像力」「言語感覚」などが指導のキーワードとなる。だから、私が従来してきた授業のように「漢字を覚えるとか、物語を楽しく読む」というような甘い指導では済まされないと考える。だから国語の授業を見直し改善する必要がある。ひょとしたら多くの教師もそうではないだろうか。
 ところで追求型の国語の授業「例 光明小の国語の指導」を考えてみると、新しい学習指導要領にとても合致しているように思われる。
「適切」「正確」「想像力」は当然であるが、特に指導に困難と思われる「伝え合う力」「思考力」「言語感覚」の育成である。そればかりでない、今の子どもたちに不足していると言われている「学習意欲」も同時に喚起させることが可能だからである。
 従来の国語指導をどうしても変えていかなければならない実状である。そうであるとすれば追求型の国語の授業にぜひ取り組んでいくことを望む。

新しい学級

2009-06-08 21:21:59 | Weblog

 私のブログに、ある若い先生から、「新しい学級」というタイトルで下記の内容のコメントがありました。
 「新年度、2か月が過ぎようとしています。受け持ち初めたころは、何か子どもたちが、がやがや落ち着きのないように感じたクラスです。しかし、国語「新しい友達」図工「自画像」体育「マット運動」等の実践を通して、学び合うこと、追求すること、落ち着いて生活することの心地よさを子どもたちが感じているように思います。自分自身が心地よいと感じるので子どももそうだと思います。機会があればまた、授業を見ていただきたいです。」
 私はこれを読んで、「ああ!すばらしいなー」と感じました。この先生の実践を研究会で見聞きしているから、よけいに納得するところが多いのです。この教師のどこがいいのか挙げてみます。
○ 主体的な仕事ぶりである。
○ 若いのに研究熱心である。
○ 忙しい中であるがよく研究会に参加して、自分を高めている。
○ 目指す教育方法を持っている。
○ 授業で子どもたちを育てようとしている
○ 自分の実践を公開して、教えを請うている
などである。ぜひ若い先生には見習ってほしいと思います。 

図工でも心の教育を

2009-06-05 15:16:06 | Weblog

  この「タケノコの絵」を見てください。タケノコの重さ、手触り、瑞々しさ、皮の重なり、皮の筋、皮の産毛、根っこから上部にかけての色の変化やうねり、などが手にと取るように伝わってきます。
  この写真の絵は5年生30人の一部しか掲載できませんでしたが、全員一人残らず、このような素晴らしい絵を描いています。学校教育では、「全員」というところが大切です。
 この絵を指導されたのは、○○小学校の平野先生という人です。子どもにどのように描かせたかと聞いてみましたら、タケノコを「触る・よ~く見る・一本一本の線を丁寧に描く・皮の重なりをしっかり描く・上部にかけてどのような太さや色の変化なのか・下色は黄色、赤、青を使って・・・・等」の指導であったようです。
 実際に描くときは「タケノコと話合うように・集中して描くように・上手い人のを参考にするように・・・・等」であったようです。
 私はこのようなきめ細かな指導があったからこそ素晴らしい絵が完成できたのではないかと思いました。さらに強く感じたことは、絵の上手さだけでなく、この絵を描くことにより、「子どもの心が育てられた授業」であったのではないかと思いました。
 じっと絵を見ていると教室での子どもたちの真剣な学びが見えてくるようです。子どもたちの生活の汚れが取れ、本来の誠実さが表れてくるような思いがします。当然、他教科の子供たちの授業での学びも素晴らしいものだろうと容易に想像できます。

指導と模倣

2009-06-03 14:09:20 | Weblog

 「模倣」というと何だかいけないように感じるのでしょうが、そんなことはありません。人間が物事を知ったり、覚えたり、できるようになるには、模倣からは始まることがほとんどであると言えるでしょう。一人の人間がすべてをつくり出すことはできないからです。
 初任者の指導を見ていて思うことは、もっと、先輩教師の指導の模倣をどんどん取り入れてほしいことです。そのほうが、ずっとはやく学級づくり、授業づくり、子どもづくりができるからです。
  確かに初任者にとって模倣することすら難しいでしょう。しかし、忠実に真似ることにより、そのよさに気づくことが多いと思います。
先輩教師の指導を受けるときも同じです。一番大切なことは、まずは、その教えをしっかり受け入れ、実践をしてみることだと思います。