松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

これからの授業は

2009-02-25 21:20:54 | Weblog
 これからの授業は、子どもの発達を促す授業でなければならない。ではどんな授業であろうか、以下そのヒントとなるものを記してみる。
○ 新しい指導要領、全国学力テスト ・・・ 知識A+活用力、応用力、探求力、思考力B
○ 「教科(基礎基本)詰め込み」と「総合的な学習の時間(活用力・思考力)」 では、無理がある。総合的な学習の時間は、教科と遊離している。多くの要素がありすぎる。
○ 教科の中で、詰め込みがあって、それ以外の方法を考えなければならない。それ以外の方法は子どもの発達を促す学習でなければならない。
○ 追求型の授業は1つの教科指導の中で、詰め込みと活用力、思考力が同時に満たされる。低位の子どもから高位の子どもまで学習が同じ教材で学習できる。
○ 義務教育は授業の中で、発達を考えていない。1年生はこのくらいできればよいだろう。6年生はこのくらいでよいだろうと・・・。
 発達とは、最初の考えを変えることである。
  従来の発達 →→→→→→1年生はこれでよし
  教育での発達 →→→→→1年生でも→→→これが発達の考えである
○ 今、多くの学校でやっている授業は、最初の考えを他者の考えと交流して、変えていくとういことをほとんどやらない。だから子どもは変わらないし、教師も力がつかない。
○ 授業はいつでも具体的でなければならない。場面、段落、文までおりていくこ とである。
○ いつでも現在の状況を否定し、新しものを求めること。            
 ※ 宮坂義彦氏(元三重大学教授、授業研究の会主宰者)の講話からメモ    

校訓碑完成おめでとう

2009-02-22 20:21:19 | Weblog
 校訓碑「試す人になろう」完成披露・「表現発表会」の開催おめでとうございます。私は仕事の都合で出席できず申し訳ありませんでした。
 校訓碑「試す人になろう」は、土曜日に拝見させていただきがましたが、ほんとうに立派にできました。大きさも形もよく素晴らしいです。
 6年生の石井真由さんの校訓碑に刻んだ字も誠実で力強く美しいです。これなら、子どもたちみんながさらに失敗を恐れず、夢に向かって挑戦するようになるでしょう。
 表現発表会については、ブログの紹介で見させていただきました。写真やビデオで見ると、子どもたちの目、顔、身体が生きています。
 ビデオでは「勝利の行進」の歌を見ましたが凄い迫力でした。全員が集中してよい声が出ていました。みんな輝いていました。
 表現を参観した保護者の方の話では、「凄い驚いた。子どもってあんなに力があるのですね。見ていて清々しい思いをしました。」「光明小の宝です。づっと続けてほしいです」「これが本物の表現ですね」など、いろいろと熱っぽく話してくれました。ほんとうによかったと思います。
 これからも、この素晴らしい校訓のもとに、子どもたちと先生方のさらなる活躍をお祈ります。
 おめでとうございました。

教育課程は枠でない、内容と質である

2009-02-21 22:39:15 | Weblog
 totoroさんからの私のブログへのコメントを読んで、私の感想です。
1 オペレッタや器械運動の表現活動をやるか、もしくは他の表現活動にするかの問題
 オペレッタや器械運動の表現活動の特徴としては、               
  ○ 生身の人間(子ども)が多数の人(観客)の前で表現する
  ○ 人間同士(子ども同士)が対応する
  ○ 一度に誰の目にもはっきりと表現が現れる                
  ○ 人間同士のコミュニケーションが育まれる              
  ○ 体のすべてを総動員して、自分の心にあるものを表す
  ○ ダイナミックに子どもを変えることができる
これらのことにより、
  ◎ 自信や勇気を持つことができる
  ◎ 人間関係が深まる
  ◎ 健康な体になる
  ◎ 学級や学校が勢いづく、連帯する
  ◎ 作品を表現することにより、人間の生き方を学ぶことができる
  絵画や作文などの他の表現活動でもよいが、上記のようなメリットは、期待できないだろう。オペレッタや器械運動の表現活動のようには子どもは育たないだろう。

2 国語の研究だけにするか、表現活動も研究するかの問題
  両方研究したほうがよい。認識する教科(国語)と表現する活動(オペレッタや器械運動)を同時にすると子どもが早急にダイナミックに変わる。「教科の力」が表現に、「表現の力」が教科にと、互いに好影響していくからである。
  また、表現する活動は、認識する教科よりも、ずっと学びの結果が表に現れやすいので、上手に指導すれば子どもは、そのことにより自信や勇気を持つこと ができる。教師の指導力の向上も逃げ隠れできないから達成できやすい。

3 質の低下の問題
 質が低下すれば子どもは通俗的になり俗悪になる。明確できりっとした聡明な子どもになりません。強靱にもなりません。
  教育として質の低下は一番気をつけなければならないものです。
  私は思います、「子どもは甘いものが好きでなく、旨いものが好きである」 と、教師が子どもをみくびって、価値の低いものや安易なものを与えれ  ば、たちまち子どもたちは崩れていきます。こんなことは、光明小の先生方はわかっているはずです。

4 仕事が苦しい、大変だという問題
  ○ 先生方の努力でよい子どもが育っている。つまり、結果的には楽をしていることになる。
  ○ 教師としてのやりがいを感じているのではありませんか。
  ○ 他の学校では、こんな経験はできないと思われる。3,4年のがんばりで   す。どの教師よりも力のある教師となるだろう。
  ○ 今や一般企業は金融危機により、派遣社員をはじめ正社員まで首を切られている。教職も大変な仕事ではあるが、身分も給与も保障されている。 ありがたいことだと思ってがんばらなければならない。
   以上、totoroさんからの私のブログへのコメントを見て感じていることを書きました。まちがっていることがあると思いますが、私の正直な思いです。

授業の原理を求めて

2009-02-17 22:45:06 | Weblog
 今回、磯田一雄著「授業の原理を求めて」を読むと、追求方式の授業をするときの基本的な考え方と相通ずるところがあった。私はなるほどと思われる指摘が多かったので、その一部を紹介する。磯田氏は次のようなキーワードを示し、論を展開されている。「授業展開」「多様性と子ども」「多様性から一様性」「教師の解釈と授業の結論」「多様性と追い込み」「多様的な考えと二値的対立の違い」「二値的対立の必要性」等である。なお長文であるので私が文章を切り、小見出しをつけた。

○ 授業における「多様性」と授業の「展開」から
「一斉授業」と「多様性」あるいは「個人」と「集団」。この一見対立し矛盾する2つの要素の統一がみられるのは、授業において「展開」と呼ばれる側面である。そのような「展開」を実現できることが、いわば教師としての仕事の醍醐味であり、また、「めしのくいどこと」でもあるといえる。
○ 授業が展開しているとはどういうことか
授業展開とは「導入ー展開ーまとめ」をいうのではない。展開とは、授業が単に平板に羅列的に進行していく場合には「展開」とは言わない。そこには何か新しいものとか、ときには不明のものとかをつくり出してはいないからである。授業が展開すると言うことは、授業の中に、教材とか教師や子どもの思考とかからくる矛盾が起こり、教師と子ども、教師と教材、子どもと子ども、子どもと教材との間に、対立が起こり、衝突・葛藤が起こり、それを克服した結果として、新しいものが発見されたり、ときには未知の、不明のものがつくり出されたりしたとき、その授業は「展開している」ということができるのである。
○ 「多様性→一様性」「一様性→多様性」
展開のある授業とは、いいかえれば、子どもの多様性を引き出し、それを交流させ、組織していく授業のことである。多様性が引き出され交流されていくあいだに、ここでいう「矛盾」がおこり、その「矛盾」をめぐって学級全体の共通課題が生まれる。その課題の「克服」の結果として生み出された「新しいもの」や「不明なもの」は全員に共通な普遍性・一般性を持っている。つまり「多様性→一様性」への必然的な収束過程が「展開」の一過程であるといえる。もちろんそこで生まれた「新しいもの」(一様性)」はひとりひとりの子どものなかでは再び多様にとらえられ、発展されるからそこにはより高度なレベルでの「一様性→多様性」の過程も生まれていく。このようにして「展開」は、これまで対立するものとみられてきた子どもの「多様性」と一斉授業との矛盾を克服し統一する授業の最も基本的な原理でなのである。
○ 子どものとらえ方
多様性を生かす条件としては、第1に教師の子どものとらえ方である。つまり教師が子どもひとりひとりを人間として、個人として尊重しているという態度が必要であろう。「子どもとはこんなものだ」とか「どうせ子どもだから」というのでなく、多様性こそ人間の子どもの存在の本質であり、多様性の発揮できることは人間として子どもが尊重されていることのあらわれだと考えることである。 
○ 教材のとらえ方
第2に教師の教材のとらえ方の幅広さ、豊かさ柔軟さが必要である。教師に子どもの「多様性」とはとかく厄介な、扱いづらい代物であるが、それは教師の「正しい」と信ずる解釈と相いれず、それを認めていると授業の流れが乱されてしまうと考えられるためである。
教師としての明確な解釈を持っている必要はあろうが、大切なのはその解釈と一致した「結論」を出されることでことでなく、考え方の対立をめぐって多様に子どもが教材と対面し、思考を深めていくことである。
多様性を生かすためには、授業で教師が「これだけは教えたい!」という箇所が少なくも一か所はなければならないと同時に「この点は子どもたちはどう考えるだろうか? いっしょに追求したい!」というところもまたなければならない。そして、両者が実は 同一か所であるときに、その授業は最も実り豊かなものとなるだろう、ということである。
○ 多様性の交流と効果
多様性を重視することの第3の意義は、多様性の交流によって生まれる効果である。たとえば俳句1句をとりあげてみても、その解釈は実にさまざまなものがあるということの発見自体が、子どもたちにとってすでに新鮮な驚きである。そのことによって自分の解釈の根拠がおのずから自覚化され、イメージや意見がよりふくらみのある、たしかなものへと変わっていく。すなわち教材のなかで自明と思いこんでいた側面や隠れて見えなかった側面をとらえ直し、思考や認識が活性化し、深まっていく手段である。
 教材というものは単に提示されただけで本当にとらえられるものではない。教師は子どもを教材に対面させ、それと相互作用を起こさせる手がかりを与えてやらなければならない。
○ 「多様性」と「追い込み」「二値的対立」
「多様性」を生かすということで、もうひとつ注意すべき点は、全員の意見を発表させるなどということは不要であるということである。多様な意見の羅列は、時間とエネルギーのむだづかいであり、授業を平板なものにしてしまう。方向の異なる意見をいくつか聞けば「多様性」のあることは全員に容易にわかるし、授業の展開では1か所にばかり長時間こだわらず、いくつかある展開の核の相互間を、たえず全体を見通しながら適切に移っていくことが必要だからである。
 「多様性」と「追い込み」としては、子どもの多様な考えを束縛してはいけないけれど、選択を迫られるのっぴきならぬリアルな対立関係の状況への「追い込み」はぜひとも必要である。それはどちらかに決めなければならぬ、という必然性が逆に子どもの「多様な考え」を積極的に誘発するからである。この「対立」は、決して「対立した考えのどちらかに軍配をあげることに目的があるのではなく、それらを媒介としながら、子どもの新鮮な思考や感情を生み出すところにねらいがある。」という。したがってそれは子どもの意見を両極分解させてしまうものでもない。
「二値的」思考は問題追求力の起動力であり、多値的思考はいわばその舵取りをすると考えられるのだから、授業に力強い展開を求めるならば、「二値的」思考を適切に位置づける必要があろう。そのような発問ができるためには、教材の読み取りにおいて、ふつうなら見逃してしまうような、それでいて読み全体を左右するような箇所が見いだされていなければならない。教師の「多値的な考え」は、ふつうでは疑問を生じないような箇所で、鋭い「二値的」対立をつくり出し、そこに子どもを追い込んで質の高い「多様な考え」を出させるためにこそ必要なのである。

改めて表現活動の意義を考える

2009-02-14 12:25:36 | Weblog
1 歌やオペレッタの表現活動の意義としては、次のようなことがいえる。
 ○ 声と身体のすべてを総動員して、自分の心にあるものを表現する。そのことにより、表現する楽しさや喜びを味わう。
 ○ 大勢の人の前で発表することにより、自信や勇気を持つようになる。そして、この自信や勇気は、他の教科の学習や生活に影響し、そこでも自分を出し切るようになる。
 ○ くずれつつある現代の子どもたちの心身を、息を吸う、しっかりと声を出 す、体をつかう、リズムをつくる、気持ちを合わせるなどを十分に体験させて、メリハリのある心身に再生する。
 ○ 表現をつくり出すことによって、クラスや学校全体がいっそう強くまとまり、連帯感や所属感を強める。
 ○ 低俗文化の多い中で、質の高い文化を身につける。
 ○ 自分の思いや考えにより表現することで主体的な子どもが育つ。また自分以外の人と豊かに対応して表現することも大切にしているので、人間関係も深められる。
○ 今までできないと思っていた他の子どもの表現を見ることによって、あの子にもあんなにすばらしいものがあったのかと驚き、自分も学び取っていくこと ができる。
○ 人前で表現することにより、コミュニケーション能力が発達する。
○ 国語や算数などの教科の学習と違って、声と身体全体はもちろん、目や顔の表情、手や足の動きまで総動員して、自分の心にあるものを表現する。そのことにより、物事を豊かに感じ取ったり、豊かに表したりする心や身体が育つ。(お面を付けたり、小道具を使ったりしないで自分の体と心を武器にして表現することに価値がある)
○ 認識する教科と表現する教科の両輪で子どもを育てると効果的である。
○ 指導の成果が具体的に目に見えるように表れる。このことにより、教師の指導技術を高めることができる。

2 子どもの指導にあたっては
○ まず、子どもたちに力いっぱい歌わせること、身体表現をさせることによって、自分を出させ、やり得た喜びを味わわせる。そのためには、全身で息を吸い、全身で歌うことやすべての身体をつかい表現させる。                                                                                         ○ 物語の内容をよく理解して表現させる。話の展開、登場人物の気持ち、周りの情景など 
○ 自分の意志で動くようにする。自分の動きやポーズを工夫させる。他(ものや登場人物)と対応した動きをさせる。

「追求する子ども達」を読んで

2009-02-07 11:00:55 | Weblog
 totoroさんのブログ「追求する子ども達」を読んで、思いつくままの感想を列挙しました。
○まず、斎藤喜博著「私の授業観」のなかの学校の質の高さに関する文章を思い起こした。
学校の質の高さについて・・・「もちろん私の学校の子どもたちのなかにも、社会とか家庭とかの悪い影響を受けて、通俗的な要素を持っている子どももいる。しかし、そういう子どもの悪い面が封じられている、封じられているどころか目をみはるような美しいものを出しているのは、学校の質の高さである。そのなかでそういう子どもたちも、質の高いものをつぎつぎと引き出されていっているからである。放っておけば通俗的で俗悪なものだけがはびこってしまう子どもが、質の高いものを引き出されることによって、通俗的なものとか俗悪なものとかを消してしまっているのである。」
 以下はMrヒデ ・・・ このブログの歌う子どもたちの写真を見て、何と上品で清潔で美しい顔なのかと思う。どこの学校でも見られるような顔ではない。斎藤喜博が言われるような通俗的なものとか俗悪なものとかを消してしまっている顔である。
○「片方だけでなく両クラスの子どもたちが同じ価値観を作りつつある」
これは凄いことである。教師が開かれていないとできないこと、価値を共有していないとできないことである。
○「新採の先生であっても、違う学校から赴任してきたばかりの先生であっても、その要求に応えなければならない」
まず、その先生がこの価値を感じるかどうかがスタートである。次にそれに対して逃げるか立ち向かうか。誰からでも教えを請うか等であろう。そう考えると新採の先生の方がベテランの先生よりもいいかもしれない。
○「よい声で歌うためには、頭声発声にもっていかなければと考えている」
これはよくあることである。概念的、形式的な教師にありがちである。意外にも音楽専科の先生に多いかもしれない。
○「『だめそんなに怒鳴っては』『だめ、もっときれいな声で!』『もっと、もっと小さい声で歌うんだ。』そう言われ続け、彼らなりに考える。」「ぼくは音痴だから歌わない方がいいんだ。音楽なんて、早く終わらないかなあ・・・」
その通りですね。こんなことで子どもの何を育てようとしてるのだろうか。うまい、きれいな声でなく、人間全体の力から出る「命の吹き出るような声」これが美しいのだ。生きていることなのだと思いたい。また、これらの力は、すべての学習や生活に影響していくことなんだ。これが教育としての歌です。
○「先生、ここまでできた。だけど、6年生みたいきれいな声にはどうするとなれるの?」
学校は子どもが高学年になるに従ってよくならなければならない。そうでなければ学校としての責任ある仕事を年月をかけてしていないことになる。下級生が6年生みたいになりたい、そんな望みや憧れを持つ学校にしたいね。これとは逆に高学年になるほど悪くなる学校はたくさん多くある。
○「無理矢理教えられた頭声発声と、自発的に進化してたどり着く頭声発声。おそらく同じ頭声発声でも、聞き比べれば違いは明らかであろう」
私はいつも思う。全国合唱コンクールに出場する選ばれた子どもたちの合唱とここの学校の子どもたちの合唱は明らかに違う。好みにもよるかもしれないが、ここの学校の子どもたちの合唱のほうがずっと人間的であり、感動的であり、教養があり、人の心を動かす。
○「世の中にはもっとすごい歌を歌う2年生がいる・・・・それを見たり聞いたりしていないのだ。教師が。」
先生が勉強しないからです。しかし、目の前にすごい子どもがいても感じ取れない先生もいる。感性が貧弱というのか。そんな先生に受け持たれたら子どもたちは不幸です。先生によって、子どもたちの明暗が分かれる。そのとおりです。
○ここは、歌声で考えているが、すべての学び方や生き方に通じることです。
○教育の最終目的は教科指導等を通して、子どもたちの人間形成をすることである。
※totoroさんのブログから、私の感想を思いつくまま記してみました。どれも私の本心です。
※totoroさんのブログを多くの先生方に読んでいただきたいですよね。ぜひ、遠慮することなく広めてください。

学習発表会これでいいのか

2009-02-02 16:32:06 | Weblog
学習発表会
「学習発表会」は、今の時期に多くの学校が行う。そして、いつも私は見ていて感じることがある。それは以下3の点である。
○ どこの学校も学習発表会は、3学期に実施することが多い。そして、発表会の間際になると、「今度の学習発表会の出し物は何にしようか?」「練習はいつどの時間にやろうか?」などの声が上がる。
 発表の演目は、教科や総合的な学習の時間で学んできたものを断片的につなげてつくることが多い。または、子どもの学びに全然関係のない安易な出し物を持ち込むこともある。これらはいずれも、子どもを学習発表会で育てるには不十分である。
 発表会の演目は、ある程度大作となる歌曲、器楽、劇等の発表にしたい。そして、年間を通して、少しずつ積み上げていきたい。そのほうが子どもも教師も育つし、よいものがつくれるからである。
○ 身体表現として発表されるものの多くは、フォークダンス、童謡、アニメのテーマ等の曲に合わせて踊るものが多い。それらは、ほとんど曲が三拍子や四拍子であり、その拍に合わせて体を動かすものである。自分で考えて動くのではなく、一連の動きが決まっていてそれを繰り返すものである。自分で考えて位置取をしたり、相手に対応して動いたりすることが少ない。ましてや出たり、引いたり、伸びたり、縮んだり、ポーズをとったりなどの緩急やうねりのある動きはほとんどないといってよい。
子どもをいっそう育てるには、これらの表現ではやはり不十分である。一人一人の子どもが動きをつくり、もっと主体的に表現できるものでなければならない。
○ 本番まで自分の学級や学年だけで練習して発表するということが多い。隣の学級や他学年の演技を見合ったりすることがほとんどないようである。それでは、互いに影響し合って高まることがない。ある学級や学年の演技はよくできるが、ある学級や学年の演技はよくできていないということになる。これでは、学校経営としてはダメである。やはりどの子も伸ばし、どの学級、学年も伸ばすためには、演技の下見を多くの先生でして、互いに教え合うことが必要である。