松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

学力とは何だ・・・斎藤喜博から学ぶ

2014-02-26 19:49:03 | Weblog
写真は「いのち、この美しきもの」(筑摩書房)解説 斎藤喜博 撮影 川島 浩から


下記は故斎藤喜博が築いた教授学研究会についてのあるブログからのものである。私も若い頃この教授学研究会に所属し大変勉強させていただいた。ここでは学力とは何か?ということで書かれているが、まったく私も同感である。
 私が勤務していた○○小学校でも斎藤喜博の流れをくむ教育を取り入れ教育実践をした。その際には、国語、音楽、体育、図工とともに表現活動でオペレッタを子どもたちに指導した。その教育効果は真にここに書かれているものと同様である。学力とは何だということでいろいろな解釈がされている昨今であるので考えてみたい。以下ブログを紹介します。


故斎藤喜博という人物をご存知だろうか。

彼は、小学校の教師で、教育界に多大な影響を与えた人物だ。
校長になった後の活躍にはすさまじいものがある。
現代風に言えば、「カリスマ教師」である。
彼は、授業、表現、真理といったことに命を注いだ。
彼の死後、未だなお、その影響力は計り知れない。
とはいえ、現代の人々にはすでに縁遠い存在となりつつあるのも否定できない。

そんな彼が築いたグループが、教授学研究の会だ。
ここでは、毎月、現場の教師や大学教員や学生が集まって、
授業の内容、教師の生き様、教師の仕事について学び合っている。

今日は、その研究会があった。
この研究会で、参加者は多数の教育実践を知ることができる。
すごい教師はやはりいつの時代にもいるもので、
そうした気合の入った教師の実践を学ぶことができる。

今日は国語(朗読)、表現(オペレッタ)、社会(ゾウと人間)、漢字(漢字の構成と由来)、図工(造形、版画)の実践などを見た。
特に、H校長率いるS小学校のオペレッタには感動した。

みんなは想像できるだろうか。
小学三年生が、20分以上にわたって、歌って踊って演じて語り続ける姿を。
もちろん楽譜も台本も見ないでだ。
普通の田舎の小学生が、オペレッタ(オペラの基礎)をやってのけてしまう勇姿には
圧倒感すらあるのだ。
それよりもまず、子どもたちがオペレッタに心奪われ、全身で表現していること自体がすごい。

だが、これを見たものは次のように思うかもしれない。
「こんなことして何になるのだ?!それよりもっと重要なことがあるだろう。
学力低下が問題だ。まず基礎基本をやってからオペレッタをするべきだ」

たしかにオペレッタには、膨大な時間と労力が必要だ。
そんなことをしている暇があったら、ドリルや基礎学習をしたほうが、
一般的な学力向上にとってはよほどましであろう。

だが、いったい学力とは何なのだ?!
読み書きそろばんが基礎学力か?
受験に必要な一般常識を覚えていることが学力か?
それとも社会にうまく適応していく力が学力か?

ボクはそうは思えない。
演じる力、歌う力、語る力、そして表現する力。
総合すれば、何かに打ちこんで心を注ぐ力、
こうしたものが具体的な学力だと思う。

調子よく、ずる賢く、無難に生きる力なんてなくたっていい。
もっと大きなものに吸い寄せられる感覚というか感受性、
これをもっともっと身につけてもらいたいものだ。

学力っていったい何なんだ。

「誰が言うか」よりも「何を言うか」が大切である

2014-02-22 08:54:46 | Weblog
 

 私たちはともすると総理大臣が、県知事がこういうことを言った。・・・だから・・・・となりがちである。しかし、それは危ない。ほんとうの真理を言っていない場合が結構あるからである。今教育が大きく変わろうとしている。現場の教師も保護者もしっかりしなければならない。

 教育実践家の国分一太郎は、国分一太郎文集第一巻「 新しくすること 豊かにすること」で次のよう書いている。「わたくしたちの国では、国益と結びついた教育が、ほとんど通念化していて、近代化、国家主義化、そして軍事化、超国家主義化への手段として、国家権力が教育を支配しつづけてきた。これに対して、この体制を批判し、克服しようとする革新の政治力も、同じように教育をせっかちに利用しようとするところから、教育の本質はともかく政治主義の中におおわれて、ほんとうの姿を見失ってきた傾きがある。」・・・・これは大変興味深い文である。

 私たちは、「誰が言うか」よりも「何を言うか」が大切で、発言の中身を十分吟味しなければならない。・・・教育と子どもの幸せを考えて!

考え続ける子どもを育てる

2014-02-19 10:13:04 | Weblog

 国立横浜大学教授 高木 展郎先生は、教職員を前に講話の中で
「考え続ける子どもを育てるには、深い教材研究をし、子どもたちが活動し、考えたくなり、解決したくなり、それらがつながっていくような「単元を通しての課題」を作ることである。どう教えるかを考えるのが教材研究ではない。問いがあるから、考えるのだ。
 子供たちが課題に興味をもち、問い続け、自分たちで分かっていくような道筋を見えるようにすることが教材研究である。
 分かった子だけでなく、クラス全員が分かるようになる授業をすることが、授業のプロだ。そうなるような、カリキュラムを作っていかなければならない。」と述べてい
る。
 この考え方は、私たちの研究会の考えと共通している。

第40回 「浜松授業研究の会」研修報告

2014-02-15 14:15:26 | Weblog
 

記念すべき第40回の開催ができた。ここまで継続できたのは、この研究会で学ぼうとする教師が、忙しい中ではあるが、毎回参加してきてくれたからである。また、totoro先生の御努力によるところが大きい。
 今後も1人でもここでの学びが役立つということであれば、継続していきたい。
 今回は県外からも2人の先生が参加してくれた。よい勉強ができた。

研究会テーマ:~「教師が変わる、授業が変わる、子どもが変わる」~

1開催場所 天竜壬生ホール第2議室

2開催日時
平成26年 2月15日(土)9:00~12:00

3研修内容
(1)自己紹介及び近況報告

(2)研修内容
○本研究会の意義の確認
○横浜国立大学教授、高木展郎先生と本研究会との共通性
○子どもが課題をつくること、問題をつくることの大切さ
○論理的思考の積み重ねが、直感的思考を育てる
国 語
・3年生  物語文「モチモチの木」の問題づくりと教材解釈
・新聞等の記事から問題づくりをし、それに的確に答える学習(学力テストなどへの対応)
図 工
・2年生 描画「歌う自画像」・・・厚手の紙、コンテの利用等により、やわらかく力強く素晴らしい作品であった。
・4年生 版画「リコーダーを吹く人物像」・・・ 版画の下絵であった。人物の表現が研究会で学んだ原則を踏み、正確であった。子どもの成長を伺い知ることができた。
・3年生 描画「アジサイ」・・・今までにない紙粘土を使った手法であり、新しい表現のよさを学ぶことができた。
・3年生 版画「笑った顔」・・・紙版画であり、いろいろな素材を使っての表現であった。どれも見る人を楽しくするものであった。

(3)その他
「明治図書から本研究会へ教育書発行についてのお願い」・・・明治図書からの依頼である。本研究会が認められ書籍になるということで、私たちにとって勇気、自信を与えられた。また、このことにより、多くの先生方に広められることが嬉しい。

4今後の活動
  第41回 浜松授業研究の会の開催
   平成26年 4月15日(土)9:00~12:00天竜壬生ホール第2会議室

5その他
この会の研修内容や実践の証、考え方は下記のブログをご覧になれば、おおよそ理解できると思います。検索してください。
○浜松授業研究の会(ホームページ)・・・参加方法や日時、研修の様子、各教科等の実践が掲載されています。
○totoroの小道
○松明光明


第40回「浜松授業研究の会」の御案内

2014-02-10 10:03:34 | Weblog


第40回「浜松授業研究の会」の御案内


 今回で記念すべき40回の研究会を開催することができる。これは、参加する教師がこの研究会には、学校現場だけでは、そして個人だけでは得ることができない研修の意義を感じているからであろう。
私が青年教師の頃には、民間の教育研究団体や教育サークルがたくさんあり、そこでは、特色があり、個性的で、質の高い研修がいくらでもできた。しかし、今はほとんどそういう場は少なくなってしまった。
一方、学校現場での研修はどうであろうか、、今の学校現場では、多くの教師が日常の職務に追われ、日々の実践をじっくりと振り返る時間的余裕が持てないのが実情であろう。従って、経験の積み重ねによる指導にだけになりがちになる。それが質の高い実践的な指導に結びつけばよいのだが、なかなかそうにはいかない。かえって経験による思いこみや凝り固まった指導になっているのではないかと思われる。学校現場で行われている校内研究会が、真に教師の学び、教師個々の授業実践力の向上につながっていない原因ではないかと思われる。
 そういう意味でも、本研究会の果たす役割は大きいとえ言えるだろう。ぜひ、多くの先生方に参加していただきたい。

「浜松授業研究の会」とは

~「教師が変わる、授業が変わる、子どもが変わる」そんな研究会です~

 子どもは、だれもが本当は楽しく授業に参加したい、分かるようになりたいと思っています。でも、ふと気づくと、クラスの中に参加する子どもと、参加しない子どもが混在するようになります。
 考えている子どもはいいのです。自分の考えを持たずに、友だちに任せっきりの場合はどんどん受け身になり、分からなくもなります。成長の喜びがなく、授業が楽しくなくなります。
 私たちは全員参加の授業をめざしています。

本研究の会の趣旨

 子どもは、だれもが本当は楽しく授業に参加したい、分かるようになりたいと思っ ています。私たちは、その思いを大切にし、その思いに答えたいと考えています。
 そのためには、まず教師が変わり、
旧態依然の授業方法を見直さなくてはなりません。
教師が変われば、授業が変わります。
授業が変われば、子どもが変わります

多くの方は、それは分かっています。だけど、どうしたらいいのかが難しいのです。 そういう大事なことなのに、それを学び合う研修会が少ないのです。
そこで、この会は
・全員参加の授業の実現をめざす。
・優秀な教師が教えるのではなく、互いにまず実践をし、それを持ち寄ります。
・互いの実践から、どうしたら自分の授業が全員参加の授業になるのか学び合います。 
 授業に参加するとは、教室にいるだけでは参加になりません。
 どんな授業の中でも「考えること」と「意志表示すること」の繰り返しをすることがなければ、参加しているとはいえません。その中から「新しい発見」や「変化」がその子の中に起こるのです。そして真の学力がつくのです。
私たちの研究会は、子どもの全員参加の授業の方法が具体的に学べます。それも教材の真の学びを通してです。ですから本物と言えます。

参 加 資 格

 ・今の授業じゃだめだ。もっと授業がうまくなりたいと思う方。
 ・すべての子どもたちに、授業の中で満足感を与えてあげたいと思う方。 
 ・日々の目の前の忙しさに、ともすると惰性に流されることに焦りを感じる方。
 ・刺激を受け「質の高い授業を目指そう」というモチベーションを持ち続けたい方。
 ※この会は、偏向的な教育や思想教育はしていませんので、安心して学ぶことができ   ます。どなたでも自由に参加できます。まだ、参加されたことのない方は、是非覗 いてみてください。

参 加 方 法

1 開催日時
第40回 平成26年 2月15日(土) 9:00 12:00 天竜壬生ホール 第2会議室
第41回 平成26年 4月12日(土) 9:00 12:00 天竜壬生ホール 第2会議室
第42回 平成26年 5月10日(土) 9:00 12:00 天竜壬生ホール 第2会議室
第43回 平成26年 6月14日(土) 9:00 12:00 天竜壬生ホール 第2会議室
第44回 未定 土 9:00 12:00 天竜壬生ホール 第2会議室

2 開催場所
  浜松市天竜壬生ホール第2会議室
  ※時間厳守ではありませんので参加できる時間で結構です。
  ※服装は自由です。
  ※駐車場はあります。

3 研修内容
○ 国語、算数を中心とした各教科
○ 音楽、図工、体育などの実技教科
○ 学級づくり
○ その他
  
4 本研究会の学びの特徴
  ・具体的な教材とか写真とかDVD、テープとかの事実を対象にして考える。
  ・参加者からの実践があればそれをもとにして考える。
  ・音楽、体育、図工、その他の実技をする。

5 準 備 物
○ 実践したもの(ある人)
○ 教材研究をしてほしい教材がある人(10部印刷持参)
○ 筆記用具
○ 国語辞典
○ 会費 200円(会場費他)

6 この会の研修内容や実践の証、考え方は下記のホームページやブログをご覧になれ ば、おおよそ理解できると思います。検索してください。
○ 浜松授業研究の会
○ totoroの小道
○ 藍色と空色と緑のページ(各教科等の実践が掲載されています)
○ 松明光明

教師が授業を組織するとは

2014-02-06 09:29:21 | Weblog

  教師は教材をしっかり解釈し、とらえていることは、子どもに指導する場合、最低限必要なことである。その上に立って、子どもをどのように組織していくかが大切である。


 斎藤喜博は『授業以前』の著書のなかで、「炭火は、一つ一つの炭をうまく積み上げることによって炎を立てます。炎を立てて燃えている炭でも、散らかしてしまえば消えてしまいます。それと同じように、学級でも全部の子どもがうまく積み上げられ、燃え上がっていることが必要です。」と記している。


 授業のなかでもこの考え方が大切である。そしてこのことは、より大きな授業の成果を生むことになる。
 では、授業の中で炭をうまく積み上げること(子どもをうまく積み上げること)とは、どういうことなのか思いつくままに記してみる。
まず、子どもがやってみたい、調べてみたいというような魅力的な学習課題をつくることが出発点である。そして、教師の話をしっかり聴けること、友だちの話をしっかり聴けること、友だちの言動に豊かに反応すること、友だちのよい作品や示範をよく見ること、グループでの学習ができること、子ども同士の話し合いができること・・・・などである。


 仮に学習課題がどんなによくても、教師中心の授業、教師の注入的な指導では、子どもは教師の話を一方的に聞くだけになり、受け身になり、つまらなくなり、楽しくなくなり、燃えるどころでなく、学習意欲は消えてしまうだろう。
 子どもをうまく積み上げることも大事な教育技術であると思う。

何をもって「主体的学習」なのか?

2014-02-01 07:32:13 | Weblog


 ある小学校の国語の授業研究を参観したことがある。その授業の反省会では、多くの先生方から、子どもたちが大変活発に話し合いができていて、よい授業であったという声がたくさんでた。
私はそれを聞いていて何か違うなと感じた。それは、教材の中身の読み取りというよりも子どもたちの発言の多さを評価していたようである。教材の中身はどこえやら、やたらに「ハイ、ハイ」「僕に言わせてください」「言ってもいいですか」「○○です。理由は」「つけ加えはありませんか」「これでいいですか」などの発言が多く、それも教室の前面に貼られている「話形のし方」をちらちら見ながらの発言であった。
 一見子どもたちは主体的に話し合ってはいるが、自分の思ったことを好き好きに話しているだけのようであった。
 一方教師は椅子に座り、にこにこ笑みを浮かべながら聞いていいるだけであった。ときどき子どもの発言が教師の解釈(解釈とまではいかないが)に合ったときは、ずいぶん嬉しそうに首を大きくたてに振るのであった。
 子どもたちの発言の内容は、積極的ではあるが常識的でわかりきったことを話すだけであった。
 発言の内容はすべてが正解ということで流れて行った。ですから少しも話し合いにはならなかった。
 私は、先生方がこのような授業がよいのだと思っている限りは、いつまでも授業は変わらないのだと感じた。