松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

日常からの脱皮、そして新たな仕事への意欲を!

2021-11-24 16:28:32 | Weblog

      新型コロナ感染者数が減少している。

     知らない土地で、知らない人ばかりの中で
     そして、自然の中で・・・・・。
     自分を解放することの気持ちよさを感じる。
     そして新たな仕事への意欲を!


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互いに顔を見つめて、聴こう、話そう

2021-10-22 10:39:47 | Weblog

だれかが話しているときには、その人の目を見よう。だれかが意見を発表しているときには、その人のほうに顔を向けよう。

 ・・・ わたし自身、学校時代に、先生の顔をじっと見つめていると、心があらぬ方にさまようのを防ぐ効果があることに気づいた。前の席の子どもの頭や自分の鉛筆を見つめていると、すぐに気持がほかにそれるのに、先生の顔を見つめていれば、もうそれだけで授業に集中できることを知ったのだ。

だから、いまのわたしは授業中にはいつも全員の目が自分に注がれているようにすることに心を砕いている。そうすれば、わたしにも子どもたちの表情がよく見え、彼らが授業内容が理解できなくて困っているのか、あるいは授業を楽しみ、集中しているのかがわかるからだ。           

・・・ 子どもは安心感を求めると同時に、威厳をもって自分たちを管理監督してくれる人物を求めている。わたしは、これまで、子どもたちに好かれたいと思うあまりに、甘すぎる態度で接する教師や親を何人も見てきた。そして、その人たちの失敗も数多く見てきた。〈 規律と愛はワンセットでなければならない 〉

   「あたりまえだけど、とても大切なこと」ロン・クラーク著より


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学校の朝のスケッチ

2021-09-25 10:35:54 | Weblog

 家庭での「早寝、早起き、朝ご飯」と言われているが、学校生活で考えるとこの「早起き」に当たる部分は、「朝の運動」であろう。それがなかなかできにくい状態にある。いや、できにくい状態にある以前に学校や教師はこのよさに気づいていないのかもしれない。
 私が学校の理想とする「朝のスケッチ」を描くとすれば、およそ次のような状態である。
 朝7時過ぎに子どもたちがぼつぼつ登校してくる。子どもたちは、教室で体育着に着替えて、三々五々校庭に集まってくる。校庭の子どもの数がどんどん増えてくる。グランドを走る子ども、ドッチボールをする子ども、サッカーをする子ども、鉄棒をする子ども、鬼ごっこをする子ども。その中に混じって子どもと一緒に運動をする教師の姿が見られる。そして、8時になると、もう校庭は運動をする子どもたちでいっぱいになる。あちこちから子どもたちの元気な声が聞こえてくる。
 始業の音楽が流れ出すと、子どもたちは運動や遊びをやめ、それぞれの学級で朝の活動が始まる。校庭で「朝の会」を始める学級、教室で「朝の歌」を歌う学級、爽やかな一日の始まりである。
 これが学校の始業前の私の理想とする光景である。しかし、多様化された今日の状況ではなかなかこうはいかないかもしれない。

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学校は工場(こうば)になりえるか

2021-09-09 11:29:57 | Weblog
                    【ザリガニを探す子どもたち】

  佐久間勝彦先生は、『事実と創造』教育誌「教師のこころの扉をひらく」において小関智弘氏の著書から次のような文章等を紹介している。
小関さんは「こうじょう」と「こうば」について、その規模で使い分けることをしない。「工場」になる施設を、何から思い浮かべてその映像を描くか。私たちの視座の違いによって、読み方が異なると言う。つまり、「工場(こうじょう)」と言うとき、人はまず「建物」を思い浮かべ、それから、そのなかで働いている「機械」に目線を向け、そして、そこで「人間が何やら仕事をしているという光景」を視野に入れる。それに対して、「工場(こうば)」と言うときは、まず「作業服姿の人間」が大きく目に入ってくる。それから、その人が使っている「機械」に目が移り、最後に「機械を囲う建物」が視界に入る。※ ※ ※ 
 「学校」という言葉を聞くとき、私たちはどのような映像を思い浮かべるだろう。まず校舎と校庭が思い浮かび、次に教室の黒板と机・椅子などが見えてきて、教科書をめくりながら教師の話を聞いてノートする子どもが見えてくる。そういう人が多いかもしれない。
  しかし、「学校」というと、目を輝かせた子どもたちが真っ先に思い浮かび、頭をひねりながら教材と格闘する子どもの姿が目に入ってくる。教室からは歌声が聞こえてきて、校庭には子どもたちのはずむ声が飛び交っている。そういう「学校」を思い描く人もいる。おそらく、その人には、子どもが集中する授業をつくりたい。そう思って、教材と誠実に向き合う教師も視界に入っているだろう。※ ※ ※

  私は今までに多くの学校を参観してきた。そのなかには、学校の建物や校庭、きらびやかな数々の施設は思い浮かぶが、子どもや教師の姿が少しも思い出されない学校がたくさんあった。しかし、それとは逆に子どもの集中した授業や輝くような歌声、格の高い授業をつくり出してる教師の言動が今でも鮮やかに思い出される学校もあった。私たちは、後者のような「工場」(こうば)」である「学校」をつくらなければならない。そうしなければ学校の中にいる子どもや教師はいつまでも変わらないであろう。(ここの文は河島)


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ああ!どうしてアブラゼミはこんなにアホなのか

2021-08-26 10:56:17 | Weblog

 今日はまた、改めてアブラゼミのアホらしさがわかった。
 今までの私の体験では、人の背中にとまって「ジージー」と鳴くのはアブラゼミ、干してある洗濯物のシャツにとまって鳴くのもアブラゼミ、地面でバタバタと羽をばたつかせているのもアブラゼミ、家の中に飛び込んでくるのもアブラゼミ、アリに引かれた行くのもアブラゼミ・・・・・である。
 今日見たのは、歩いている人の日傘にとまって平然と「ジー、ジー」と鳴き出した光景である。(写真をよく御覧ください)あまりのアブラゼミのアホ、いや、おもしろさ、楽しさに笑ってしまいました。
 ツクツクボウシが鳴き出しました。まだ残暑は厳しいですが確実に季節は変化してきています。みなさんご機嫌よう。


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先生方、夏季休業中に読書を!

2021-07-30 18:56:23 | Weblog
夏季休業中も忙しいだろうが、教師は読書をしてもらいたい。普段はなかなか読めないからである。
 ここでは、日本の教育者の実践にふれてほしい。文科省や教育委員会からくる、ややもすると末梢的で対症療法的な教育ではなく、子どもや教師が真に育つ実践を示唆してくれるからである。
 下記の実践者は時代を超えて、教育の大切なものを教えてくれている。是非お薦めする。
 特に小学校教師は、斎藤喜博の著書を読んでほしい。それは、ある教科だけに偏るのでなく授業と行事を中心にして、子どもを育て、教師を育てたからである。それも今までになかったような、また、今後もあらわれることのないよな質の高い実践をつくりだした教育者だからである。

 斎藤喜博の本

  「授業入門」「授業」「授業の展開」「教育学のすすめ」「教師の仕事と技術」「一つの教師論」他多数あります。
   これらのどの本も素晴らしく、感銘を受けた。私の教育実践に大きく影響を与えてくれた。

 ※ 斎藤喜博の経歴等を知りたい方はインターネット『ウィキペディア
(Wikipedia)』で調べてみてください。

(参 考)
  先日、本屋さんで、総合教育技術8月号を見ていたら「日本史上最高の教育者は誰だ!ベスト10」という特集が掲載されていた。それによると

1 位 大村はま(国語教育)
2 位 福沢諭吉(思想家)
3 位 吉田松陰(松下村塾)
4 位 斎藤喜博(授業、行事)
5 位 緒方洪庵(医学)
6 位 向山洋一(教育の法則化)
7 位 宮沢賢治(童話作家)
8 位 森 信三(しつけ教育)
9 位 津田梅子(自由教育)
10 位 東井義雄(綴り方教育)

 であった。斎藤喜博は4位であった。昭和の教育者では2位である。1位は大村はまであった。大村はまは昨年亡くなられたとき、大きくマスコミで取り上げられたので、1位になるのはわかる。しかし、中高の国語教育専門の大村はまよりも、小中で特に小学校で学校づくり、授業づくり、教師づくりと幅広く、深く実践し、多大な業績を残した斎藤喜博のほうが、私には勉強になった。今でも私は、現役を退職tしても斎藤喜博に関する本は読んでいる。


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ほんとうの教師の仕事が・・・

2021-07-22 22:09:38 | Weblog
                     「浜松授業研究の会」研修の様子

 「教師の仕事」ということで次のような文章があった。抜粋すると
○職員室の雰囲気が変わって教師同士が語り合う時間が少なくなり、教育の技術を磨き合うことが難しい時代になった。
○十数年前、「情報化」が学校の流行語になった。最近の教育界は往々にして、絶対化された言葉によって一斉に突っ走る。行政の施策に個人の持ち込みが重なり、職員室のパソコンが急増した。・・・・・同時に思わぬ事態が発生した。ひたすらパソコンに向かい続け、同僚や生徒と話をしている間も画面から目を離せないような「多忙な」教師が増えたのだ。そのため職員室の会話は少なくなり、従来指摘されてきた教師の孤立化傾向が急加速した。
○一見すると時間の無駄のように見える雑談は、児童・生徒に関する指導に当たるための機会だった。教科指導や生徒指導などについて意見を交換し、優れた教育方法について学ぶなど、指導能力を高める場でもあった。その時間が減少している。・・・などである。


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子どもの顔がきれいになるとき

2021-07-07 10:12:26 | Weblog


○感謝しているとき
○感謝されるとき
○褒められたとき
○何かに挑戦しているとき
○難しいことができたとき
○自然の中におかれたとき
○素晴らしい芸術作品にふれているとき
○自分から表現しているとき
○内容のある話を聴いているとき
○多人数で遊んでいるとき
○美味しいものを食べているとき

こういう世界を子どもの中に多くつくってやりたい。

アルファ読みからベータ読みへ

2021-06-27 19:31:20 | Weblog
                         子どもの作品より        

「わたしの知的生産の技術」(講談社)を読んでいたら、私たちが学んでいる「課題追求型授業」に深く関係するような記事を見つけた。タイトルは「アルファ読みからベータ読みへ」外山滋比古著である。
 特に「文を読む」とはどういうことかである。課題追求型の国語の授業の教材解釈や授業をすすめるに当たっての強い味方になると考え、少し長くなるが以下紹介する。

 「読む」という言葉が簡単に使われていますが、「読む」ということはどういうことか、基本的なことはほとんど考えられていません。実はこれは非常に複雑なことであって、「書く」ことよりもひょっとすると、いっそう面倒なことではないかと思います。(中略)
 読みには2つの種類があります。前の晩にテレビで見たプロ野球のナイターの経過を翌朝、スポーツ新聞で読むのは、既に分かっているものを読むのです。仮にこれをアルファ読みとします。もう1つは、自分の経験を越えた未知のものを読む場合で、これをベータ読みとします。ベータ読みはたとえば禅の公案のように自分を越えたものの意味を読み取るのです。
 初めて字をおぼえ、読み方を習う子どもが、日常生活でよく知っているもの、たとえば、ハナ、ハト、マメというようなところから始めれば、ハトって何だろうと考える子どもはまずいませんから、声が出たとたんに意味が分かる。これはアルファ読みですが、問題はいつから未知を読むベータ読みへ移るかということです。今の学校教育では既知のものは音読、未知のものは黙読ということにきまっています。しかし、読みの方法論が教育の上で確立してるとはいい難い。そのため、多くの人が一生の間、アルファ読みに終始しています。難しい字も読め、理屈も言えるのに、自分の経験の範囲からちょっぴり出たところぐらいしか読めない。遠く離れたものは、おもしろくない、わからない、と放り出してしまいます。(中略)
読むほうもわかったという気持ちをもちやすい。ところが本当は何も分かっていないのです。新聞記事などは既知のような格好をしているから、アルファ読みですましてしまうのです。(中略)
 未知を読むのが実は大変面白く、クリエイティブな活動などだということを教えられることがなかったからです。
 書いてある通りを読めばいいというのはアルファ読みで、これは誰にでもできるのですが、未知のものを読む場合には、書いてあるとおりに読めるはずがないのです。結局は自分の思っているようにしか読めない。その思い方が非常に貧しければ、文章も貧しくしか読めないのです。(中略)
 アルファ読みからベータ読みへの移行、音読から黙読への移行はどうするかというと具体的に方法は一つしかありません。文学作品を読むことです。(中略)
 ではなぜ文学作品が必要かというと、文学作品はアルファ読みでも、ベータ読みでも、ある程度読めるからです。文学作品は一見、身近で分かりやすい形をとっていますから、アルファ読みしかできない人にもいくらかは分かったような気持ちを与えます。しかも同時に読んでいくうちに、それは作者の極めて孤独な精神の記録である場合が多いので、どうもアルファ読みだけではいけないというところがありそうな気がする。自分の知っていることをもとにした理解だけでは不十分だということが分かってきて、しだいにベータ読み、未知の読みに入っていく。こういうことをくり返していきますと、アルファ読みからベータ読みに切り換えができるようになっていきます。(中略)
 ところで、言葉の読み方を教えている国語の先生が不幸にして多くかつて文学青年だった人たちですから、この橋を渡って向こう岸のベータ読みに達するように教えなければならないのに、文学を目標にして橋の向こうへは行こうとしない。(中略)
本当の意味で未知を読むならば、数学的思考と文章の理解はかなり近い関係になります。読みは哲学的であり、論理的であり、あるいは高度に宗教的であり、極めて芸術的であり得る。ところが自分の経験をちょっとはみ出た程度のところで文学作品の読みが完了したように思い込む。先生がそう思っているのですから、子どももそう思うようになるのは当然です。そういう人が大きくなるとアルファ読みしかできない読者になってしまいます。せいぜい週刊誌のゴッシプ記事程度しかおもしろくない。理解は日常性の段階でとどまってしまいます。哲学や思想や自然科学の本を読んでも、自分の知っている分野のところは分かるが、その外へ出るともう分からない。理解の想像力が育っていないのですから、自分のやっていることは知っているが、知らないことは知らないというように截然(せつぜん)としている。知らないことはよく分からないけれども、こうではないかと思い、そのうち分かるようになっていくためには必ずしも読むことだけでなく、他に方法がありますが、こういう未知を読む訓練が学校教育ではほとんどなされていないというのは重大な問題です。
引用は以上である。

やはり文を読むときには、
○「変だ、おかしい、わからない、どういうことなのだろう」などの疑問を もって読む。
○ 辞書で意味を調べ、文に当てはめて考える
○ 文を切って調べてみる
○ 根拠はどこにあるのか見つける
○ 言葉や文から深いイメージをもつ
○ ひとりでなく他者と話し合ってみる
これらの学習作業がここでいうアルファ読みからベータ読みへとなるのだと考える。課題追求型の国語の授業では、既にベータ読みに近い読みをしているのであるのではないかと思う。



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自覚と随意が必要6年生「台上頭支持前方転回」の指導

2021-06-04 10:59:50 | Weblog

 次の文章は私が光明小学校に勤務していたときに書いたものである。6年生の先生方が運動会に向けて跳び箱運動である「台上頭支持前方転回」の指導をしていたときのものである。今振り返ってみると、この指導の中に「自覚と随意」に関することが入っていることに気づく。紹介しよう。

 6年生は学年全体で、体育の器械運動である「台上頭支持前方転回」に挑戦している。運動会での発表演技に向けてである。この種目はけして簡単にできるものではない。私は6年の先生が、この種目を選定したことに大きな意義を感じている。簡単にできる種目をたくさんやらせても子どもの教育にはならない。「できないもの」を工夫を重ねて「できるようになる」そのことが子どもにとって大きな自信や喜びになるからである。また、教師としては、指導技術の向上につながるからである。
  何回か授業の様子を見せてもらった。まず、教師の「台上頭支持前方転回」の勉強から始まった。教師がこの技を教えることができなければダメである。次に教師は、子どもの演技を見て「できる子」「できない子」から、なぜできるのか、なぜできないのかの原則を見つける。だから、学級集団の中に「できる子」「できない子」がいることはとても大切なことである。特に「できない子」がかかえている問題の解決こそが、みんなができるようになっていくすじ道がある。
 子どもたちには、それぞれの教科で得意不得意がある。お互いに「できない子」の切実な問題を子どもたちの集団の問題としてとらえることによって、教え合い・学び合う学習ができていく。         
  今ではかなりの子どもがこの技ができるようになってきた。もちろん、まだできない子も多い。しかし、全員の子どもたちが、この技のイメージを持ち、集中して学習に取り組んでいる姿を見ると、単に「できる」「できない」の問題ではないように思える。この「台上頭支持前方転回」の学習は、子どもの心と体の成長に大いに役立っているのは確かである。


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