松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

学校の朝のスケッチ

2008-09-29 16:58:01 | Weblog
 家庭での「早寝、早起き、朝ご飯」が叫ばれているが、学校生活で考えるとこの「早起き」に当たる部分は、「朝の運動」であろう。それがなかなかできにくい状態にある。いや、できにくい状態にある以前に学校や教師はこのよさに気づいていないのかもしれない。
 私が学校の理想とする「朝のスケッチ」を描くとすれば、およそ次のような状態である。
 朝7時過ぎに子どもたちがぼつぼつ登校してくる。子どもたちは、教室で体育着に着替えて、三々五々校庭に集まってくる。校庭の子どもの数がどんどん増えてくる。グランドを走る子ども、ドッチボールをする子ども、サッカーをする子ども、鉄棒をする子ども、鬼ごっこをする子ども。その中に混じって子どもと一緒に運動をする教師の姿が見られる。そして、8時になると、もう校庭は運動をする子どもたちでいっぱいになる。あちこちから子どもたちの元気な声が聞こえてくる。
 始業の音楽が流れ出すと、子どもたちは運動や遊びをやめ、それぞれの学級で朝の活動が始まる。校庭で「朝の会」を始める学級、教室で「朝の歌」を歌う学級、爽やかな一日の始まりである。
 これが学校の始業前の理想とする光景である。

よいものを与えれば子どもは育つ

2008-09-24 22:22:27 | Weblog
 教材とは栄養素のようなものであり、子どもの心身を育てるのに大いに関係するものである。
 教師がこの子どもたちだから、このぐらいの教材が適当だろと安易なものを与えたときはには、子どもの成長は期待できない。この子どもたちをここまで育てたいと考えて質の高い教材を与えたときにのみ子どもは成長すると考えたい。
 当然、教師の指導の善し悪しにもかかわることであるが、一般的にはそのように考えた方がよい。
 北浜小では、開校100周年ということで5,6年生全員による組体操を運動会で披露することにした。
 最初の練習の頃は、一人一人の我が儘が出て、簡単な演技も思うようにはできなかった。しかし、練習を重ねるに従って、特に多人数で行う組体操を課題として挑戦させる頃になって、子どもの本気が出てきたようである。
 それは、一人一人の友だちの協力がなくてはできいないこと、がんばればこんなに難しい演技もできること、自分たちの演技のよさや美しさを互いに見合ってわかってきたことなどが、子どもの本気を引き出した要因であると思われる。
 また、演技の向上と併行して、子どもたちの顔つきも変わってきた。すっきりと汚れがとれた清潔な顔になってきた。子どもの素直さが前面に出てきた。
 子どもたちには失礼であるが、この子どもたちが、こんなにも変わるのかと驚いた。これはもちろん一時的なことかもしれないが大変大切なことのように思われる。
 授業とは行事とはこうでなくてはならないと強く感じた。よいものを与えれば、そして指導が適切であれば子どもは変わるのである。学校は変わるのである。

光明小の子どもたちへ・・・素敵な運動会ありがとう

2008-09-23 18:08:14 | Weblog
 今年も素敵な運動会を見せてくれてありがとう。私は午後の部から参観させていただきました。「フィジカルハーモニー」よかったよ。全校でこんな表現をしている学校はありません。1年生もよくがんばりました。6年生の側転美しかったです。全校の皆さんが待っている姿や歩く姿もきれいでした。
 最後の紅白対抗のリレーも身を乗り出して見入ってしまいました。6年生の皆さんの力強い走り、バトンタッチのうまさが光りました。10月7日の5部会の「陸上大会」も楽しみですね。
 これで運動会も終わりました。今度は、教室でがっちりと教科の勉強に頑張ってください。
 久しぶりに皆さんの顔を見たり、お話ができてとてもうれしかったです。

指導は段階を踏むこと

2008-09-23 09:59:22 | Weblog
 今は多くの学校で運動会の練習が盛んに行われています。しかし、いつも見ていて気になることがあります。それは、よく言われる「守、離、破」ができていないことです。いつも「守」なのです。「ここに集まれ!」「この線に来て止まれ!」「ここの音楽が始まったら演技せよ!」「もっと声を出せ!」等々です。しかもこれらの言葉と教師の動きは、練習の日数を重ねてもあまり変わりません。ですから、いつも子どもたちは教師の指図を待って、だらだらと動き出します。子どもの主体が見えません。育てらません。
 子どもが一定の動きを理解できたら、こんどは教師は子どもの側にいかないとか、集合するラインを消して子どもに感覚で並ばせるとか、音楽を聞いて自分たちの判断で動くようにさせるとかしたいです。
 はじめは子どもたちはまごつくでしょう。私は、そのとき子どもの脳が働き、体が動き、判断する力が育てられるのだと思います。そのほうが結果的にもずっとはやくできるようになると思うのです。それと小さなよい出来事を教師がめざとく見つけて褒めて指導することも忘れてはならないことだと思います。運動場から流れるスピーカーの教師の言葉が「叱責」だけでは、地域の人たちはどのような思いで聞くでしょう。

あなたならどうする?

2008-09-19 21:17:44 | Weblog
 ○授業中、子どもの発言の声が教室の隅々に届かない。あなたならどうする?
 ○授業中、友だちの発言を聞いていない子どもがいる。あなたならどうする?
 ○授業中、机や椅子を動かす音がする。あなたならどうする?
 ○清掃中、箒も雑巾も持っていない子どもがいる。あなたならどうする。
 ○清掃中、話をしている子どもがいる。あなたならどうする。
 ○教師があいさつをしてもしない子どもがいる。あなたならどうする?
 ○靴の踵を踏んで歩いている子どもがいる。あなたならどうする?
 等々・・・・
 どうもこれらの子どもがいても、指導や注意をしない教師が多くなったように感じる。指導や注意のし方以前の問題である。
 教師はこういう子どもが見えないのか、見えても子どもに遠慮しているのか。不思議である。
 いずれにしてもこのままでは子どもを不幸にする。当たり前の指導をしっかりしていきたい。

改めて発問とは・・・

2008-09-18 13:55:08 | Weblog
 「子どもの四季」のブログには、武田常夫の言葉が紹介されていた。
 ○発言は教師がさせるものだ。発言せずにはいられないような、全力をしぼって考えるような問題や発問を教師が子どもに提出したとき、子どもの精神はゆれ動くのだ。
 ○教師の発問のよしあしは授業展開の質を決定する。
 ○いい発問はかならず、明確な具体性とするどい角度を持つ。などである。
 これらの発問や課題提示の考え方を読むと、私たちはどれだけ理解できているだろうかと思う。一般的には「なるほどなー」とぐらいに理解するだろう。
 しかし、「全力をしぼって考える」とか「授業展開の質を決定する」とか「するどい角度を持つ」とかという発問などは、そんなに簡単なものではない。かなり難しいものである。なぜならば、それは教師の相当な教材研究(解釈)がなければ生み出されないからである。平素授業をしている私たちは、そこに命をかけなければならない。

操作学習の力

2008-09-17 15:11:02 | Weblog
 操作学習や具体物を使った学習は、教科書と黒板だけを使った学習よりも、いっそう次のような効果が期待できる。
 ①子どもの学習の理解を助ける。
 ②子どもの学習意欲を喚起する。
 ③子どもの学びを楽しくする。
 ④子どもの学力差を埋める。
 ⑤授業が立体的になる。
 等が言えるだろう。上の写真を見ても、子どもの集中した学びの姿が美しい。
 この時間は、休み時間になっても教師の近くに子どもたちが来て、こんどは自分たちで進んで実験をやり出した。当然の流れのようである。本来学習とは楽しいものだからである。

本当の教育ができる学校

2008-09-15 22:40:20 | Weblog
 住んでいる方は、いろいろ不便な面があると思うが、やはり熊はいいところだ。 6年ぶりであろうか以前勤務した「熊小学校」や道の駅「母さんの店」に出掛けた。
 熊小学校は、子どもも誠実で可愛いし、地域の方も教育熱心でいい。標高365メートルにある学校は空気も澄んでおり、からっとしている。そのため校庭の花の色はいっそう鮮やかである。小さな学校であるが百人一首や一輪車や螢の飼育など多くの特色がある。
 懐かしい校庭を歩き、校舎を見て心が癒された。
 少子化で子どもの数が減り、学校の存続が危ぶまれている。1年でも長く存続できることを強く願う。子どもの教育にとってこんなによいところはないからである。

やっぱり受け身の子どもを育てている

2008-09-14 09:51:35 | Weblog
 若い教師を見ていると(ベテランもそうかも?)子どもを「受け身の子ども」に育てている。それは親切が子どもをそのようにしているからである。
 何でもないような事例だが、配布物を配るとき、教師は子どもの数を列ごとに数えて配布する。当然時間がかかる。子どもは座っていれば配布物は前から送られてくるが、これがなかなか最後の子どものところまでこない。子どもたちの配布の仕方が悪いのも原因である。だから帰りの会の時間が長引く。全校の集団下校に遅れる。教師は、「はやくしろ!」と声を荒立てる。
 こんな様子を見ていて、私はその教師に「配布物は適当な数を先頭の子どもに渡して、後は自分たちで調節するようにさせてごらん」と話した。次の日、その教師はそのように配布物を配った。なんと子たちが動き声を出した。級友に「3枚たりません」「たりないところありませんか」「どこか余っていませんか」「ここ余っています」などの声が上がり、互いに協力し配布された。時間も短時間であった。子どもたちは待っているという姿勢から自ら判断し、動き出したのである。
 些細なことかもしれないが、このようなことの積み重ねが子どもの自立性を育てるのではないかと思った。普段何気なくしていることをもう一度見直してみる必要があるだろう。

「集合」「気をつけ」と号令をかけるのだが・・・・・

2008-09-12 18:45:32 | Weblog
 「集合」「気をつけ」と号令をかけるのだがいつまでたっても自分たちで整列できない。「前へならえ」と教師が号令をかけてもなかなか並べない。ひょっとしたら1年生よりも6年生のほうが並べないときがある。
 これらは、どこの学校でも多かれ少なかれ見られることである。
 なぜだろうかと教師は考えたことがあるだろうか。・・・・・
 少し考えればわかることである。それは、指導が形式的であり、機械的であるからである。叱責と罵声によって並べようとしているからである。子どもの心を育ってていなことに気づいていないからである。
 子どもが自らの心で並ぼうとするようにするには、教師はそれなりの指導の工夫や配慮が必要である。例えば、徹底した指導の後は、教師は徐々に子どもから離れて、子どもの主体性を待つことである。そしてどんな小さな進歩でも見つけて子どもを褒めることである。さらに、授業や行事の内容を高め豊かにすることである。また、平素の子どもたちの学級生活もできるだけ子どもの主体性を引き出すような指導をすることも大切である。
 運動会の季節であり、これらの指導のチャンスではないだろうか。