松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

開かれた子どもたち

2010-02-25 22:26:30 | Weblog


 
子どもたちの学級での様子を見ていると、「ああ!いいなー」と思うことや感じることがある。子どもの顔が輝き、心身がやわらかくなり、子どもたちの周りの空気がパーと明るくなる。
 そんなときは、何か原則があるようである。例えば
○授業の内容がよく分かったときやできたとき
○学校行事などの活動が成功したとき
○先生や友だちから褒められたとき、認められたとき
○自分のしていることが上手くいったとき
○みんなが自分の力を十分に発揮できたとき
○子どもと子ども、教師と子どもがつながり合っているとき
○友だちの失敗や悪戯を許し合えたとき
なのであろう。そんなときは、子どもたちの心が開かれ、とっても明るい顔になる。体全体に喜びがあふれてくる。学校生活に張り合いを感じてくる。 教師はそういう子どもたちの姿をしっかりと捉えたい。そして、そういう子どもたちの姿が数多く出るような授業づくりや学級づくりをしていきたい。

1年間でいい学びをしたね、しかし・・・

2010-02-22 16:23:27 | Weblog


 今日(18日)は初任者の研修を参観した。初任者は、この1年間に自分の研修課題を決めて実践してきたことを発表した。発表の持ち時間は1人10分であり、発表後、互いに感想や意見等を述べ合うとうものであった。
 初任者は、1グループ10名であり、10人の発表を聞くことができた。発表はパワーポイントを使用し、写真や動画で示したり、実際に授業で使用した実物などを見せたりして発表した。そのために、ほんとうに分かりやすい発表であった。
 初任者は、自分の研修で得た学びはもちろんだが、発表に向けての効果的なプレゼンテーションの方法やパワーポイントの使用方法を同時に学ぶことができて、大変意義のある研修であった。
 私の初任の頃の研修とはずいぶん違ったものであり、このような研修ならいいなあと感じた。
 発表を聞いてどの初任者も1年間でほんとうに多くのものを学ぶことができたと感じた。初任者が互いの発表を聞いて、参考になる教育技術を共有することもできたし、一方同僚のいろいろな悩みを聞いて安堵の気持ちも持つことができたのではないかと感じた。
 私はこれらのよさととに、やや気掛かりなことも感じた。以下のことである。
 初任者ということで無理はないが(これは中堅教師やベテラン教師にも言えることである)あえて述べてみる。それは、研修内容が総花的であり浅いものが多かったことである。そのために、ハウツー的な技術であり、子どもの心をあまり考えないテクニック的なものが多かったということである。
 例えば、研修テーマは「聞く・話す」「考えを伝え合う」「互いにかかわり合う」「自分を表現する」「コミュニケーショ能力」「友だちと高め合う」などが目についた。そして、その解決法として、次のような視点で研究していた。 
○聞き手を見て話す
○聞き手は最後まで聞く
○反応して聞く
○話形に合わせて話す
○リレー発言
○ハンドサイン
○声のものさし
○ネームプレートの利用
○発表カード
○座席の工夫
○1分間スピーチ

などである。これらは、確かに一定の効果はあるし、悪いことではない。しかし、よく見るとそのほとんどが教師の努力ではなくて、子どもに躾るようなものであり、子どものに一方的に与えるもであると言ってもよい。また、教材に関係なくてもできるものと言ってもよい。したがって、これだけをやっていても効果はない。ほんとうに、「伝え合う授業」や「かかわり合う授業」にするためには、教師の教材研究により、子どもが「やってみたい」「考えてみたい」「話し合ってみたい」など、子どもが自ら動き出すような授業をつくり出す努力をしなければないらないと感じた。
 今後は、初任の先生方もこのような研究に入っていってもらいたいと強く願う。そうしなければ、教師も子どもも、授業もいつまでたっても本物にならないからである。

子ども自ら動く授業を

2010-02-15 14:48:46 | Weblog


 子どもの主体的な学びをどのようにつくり出したらよいのかと、思いを巡らせていたとき、下記のような新聞記事が目に留まった。
「子どもの自ら動く授業を出発点に」正木孝昌教授(国学院大栃木短大)のものである。少し長くなるが引用した後に、私の感想も簡単に記してみる。

「長さ」がテーマの小学校1年生の授業。黒板に線を2本書く。タテに短い線、横には長い線。どっちが長いか見ただけでわかるときは、子どもはちらっと見るだけで終わる。
 長い線のしっぽを黒板ふきで少しずつ消す。2本の長さがだんだん近づいてくると子どもは、身を乗り出してくる。
 ここで「どっちが長い?」と問い掛ける。「タテだ」「横だ」「いや同じだ」。もう子どもははっきりさせないと気が済まない。どうしても比べたいという気持ちがグッと前に出てくる。
 黒板に書いた線だから、並べて比べるわけにはいかない。さあ、どうするか。
 勝負はここからだ。子どもからつぶやきやいろんな声が上がってくる。
 両手をクワガタのように広げてタテの線と合わせ、それを横の線に重ねて比べようとする子がいる。だが手がフラフラしてうまくいかない。これではだめだ。思いを重ねたクラスの他の子からも声が出る。
 そのうち、一人が黒板ふきを手に取って線にあて、何個分になるか、しるしを付け始める。先生が何も言わなくても、これはいい、という反応が広がってくる。
 黒板ふきという一つの単位を使えば測れるし、比べることができる、という長さの概念が子どもの動きで浮かび上がる。鉛筆でも、手の幅でも・・・と子どもが自分で働き掛けることで、算数の大事な概念が身についてくる。先生は「面白いな」「すごいな」と声をかけるだけでいい。
 学校の帰りには、歩道のタイルや窓ガラスの一辺でも測れると、算数世界がどんどん広がる。物差しの目盛りも黒板ふきの延長上に見えてくる。
 ところが子どもが動きだす前に、先生が物差しなんか出したら「それこそおしまい」だ。大切なのは、見えたものを表現させることで、子どもの中にある長さの感覚を引き出し、育てることだ。最初から物差しなんか出したら、物差しがないと測れないということにもなる。外から張り付けた知識では生きた学力にならない。
 その感覚は大切な基礎だ。黒板ふき5つの長さは?となれば掛け算だし、一定の長さの中に黒板ふきがいくつあるか?となれば割り算だ。子どもが働き掛け、獲得する能動性があってこそ生きる学力になる。
 50年も算数の授業をやっているが、子どもが自分の言葉を発することが少なくなってきている。とても気掛かりだ。
 授業が子どもの活動を引き出すようになっていないからだ。子どもは教えられ通りになぞることが勉強だと勘違いしている。主役の子どもが自分を表現しなくても済むなんてどうかしている。子どもは観客ではない。
 子どもはドキドキしながら自分で働き掛け、結果にたどり着くことで、自分の発想の価値を実感する。まず子どもが動き出すことが大切なのだ。
 そのためには授業のはじめの一歩に「やってみたい」「調べてみたい」の「たい」が必要だ。どうしても知りたい、となればその問題は子どものもにとって価値あるものになる。自分の問題となれば、子どもは問題に積極的に働き掛ける。問題は先生から出されても、子どもにとっては自分の問題になる。
 「たい」があれば、つぶやきが出てくる。そのつぶやきを「すごいね」と先生が認めるところで子どもは成長する。
 先生は、子どもの「たい」を育て、動いたときに子どもを励ます言葉を磨いてほしい。

 さて、私は上記の文から特に大切な文を書き出してみた。
○見ただけで分かるときは、子どもはちらっと見るだけで終わる。
○子どもが動き出す前に、先生が物差しを出したら、それでおしまい。
○外から張り付けた知識では生きた学力にならない。
○子どもが自分の言葉を発することが少なくなってきている
○子どもは教えられた通りになぞることが勉強だと勘違いしている。
○「たい」があれば、つぶやきが出てくる。
などである。
では、このような授業を各教科の指導でつくるには、どうしたらよいか考えてみる。
◎一番大切なことは、課題、発問である。またそれをどのように子どもに提示していくかその手順も大切である。それには教師の教材研究がどうしても必要になる。教科書の指導書などは、系統的な指導が多く、子どもにとって、「何だ!これ」「ええ!おかしいぞ」「面白そう」「やってみるか」「挑戦するぞ」「友だちはどう考えるだろう」・・・などの気持ちは湧いてこない。
◎子どもの力を信じることが大切である。まず、少し難解な問題、抵抗のある課題を与えたい。つまり問題解決学習である。そこで子どもの思考力を付けたい。また、友だちと話し合わせたい。
◎子どもたちの力では、解決が無理だと思えたら、子どもの様子を見て、徐々に踏み台(ヒント)を与えたい。はじめから踏み台やヒントを与えないことである。そうしないと子どもはちっとも考えないし、解決するという楽しさや面白さは実感しないからである。

学校現場における教師の学びとは

2010-02-10 13:39:17 | Weblog
   【子どもの作品を前にして学び会う教師の姿】

 totoroさんの「教師も学び会う」のブログを読んで「教師が現場で学ぶとは、こういうことなのだ」ということを学びました。少し書かれていることを引用して,私なりに意義づけをしてみます。
○I君にいろいろとアドバイスしたり、教えたりしました。しかし、あるときそれが彼にとって重荷になっているのだと感じました。彼には彼の思いがあります。彼は彼の理想の通りに試みてみたい。・・・このことはどんな教師にも言えることですね。こういう気持ちが下地になかったならば教師は伸びません。ここで大切なのは,彼の思いや理想がどういうものであるかが明確でなくてはいけません。もっと言うならばその思いや理想が普遍的なものであることであると思います。
○互いに版画の作品ができあがり参観会用に廊下に張り出しました。そのとき、彼は1組と2組の作品を見比べて、色々と考えたようです。彼の言葉を借りれば「こわい!!」という表現でした。・・・ここで初めてI君は自分の力量不足を思い知ることになる。つまりI君は変わろうとしたのです。I君の立派なところです。このような状態になっても変わろうとしない教師はいっぱいいます。教師がよいものを見る,本物を知る,価値あるものを発見することなどの学びの大切さがわかります。
○算数や国語の指導は、壁の中で行われ直接比べることができません。しかし、絵は、一目瞭然です。廊下に張り出せば、どのクラスの指導が行き届いていて、どのクラスは指導が入っていないのかハッキリと結果が出ます。(おそらく、歌や、朗読や、器械運動などの表現活動は結果が目に見えて分かります。)・・・ここは斎藤喜博が次のように言っています。
・体育とか音楽とか図工とかは、教師の指導の結果が即座に出、それが他のどの教科よりも具体的に、ありありと教師にも子どもにも見える教科である。したがってこの教科においては、教師は逃げ隠れすることはできないし、言いわけをすることもできない。そういう意味で、教師が自分の力量を高めるにはもっともよい教科である。体育や音楽や図工の教師以外の人も、体育や音楽や図工の指導をすることによって教育とは何か、授業とは何かを学ぶことができるはずである。
 ・・・まさにtotoroさんの「教師も学び会う」のブログの内容はこのことを物語っているようです。
○そこからです。I君の態度が変わったのは。I君は、図工専科のO先生や私に、「今こんな作品に取り組んでいて、今、ここまできているのだけれど、これでいいのでしょうか? また、ここからどうやって指導したらいいのでしょう??」と自ら作品を持ってきてアドバイスを求めるようになりました。
 また、私の図工の時間に私の指導を見に来るようになりました。I君は、下絵の段階から、私にもO先生にも何度も作品を見せ、アドバイスを求めます。 
 また、I君はO先生に「ぼくの授業に入ってください。それで子どもたちにどんどんアドバイスをしてください。」とお願いします。・・・ここでもI君の素晴らしさが光ります。自分の力量をつける,子どもたちに力をつけるためには,どんな思いをしてでも学ぼうとしている。教師の一番大切な学びです。
 以上感じたことを書いてきました。Iさんの指導した子どもたちの版画は,私の入っている4つの学校の同じ学年の4年生いや5,6年生の作品をも大きく上回っています。
今,民主党の掲げている「教員養成課程6年制」でなくこういう学びをこそ現場でつくり出していきたいです。
 ※totoroさんの「教師も学び会う」のブログは、totoroの小道←検索してご覧ください。

教師の専門性と教員養成

2010-02-04 09:01:21 | Weblog

 
 教師の専門性について前ブログで私の考えを書いたが、その後こんな文章が目に止まったので記してみる。私も同感である。
 「体系的な科目設定と実践の観察で」早稲田大学教授 河村茂雄1月1日教育新聞より
○日本の教師のリーダーシップ行動の複雑さ
  英米の教師は、学習指導がその仕事の中心である。大学の教師に比較的近い。
 それに対して、日本の教師は、学級集団形成をしつつ、学習指導と生徒指導、そのほかの取り組みを統合的に行っていくのである。
 一つの授業の良し悪しは、学級経営の状況が反映されている。したがって、どんなにいい授業案があったとしても、それを授業案どおりに、いやそれ以上に展開させることができる学級もあれば、その授業案では授業を進められない学級もある。学習指導に生徒指導が密接に関係し、それを覆う形で学級集団の育成があるからである。
 日本の制度のもとでは、学習指導と生徒指導・学級経営は完全に独立した取り組みではなく、むしろオーバーラップしている領域がとても多い。複数の対応を関連付け、一貫性をもたせて対応していかなければならないのである。ここに難しさがあり、教育実践における一つの専門性がある。
○この専門性はどこで育成されるのか
 大学の学部では、教科に関する科目、生徒指導や進路指導、教育相談に関する科目がそれぞれ独立して開設され、学生たちはそれらの科目をそれぞれに学んでいく。
 それらの知識や技術をどう統合して対応していくのかという、学級での具体的な教育実践につながる全体的なストラテジーを教える体系的な科目は設定されていない。せいぜい教育実習で配属された学級の様子を3,4週間観察するくらいである。現職の教師も同様である。経験則が重視されている。
○これからどう育成していけばよいのか
 まず、大学の教員養成科目の中に、学級で具体的な教育実践につながる全体的なストラテジーとなる、学級経営についての体系的な科目を設定し、スタンダードな方法論を学習させることが急務であろう。現職教師には教員研修での講座内容に必修で位置づけていく。
 同時に、学生にはいい実践を行っている教師の学級での対応を、1日中、一定期間、観察学習させる。モデルはタイプの違う複数の教師がいいだろう。特に、学級担任制の小学校教師の養成には不可欠だと思う。
 現職教師は、やはり互いの普段の実践を見合うことだと思う。TTで入りながら、相互にモデリングしていくのである。

学校は変わらない

2010-02-01 14:45:53 | Weblog


 学校はハード面つまり、ハコものと制度はしっかりしているが、その中に流れるソフト、文化、芸術面が貧弱である。そして、どこの学校もほぼ同じである。
それぞれの学校の授業、行事等の文化が途絶えてしまったのか、それとも最初からなかったのか?。
 とにかく、その学校独自のものが少ない。その学校で練り上げてきたものが見あたらない。洗練されてきたものがない。
例えば授業では、どこも同じような方法で教えている。行事でもその内容がほとんど同じである。変な風に教育の機会均等になっている。
 これでは学校の質の向上は得られない。意識的に新しいものを見たり、価値観の異なるものを見たりしていかなければいけない。そういう努力をしなければ学校はいつまでも変わらない。