松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

文科省の官僚は学校現場で体験を!

2014-03-28 10:15:58 | Weblog
                 写真:斎藤喜博と美術教育(一莖書房)より




文科省の官僚は学校現場で体験を

 以前の拙ブログ記事に関連してであるが、文科省や一部知事などは学力テストの重視や英語教育の導入、道徳教育の教科格上げなど、学校教育の改革を矢継ぎ早にしつつある。今でも教科の指導が詰め込み式の授業になっているのに、これらが導入されるとどうなるだろうかと心配でならない。そりゃあ、いい加減に教育すればできるかもしれないが、これでは真の教育にならない。
 ところで、文科省の官僚は学校現場の忙しさをどのくらい知っているのだろうか。知っているならば、こんな矢継ぎ早な改革はしないはずである。もし、知らなければ、学校現場の体験を是非してほしい。多くの教科等の指導があり、生徒指導があり、部活動の指導があり、外部からの調査回答の提出があり、保護者の対応がある。ざっと指折り数えただけでもこれだけある。おそらく身をもってその忙しさが分かるはずである。
 現場の体験を少しでも分かっていただけたら、教職員の数を増やすことや、じっくりと子どもが考えたり、工夫したりすることができる教育改革をするだろう。そして、本省に復帰したならば、また違った改革もするだろう。  

桜・さくら・サクラ ・・・・・・・

2014-03-26 08:41:25 | Weblog


 この季節、私はいつも次の詩を思い出す。とっても好きな詩である


甃(いし)のうへ 「三好達治」


あはれ花びらながれ

をみなごに花びらながれ

をみなごしめやかに語らいあゆみ

うららかの足音空にながれ

をりふしに瞳をあげて

翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり



※ 古寺の桜が少女らに絶え間なく散りかかる、美しい情景を抒情豊かに映し出している詩である。 この季節にぴったりの詩だと思います。
  読み手である自分がまるで京都の古寺で、青空から落ちてくる桜吹雪の中を歩いている気持ちになります。私の好きな詩の一つです。





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カルチャースクールでマジックを教えてきました

2014-03-22 22:00:47 | Weblog

 
 昨日(21日)は、カルチャースクールでマジックを教えてきました。参加者は20代後半から30代の男女16名であり、マジックを通してコミュニケーションが自然に学べるという内容であった。
 驚いたことは、レッスンを始めてから10分もしないうちに、参加者の笑顔、会話、歓声、驚きの声が自然にあちこちから出てきたことである。
 これは、マジックのもつ効果でもあるが、マジックでなくても一緒に何かをやるということは、○○という対象が外にあるために、会話を考えなくても必然的に言葉や動きが出てきたのである。コミュニケーションの学びとして大変効果があると感じた。
 私も楽しく教えることができたし、また、学ぶことも多かった。       

マジックレッスンの内容(15:30~17:30)
1 割り箸
  ○ 割り箸が手に吸い付く

2 紙コップ
 ○ コップの底が抜ける

 ○ コップの中のお菓子

 ○ コップとボール

3 輪ゴム
○ 輪ゴムのワープ

○ 輪ゴムの賭

4 コイン
○ 割り箸とコイン

○ ポケットに飛び込むコイン

※どれも日用品を使ったやさしいテーブルマジックであったが、やはり初任者としては、難しいようであった。でも、何回も練習すれば必ずできるものでばかりである。諦めることなく確実に身につけていただきたい。そして、周りの人たちに驚きと笑い、楽しい会話つくりをしてほしい。多くの仲間をつくってほしい。
 参加者のみなさん、ありがとうございました。

幼稚園の卒園式と小学校の卒業式

2014-03-19 22:11:12 | Weblog


 昨日(18日)は私が24年度に勤務した幼稚園の卒園式に出席しました。昨年まで勤務していたので、卒園する子どもたちはみんな知っていました。私の顔を見てとても喜んでくれたので嬉しかったです。 
 幼稚園の卒園式は、保護者の多くが感動の涙を流します。子どもが小さいほど手がかかったので、保護者としては、いろいろな思いがいっぱいになるからでしょう。幼稚園の先生も同じ思いになります。

幼稚園では、多くの歌を歌います。

 ♪たいせつな たからもの♪

ここでいっしょにあそんだ ともだちを ずっとずっと おぼえていよう
たいせつな たからもの たくさんの ともだち

ここでみんなとうたった うたを ずっとずっと おぼえていよう  
たいせつな たからもの たくさんの うた

ここでみんなとわらった あのときを ずっとずっと おぼえていよう
たいせつな たからもの たくさんのおもいで  

たいせつな たからもの たくさんのおもいで


 今日(19日)は、小学校の卒業式に出席しました。子どもたちの作法を見たり、呼びかけの言葉や歌声を聴いて、とても素直な子どもたちだと感じました。子どもたち一人ひとりが、6年間の思い出をかみしめるとともに、すでに中学校に向けての気持ちが芽生えているようでした。

♪旅立ちの日に♪

白い光の中に 山なみは萌えて 遥かな空の果てまでも 君は飛び立つ
限りなく青い空に 心ふるわせ
自由を駆ける鳥よ ふり返ることもせず 
勇気を翼にこめて希望の風にのり
このひろい大空に夢をたくして

 卒業生も在校生も、よく声が出ていて、よい歌声でした。
 この時期は、わかれの季節で、さびしい思いになりますが、心の中に感謝の気持ちが生まれたり、希望の光がさしこんだりして好きです。




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学力テストの結果だけではないというが・・・・

2014-03-17 13:55:40 | Weblog

 
 国や文科省や一部県知事は、学力テストの成績向上を声高に発している。つまり、国語、算数などを中心とした知能教科である。そして、そう言う人たちに「他の教科はどうですか?」と聞くと、音楽、図工、体育なども同じように大事と言う。もちろん英語もそうだ。道徳も大切だから教科に格上するという。・・・・・・誠にその通りかもしれない。
 しかし、そこで思うのであるが、車には積載オーバーというのがある。もう荷台はいっぱいだから、これ以上荷物を乗せることはできない。乗せたらポロポロ荷物をこぼしながら走るしかない。危険である。しかも違反すれば積載オーバーで罰則になる。

教育で教師が子どもに教えなければならない教材の量はどうであろうか。子どもが学ばなければならない、身につけなければならない学習の量はどうであろうか。それこそ車でいう積載オーバーではないかと感じる。車の積載量は、目に見えるもの、量で計れるものであるので、歯止めがきく。しかし、教育の学びの量はそうはいかない。

教育の仕事は何から何までできるものではない。教師の数を増やせばよいとか、授業の時間数を増やせばよいというものではない。教えるのは教師、学ぶのは子どもたちである。
教える量が増えることは、教育の質の低下にも関係してくる。また、創造的な学びや子どもの主体的な学びにも関係してくる。・・・・ああ!いろいろ考えてしまう。



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阿蔵公会堂で手品をしました

2014-03-14 18:27:23 | Weblog


平成26年3月14日「阿蔵公会堂」で手品をしてきました。高齢者のみなさんと楽しい一時を過ごしました。

演 目  
1 シルクからステッキ → 手に吸い付くステッキ

2 バランス芸(ステッキ、新聞、箒、ラケットとボール)

3 運試し、5枚の封筒でやる

4 マジック
ア マジックインキ
イ 不思議なスケッチブック
ウ 3本ロープ
エ 耳を通るハンカチ
オ ペットボトルと花
カ 新聞紙のトランプ当て
キ リングと紐
ク コーラが消える、そしてビックリ箱
ケ ドミノ

5 クイズ
ア めん、そば、れんこん
イ ショッパン、あんパン、クリームパン
キ 外国人と100メートル走どっちが勝ったかな

6 ボールのジャグリング

7 皿回しを数人にやってもらう

※約1時間30分楽しくできました。


原発再稼働・・・利権を維持することと想像力の欠如によるもの

2014-03-11 21:36:31 | Weblog


 今日は3月11日、東日本大震災から3年になる。
 地震と津波による原発の大きな被害がありながら、原発を続けようとする政治家や経済界の一部の人たちは、いったい何を考えているだろうか。首を傾げてしまう。
 なぜか?まず考えられることは自分の利権を保持することと想像力の欠如であろう。
 その人たちも自分の家族や知人が被害に遭う、自分の近くに原発ができるとなれば、絶対に原発は反対するだろう。しかしそれが他人であればそうではない。他人の場合は、その苦しみが想像できないのである。いや、かりに想像できても自分の利権の維持のために真剣に考えないのではないか。原発から出るごみも同様である。未来の子どもたちのことを想像できないのである。
 このような人たちに日本を任せてよいのだろうか。ほんとうに不安であり、心配である。

教師の学びについて

2014-03-08 09:17:40 | Weblog


 広報誌小学校『国語教育相談室』(光村図書)81号の特集「言語活動を支えるコミュニケーション力」という標題で3人の編集者の先生方が語り合っている。参考になる教えがあるので書き出してみる。また、それらに対しての私の考えを書く。

教師の学びについて
 モデルという点では、自分自身、実感していることがあります。学生時代、卒論を書くために、恩師の先生の本を読みあさったのですが、そうすると、だんだん先生の考え方が乗り移ってくるんですよね。違う研究テーマ「先生だったら、この事象を前にしたらこう考えるはず」と考える。今でもそうです。それは引用ではなく、考える自分の中にあるということ。
 考える、つまり物事をどう関係づけるかということは、「自分の中にどれだけモデルをもっているか」によるものだろうと思います。いくつかのモデルを融合させて自分のものにしていく。

※まったく同感である。しかし、教師の場合、そのモデルを見つける機会が少ない。いや、モデルを見つけようとする努力をしないとも言える。
 公立の学校では、学校が倒産することもなければ、給料が減ることもほとんどない。言葉は悪いが、適当にやっていてもやっていけるからである。
 本当に自分がなりたいモデルがいれば、その人の姿を見たり、本を読んだり、直接教えを請うだろう。そうするといつのまにか、その人の考え方、声、しぐさまで似てくるものである。
 何事も理想とするモデルを持つことは、自分を成長させるために絶対に必要である。我流はその後にあるものである。

言語活動を支えるコミュニケーション力

2014-03-04 10:43:10 | Weblog


 広報誌小学校『国語教育相談室』(光村図書)81号の特集「言語活動を支えるコミュニケーション力」という標題で3人の編集者の先生方が語り合っている。参考になる教えがあるので書き出してみる。また、それらに対しての私の考えも付け加える。

・「話す・聞く」に関しては、声の出し方・話し方・聞き方など、型の指導はかなりされていますが、それが「~し合う」、つまり「話し合い」につながっていないんですね。
 話し合いでは、聞き手と話し手の立場が瞬時に替わり、自分が聞きたいことに絡ませて、話をしなければならない。ですから、型を教えるだけでなく、よい聞き手・話し手を育てるという意識を、教師はもつようにしたいものです。

・教室のみんなが必ず考えないといけない授業作りが望まれるようにする。

・相手の話したことについて知識や興味が全くなければ、「そうですか」としか返せない場合もあるでしょう。

・「僕は○○さんの意見に賛成です」ではなくその子なりの生きた言葉が大切である。活動のリアリティが必要である。

※ これらのことはどれも多くの学校の授業で言えることである。大変参考になる。しかし、これらを解決するには、具体的にどうするかが問題である。私が考えられることは、

1 教師が勉強しなければならない。教材の解釈をしっかり持つこと。
2 教材解釈により、教師が学習課題をつくる。同時に子どもも自分たちで学習課題をつくる。話し合いになる価値ある課題、興味深い課題をつくること
3 学習課題(問題)に対して、それをどのようにして解決するか、その手順や方法を子どもが知っていること。
4 教師は子どもの力を信じて任せること。どうしても行き詰まったら、小出しに解決のヒントを与えること。
5 子どもの話し合いには、できるだけ教師は口を挟まないこと。
6 教師は子どもの可能性を上げるために、到達点を上げるために子どもの気づかなかったことへの質問をすること。

などであろう。

教師は子どもの力を侮るなかれ

2014-03-01 18:24:29 | Weblog
     写真集『斎藤喜博と美術教育』から 堀江 優指導 矢越岬 5年生作品



教師は子どもの力を侮るなかれ

 やなせたかしさんは、出版社から「読者は小さな子供だからレベルをうんと下げて」と言われたけれど、やなせさんはそれを拒否した。アンパンマンを描くうちに幼児たちの恐ろしさが見えてきたからだ。
 彼らは「真っすぐな目」を持ち、「気に入らない本は放り投げる。冷酷な批評家」だ。やなせは自分のメッセージを子供たちに真剣に伝えることにした・・・・。

 もし、教師が子どもの力を軽んじて、子どもは馬鹿だ、大したことはないなどと、見下しているとすれば、教師が出す学習課題もやさしく、簡単に解けるものになるであろう。

 それは、読めば分かる、簡単に計算で解ける・・・などとなるであろう。自分で一生懸命考えたり、調べたり、友だちと話し合うこともないであろう。

 これでは子どもは一向に知恵がつかない、思考力がつかない、利口にならない、コミュニケーション力もつかないであろう。

その反対に、子どもというものは、見えない力を持っている、凄い存在である、侮ることができないなどと、教師が思っていれば、学習課題も価値あるもの、質の高いものになるであろう。
 子どもは、この問題を追求していくなかで、可能性をいっそう広げ、真の学びを感じ、学びの喜びを知ることになるであろう。