松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

授業観について

2009-11-29 19:10:29 | Weblog


 前回のブログで「授業がうまくできたとき」ということで私の感じていることを記した。今回は、著名の方の授業に関する見方等を掲載することにする。私の思いと同じである。

木村 正
○授業のすばらしさと楽しさは、なかなか職員室の話題には上がってこない。しかし、授業こそ学校の真髄である。授業研究こそ教師の生命である、というこんな明々白々した命題が、学校教育の現場でははっきりと認識されていない。
○授業を真剣に取り組む中に教育のすべての問題解決があるのだということを、わたしたち教師自信がしっかり知らなくてはなるまい。
                                                                                              
斎藤喜博
○どういう子どもを育てたいなどということが、相変わらず一般的な問題として論じられている。しかし、一時間一時間の授業を充実なものにしていけば、そんなことを一々気にする必要はないのだ。一般論で論じる以上にあざやかな子どもが、具体的な姿として生まれてくるのです。
○学校教育での授業は、いま一般に、教師や教育研究者が考えている以上に強い力を持ち意味を持っている。・・・・授業の持っている本質と力を発揮し子どもの可能性を引き出しつくり出すものになった場合は、他のうるさいこと、末梢的なことはほとんど不必要になると言ってよい。外面的な形式的な規則なども必要なくなるし、自分を拡大したり、自分を新しくつくり変えていったり、自分をよりよいものに規制していったりするようになる。
                                                                                               
林 竹二
○パンをもとめて石を与えられるような授業をくり返されてるうちに、ある種の子どもは、授業に背を向けてしまいます。いわゆる優等生やよい子はつまらないと思っても、適当に調子を合わせておとなしくしているが、つまらない、おもしろく感じていない、我慢のできない子どももいる。そこで拒絶反応をおこす。こういう子が問題をおこす。教師はそこに「理由なき」反抗しかみない。
                                                                                               
箱石泰和
○本校のサッカーは、埼玉のクラブチーム14が集まった試合に、たいした練習もせずに優勝をしてしまったのです。しかもその勝ち方は、1対0、0対0でPK戦というような、いつもきわどいものでした。・・・・・これは、普段の授業によって、一人ひとりが内側から鍛えられ、内容をもった強い子どもに育てられたと考えます。 
                                                                                               

 ※これらの文章を読んでもおそらく多くの教師は信じないだろう。自分でそういう授業をつくり出したり、実際に授業によって学校や子どもを変えた学校を参観したことがなかったりするからである。

初任者・若い教師へ 指導の基礎・基本4「授業がうまくできたとき」

2009-11-26 12:45:17 | Weblog


 私の長年の教職経験において「授業がうまくできたとき」以下のような自分の感想や学級の子どもの変容があった。改めて授業の大切を思う。
○授業がうまくできたとき、授業という仕事が、面白くやりがいのある仕事であり、一生つづけていきたいものであるとしみじみと思った
○授業がうまくできたとき、子どもと本当の意味で一体になれた幸せを感じた。
○授業がうまくできたとき、仕事の不安が一番とり除かれた。
○授業がうまくできたとき、部活動でよい成績がとれたときよりも嬉しく感じた。
○授業がうまくできたとき、子どもたちは明るくなり、素直になった。
○授業がうまくできたとき、子どもたちはどんな困難にも立ち向かっていくようになった。
○授業がうまくできたとき、子どもたちは挨拶がよくできるようになった。
○授業がうまくできたとき、子どもたちは大きな声で歌を歌うようになった。
○授業がうまくできたとき、掃除がよくできるようになった。
○授業がうまくできたとき、忘れ物が少なくなった。
○授業がうまくできたとき、子どもたちは、学校が楽しくなった。

追求することの大切さ

2009-11-22 09:05:20 | Weblog
表現「あほろくを演じる子ども」



masaさん、totoroさん、ゆきのさんに感動

masaさんは、
○「やまなし」の「ついていってみよう」の数行の中に答があると22人全員がその答えを追求しました。
○ビデオを撮ったのでまた見てください。自分なりの教材解釈も見てください。「見えていない点」を教えてください。
※ ほんとうに若いのに前向きで貪欲に学ぼうとしている。何かに書いてあった有名な言葉であるが「学び続ける教師だけが、教師としての資格がある」そのとおりだと思う。
 現場の教師は忙しさを理由に、本を読まない。自分から進んで研究会などに参加しない。新しいことを試みない。私の見てきた教師はほとんどそうである。masaさんは立派です。

totoroさん
○こっそり、国語の読み取りの授業をさせていただきました。一緒に国語を行うのははじめてなので、私もどきどきします。
○大げさに「すごい。」「君たちはすごい。」即座にほめます。
○「不幸せ」ってどういう意味??
「ふ  /   しあわせ」と切ります。「ふ」がつくと、おかしい。うれしいきもちが、反対になる。「ふ」は、反対にする言葉だ!!
子どもたちは、「例」を探し始めます。「不自由」と「自由」「不満足」と「満足」「不完全」と「完全」。一つの言葉の上に、不を付けた言葉が「ふしあわせ」だと話し合いが集約していきます。
○「悲しいとき」ってへんだよね。「悲しいときとは普通言わない。」
どういう時に「とき」を使うか、例文を作ってみよう。
がまくんも一日中ずっと悲しいと言うわけでないんだ。
○そして、つくづく思うことは、やっぱり、国語や算数を教えたいなあ。
※totoroさんの授業への憧れや願いの気持ちがこの文章で手に取るようにわかります。
また、授業の運びや発問の鋭さもわかります。子どもも集中しますよね。

ゆきのさん
○いまいち納得できないでいます。
○あと半分が、うまくはねられないのです。
○サカイ先生のページのビデオを何度も見直しています。
○何かいい知恵がありましたら教えてください。
※ゆきのさんでもできないことがある。そして、だれからでも教えを請うことをしている。さすがですね、凄いですね。見習いたいですね。
 台上腕立て前転は、台上で腕立て前方転回をするのですか?「転」は「はねる」ですから、たぶんそうでしょう。
 私は高校生の時に機械体操をしていたが、腕立て前方転回は、着手の前のホップと目は天を見ること、着手は腕を突っ張って身体を上にバウンドさせること、腹をそらすこと。などが原則のように覚えている。しかし、技や体力がある大人でしたらこれでいいかもしれないが、子どもの場合は無理だと思う。
 斎藤喜博は、腕を車のリムのように使いなさいと言っている。リムとは辞典で調べると「車の外周をなす環状部分」とある。そうすると外周ですから、カーブがある。つまり、肘を曲げること、そしてその曲げた肘を伸ばすことによって身体を上方または前方に引き上げることだと考える。
 体操選手の場合は、肘は曲げない、逆に突っぱねる、ここに大きな違いがある。もう一つは、「はねる」ということ、これも斎藤喜博は大切にしている。「はねる」=「あおぐ」でしょうか。特に難度のあるマットや跳び箱運動は、この2つの指導によって、どんな子どもでもできるようにしてしまっているように思う。しかし、これは言うはやさしいが、指導が難しい。子どもが体感でき、実際に身体を動かすことができてはじめてできることだからである。この「リム」と「はねる」はもっと私たちは研究しなければならなと思う。
 地上での転回ができたら、台上でしますが、(逆かもしれませんが?)、要するに台上では、高く跳ねて、着手と足の位置が同じ高さにすることが大切である。だからmasaさんの指摘のように、初期の段階では、ロイター板を使うのも手かもしれません。

 何と言ってもmasaさん、totoroさん、ゆきのさんの文を読んで感動したのは、「追求」していることである。追求こそ、人間の命、学問の命、教育の命、授業の命のように感じる。


国語の授業を考える

2009-11-20 15:30:33 | Weblog


  前回のブログで「ある国語の授業から」ということで掲載した。最後の私の感想では、「読み取りに際して、子どもが重要な発言をしているのに教師は気づかない。またはそのことについて教師が気づいていると思われるのに、子どもに考えさせようとしない。・・・これでは、授業の中で、子どもも教師も変わらない。」というようなことを書いた。そこで、今回はそれに関して、引き続いて記してみる。
 ここでは、授業によって「子どもが変わる」「教師が変わる」ことの重要性を大きく2つの文章から引用する。私の考えを書くよりも著名な方の考えを掲載した方が説得力があると考えるからである。
※の部分は私のコメントである。

① 教材解釈が私たちの授業、つまり「追求方式の授業」の要である。これはさまざまな教育思想から区別すると考えられる。その教材解釈は、教材について単に知識を蓄積することでなく、教材について常に新しい見方や謎を発見していくことである。
※「追求方式の授業」とは、ある授業研究組織の考え方である。私もこの考え方、実践に賛同し、影響を受けている。
  教師の教材解釈がしっかりされていなければ、文章として書かれていることの真意をつかめないし、また、子どもの発言をより分けたり、子どもに問題を投げ掛けたりすることもできない。

② 多くの教育論が教師の側には教授方法しか想定していない。非常に簡単に言うと、教師がすでに分かっていること(思っていること)や事柄を子どもへ伝えていくようなたぐいの教育である。つまりここには教師から子どもへという一方的な情報の流れしかない。教師は学ばず変化せず、子どもだけが変化する。両者が変化していくこと。これが対話的という言葉の意味である。
※これは私が長年教職の仕事をしてきた経験の中で「なるほど、そのとおりだ」と感じている。現在もいくつかの学校に入っているが同様である。

③ 今教師の学び論というのは結構はやりなのだ。特に佐藤 学氏の学びの共同体論の系譜、あるいはそれの理論的な基盤である協働的学習の理論の中で、そうである。しかし、端的にいえばそこでいわれている教師の学びはマツゾフのいう教授法学習以上のものではない。
※マツゾフとは、ヴィゴツキー派教育学である。
 佐藤 学の考え方は、ほとんど賛同できるものばかりである。しかし、実際にその筋の授業を見ると、その考え方と異にしている。特に、それは、教師の教材解釈の不足からくるものと思われる。

 上記①②③は「子どもの学び教師の学びー斎藤喜博とヴィゴツキー派教育学」宮崎清孝著より

① 分校で参観した6年生20人の国語の授業は、大江さんにとって特に印象深かった。「ほぼ2行ほどの文章」について先生と子どもたちがくりひろげる話し合いは熱を帯び、議論は「その時間いっぱいと翌日の国語の時間いっぱいかかって、しかもなおすっかり解決した」というところまでいくことはなかった。「教室で困ってしまって考えこんでいる先生を美しく感じた」のは初めてであった。

② 子どもたちのものの考え方を立体化し、かれらを新しい考えの局面にみちびくことは、そばで見ているぼくに、いわば芸術的な感動をあたえるものだった。教師が子どもたちの葛藤にまきこまれて新しい解決をさがしもとめているように、参観者のぼくもまたその葛藤のなかにいるのだった。
と、大江さんはこのように書きとめている。

上記①②は、事実と創造「教師のこころの扉をひらく」佐久間勝彦著より
※ここでの大江さんとは、作家の大江健三郎氏のことである。
  以上を引用して私が言いたいことは、教師の教材解釈の大切さである。私が見てきた授業は、私も含めて、教師として教材の解釈をあまり、いやほとんどしていない場合が多かったようである。つまり、教師は何をしてきたかというと指導書を読む、教科書の赤本を見るとういようなものですましていた。教師が自分で教科書を読み、どこを問題にするか、そして、その問題をどう解釈するかの部分が欠落していた、もしくは不足であったといえる。
  これでは、授業の中で「子どもも教師も変わらない」と思う。


ある国語の授業から

2009-11-17 15:57:55 | Weblog


 ある小学校で国語の授業を参観する機会があった。その授業は教師が子どもの発言をよく聴き,大切にしていた。子どもたちも友だちの考えをよく聞き,積極的に発言していた。子どもたちの考えの中には,すばらしい宝物がたくさん出ていた。よい授業であった。
 授業後の全体会では講師の小畑公志郎先生(東海国語教育を学ぶ会)が授業分析をしてくれた。以下,その時の先生のお話しと最後に私の感想を記す。

○ 全体に教室、子どもがやわらかい
○ 全員が音読が終わるまで聞いていた。終わった子は、文章を指で追う、一緒に口ずさむのがよかった。
○ 教師は復唱を避けて、子どもたちが「つなげる」学習にもっていっている。
○ 自由発言と指名により進められた。
○ 何年生だから○○ということではない。1年生でもできるのである。
 これを積み重ねていけば中高学年でさらにすごくなる。
○ 教師が出過ぎず、待つことが大切である。
○ 教師と子どもの関係がダメだと何をやってもダメである。
○ 今日の場合は、学習の集中度がよかったから、10分も超過しても大丈夫であった。しかし、原則として45分で終わりたい。数名はもう飽きている子どもも見えた。
○ つなげようとしているのはよい。ただし、「○○さんと同じで」とか「○○さんにつけたして」は、くせ者である。教師はこういう子どもの発言があると喜んでしまうが、内容を聞いていると「同じ」とか「つけたし」とは言っても、違うことをいっている場合がある。教師はよく聴かねばならない。つまりほんとうに「同じなのか」「つなげている」のかである。
○ 子どもの読みや発言に対して、拍手はしないほうがよい。意見がつながらなくなる。拍手で終わってしまう。自然に子どもから出るのはよいが。
○ 「近くの人と話して」では、一人になる場合があるので、「隣の人と話して」と言ったほうがよい。ペアやグループ学習は一人一人の学習を保証するためにもある。
○ できるだけ子どもの席は中央に寄せたほうがよい。中央につめること。その方が集中する。
○ 席替えは教師がする。特に、教師から見て、右すみには、集中に欠ける子どもは置かないこと、次に左すみ、それから外回りには、置かないこと。教師と糸が張れる子どもは後方や外側でもよい。
○ 「それはどこに書いてある?」の教師の質問は悪くはないが、根拠のないものは聞かないほうがよい。
例 1年生「くじらぐも」
「先生と1年2組の子どもたちはどうしたんだろうね」と聞けばよい。これは文に証拠があるからである。
○ 会話文は、誰が言っているのかよりも、誰に言っているのかが大切である。① 相手があって相手に言っている場合 ② 相手にも自分にも言っている ③ 自分に言っているのケースがある。
○○が言いましたが、あれば言っているととってもよい。また、会話文でも声に出しているかいないかも問題になる。以上のようなことを問題にしたほうが登場人物の心情を読むことができる。
  例
   ちいちゃんのかげおくり「お母ちゃんとお兄ちゃんはきっと帰ってくる」
   大造じいさんとガン「おーい、ガンよ」
   わらぐつの中の神様「わらぐつは丈夫でしっかり編む・・・」
   ごんぎつね「ごん、おまえだったのか。いつも,くりをくれたのは」
  教師自身がどのように読んでいるかが大切である。
○ ノートを読んでいるときよりもノートを見ないで発言しているときのほうが発言の内容がよい。ノートを読むときには、ノートに書いてあることしか言わないし、誰に対して言おうとしているかもわからない。
  ノートを読むと発言がつながらなくなる。ノートはコピーや印刷して配り子どもに読ませるとよい。


 上記の指導があり大変勉強になった。しかし、1つだけ気になることがあった。例えば1年生の中心授業では、ほとんど教師は聞き役にまわり、授業は淡々と進んだ。
 確かに子どもたちは、よい発言をしていた。私ならそれを契機にして、子どもたちに考えさせたいことがいっぱいあった。
 授業後の全体会では小畑先生はこのことには少しもふれることはなかった。授業としてこれでよいのかという疑問が残った。
 授業とは、他者の考えを聴きながら、自分や学級の考えを変えていくという大きなねらいがある。また、教師としてさらに正確で高い解釈を子どもたちに獲得させるということもある。そういうことがなかったからである。

詩の朗読の実践10「冬の夜道」

2009-11-14 10:53:51 | Weblog

部屋の整理をしていたら、詩集が2冊出てきた。私が30代半ばの頃(昭和55~58年)子どもたちに詩の朗読を指導しようとしてつくった詩集である。
 4月から3月までの年間計画を立て、毎日「朝の会」などに朗読を指導した。その時の子どもたちは6年生であった。
 子どもたちは、喜んで詩の朗読をした。1人で、2、3人で、群読で、立ち位置を考えたり、身体で表現したりして朗読した。今でも子どもたちの素晴らしい読みと、その動きが鮮やかに蘇ってくる。
 11月には4つの詩の朗読を指導している。
冬の夜道(津村信夫)山への思慕(田中冬二)・鹿(三好達治)・初冬(村野四郎)



冬の夜道    (津村信夫)


冬の夜道を
ひとりの男が帰ってゆく
はげしい仕事をする人だ
そのつかれきった足どりが
そっくり
それをあらわしている

月夜である
小砂利をふんで
やがて いっけんの家の前に
立ちどまった
それから ゆっくり格子戸をあけた

「おかえりなさい」
土間に灯りがもれて
女の人の声がした
すると それにつづいて
どこか へやのすみから
一つの小さなこえがいった
また一つ
また一つ べつの小さなこえがさけんだ
「おかえりなさい」

冬の夜道は 月が出て
ずいぶんと あかるかった
それにもまして
ゆきずりの私の心には
あかるい一本のろうそくがもえた

授業研究の会(新城の会)

2009-11-07 18:42:51 | Weblog


 11月7日授業研究の会(新城の会)があった。毎回のことであるが、出席してみて大変よい勉強になることを感じる。これは出席してみないとわからないことである。官制機関の研修では絶対に得られない勉強ができるからである。
今回も若い教師が参加してくれたのでよかった。特に、若い教師たちに子どもの幸せ、教師の幸せをつかんでほしい。
研修の内容
1音楽:合唱(落葉)指揮の仕方等
2体育:器械運動の実践発表
3音楽:合唱指導の実践発表
4図工:描画、版画の実践発表
5国語:「わらぐつの中の神様」教材解釈

授業をするにあたり

2009-11-02 10:26:50 | Weblog
  

○ 授業をするときは、何かに挑戦していくということが大切である。そのときそのときにこれを心がけようというものを持つこと、たとえば、その一つに「聴く」こと、二つに「テキストに戻す」その三に「ペアやグループ学習を取り入れる」などということである。教師として育つということは、やることしか始まらないので、こういうことを積み重ねていく中で、授業は確実につくられていく。

○ 物語を読み取らせるとう意識でなく、どこで学びが生まれているか、どこで学びが滞っているのか、それを感じ取りながら進める。

○ よく子どもの発言を聴いていれば、この時間で読むための大事なきっかけは子どもが全部出してくる。

○ 教師がそういう聴き方をしてると、子どもの横の関係が生まれてくる。横のつながりはどうやったら作れるのかと多くの教師は思う。けれども、それは作るのでなく、教師が聴くことによって生まれてくるものである。

○ 「聴く」ことについてであるが、
① 共感的に受け止める
 C 「うれしそう」・・・ T 「ああ、うれしそう」
 T 「うん、なるほど」
② やわらかい雰囲気
 T 「今の、ちゃんと聞いたか?言うてみろ」でなく「もう一回聞いてみようか」
③ つなげる
  T 「今の○○さんの言ったこと、わかる?」
 T 「ほかにないですか」でなく「ちがうの教えて」
 子どもの意欲的な気持ちは、こういう先生のリアクションのあり方で生まれるのである。このようなリアクションは、べらべらべらべらしゃべっている先生からは生まれません。しゃべりながら聴くというような2つのことは同時にはできません。自分の言葉を惜しみながらじいっと聴くということで、こういう対応が生まれるのである。

○ 「どこから?」「どこが同じなの?」ということばをあまり使わないこ と。そういう言葉を教師がもっともっと減らしていかなければならない。聴き合っていれば、必ずつながっていくからである。

○ 教師は子どもの発言の受容に「タメ」があること。この「タメ」が子どもの思考を深くする。横のつながりをつくる。
○ 子どもの発言は、「教材との関係」「他の子どもとの関係」「その子の前の発言との関係」その3つを教師は聴きわけていくこと。

○ ペア、グループ学習の意義
① 教師の介在なしに学び合える状態をつくり出す。
② クラス全体の学び合いをつくり出すみなもと
③ 1つの答えを見つけるのでなく、お互いの考えを聴き合う(この班は,
はどういう考えになりましたか?はあまりよくない。)
④ それぞれの考えをより明確にしていく。
⑤ 全体の中では発言できない子どもの意見を聞くことができる。
⑥ すべての子どもの学びを促進する。
⑦ その他

○ 文章には書いてないけれど、文章の奥にあるものを感じ取っていくことも大切である。その際にはできるだけ、具体的で、その子ならではの発見がよい。みんな同じような概念的な感じ取り方ではだめである。自分の生活の中から関係づけたり、概念的なものを自分の言葉で言い換えたりしたい。

○ 「わからなさ」を出発にしてじっくり考えを進めていくこと。わからなさこそ宝物である。

○ 「できた人?」から「困っている人」へ、と声かけをする。
「教師にとって遠い子どもから声かけをする」
「遠い」とは距離的にでなく「黙っている子ども」や「目立たない子ども」のことである。

○ 学びのテンポはゆっくりと
教師は教えること考えさせることを急いではならない。

  「子ども・ことば・授業18」石井順二より