松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

学習は「適当」から始まる

2019-08-29 10:44:55 | Weblog
○ 「さまざまに考える」→「多くを出し合う」→「真理を求める」
何かわからないときは、どうする。先生に聞く、友だちと話し合う。そのとおりです。では、両方ダメと言われたらどうする。カンニング、それはダメ、今から先生が問題を出します。相談はダメ、質問もダメ、もちろん人のを見てはダメです。約束を守ってくれる? みなさんにはA4の紙が一枚あります。それに   
① 上と下に三角を3つ書いてください。 
② 次に大きな○を書いてください。
③ 次に1本の直線を書いてください。
 どうでしたか、書けましたか。見せられない。自分のを見て不安になる。友だちのを見て不安になる。消したくなる人もいる。それは当たり前です。みんないろいろなのです。みんなちがう。考えていること、心で感じていることみんな違うのだから違ってあたりまえです。
 どれが正しいとか正解というまえに、友だちのちがう考えを受け入れることが大切です。友だちのちがう考えや気持ちを理解してやることが大切です。そうすると安心して勉強も生活も遊びもできるのです。
 国語の勉強で算数の勉強で、みなさんはいろいろな考えを出します。みんな最初は違うのです。そこから出発するのです。それがなかったら前にすすみません。まちがった考えも出してもらわなければ、正しい答えを見つけることができません。 今日の問題で先生が求めたかった正しい答えは、「おでん」です。こんな正解は最初から1人もいません。みんなで活発に意見を出し合って「おでん」を見つければいいのです。そのためには、間違ってもよいからどんどん自分の考えを出さなければいけません。
 まちがった考えを出すことはいけないことだとか、まちがった考えを笑うことはいけないことだということに気づきましたか。これからお勉強ではどんどん自分の考えを発表して、正しい答えを求めることができるように協力しなさい。それが本当の勉強というものです。



※第95回「浜松授業研究の会」は2019年9月21日(土)9:00~12:00
 場所は浜松市天竜区「天竜壬生ホール」の2階会議室です。多くの参加者を願っています。

※学校・学級づくり、授業づくりに協力します。お声を掛けてください。研修での講話や体験型研修をボランティアで行います。ホームページ「浜松授業研究の会」のお問合せ、ご連絡に記入してください。または、このブログのコメントに記入していただいても結構です。

新学習要領・・・陥りやすい指導について

2019-08-02 10:26:35 | Weblog

2020年からの新学習指導要領では、小学校の英語の教科化、道徳の教科化、プログラミング等の導入で、現在でも過密な教育課程がいっそう過密になる。そうなると、どんどん教科書をこなしていかなければならなくなる。これでは子どもは育たないし、教師も力量がつかない。そこでどのように授業をしたらよいのか事例(国語指導)をあげて説明する。

Q こんなに時間をかけていては教科書は終わらないのではないか
A こういうたぐいの意見はつねに出てくる。こういう意見はつねに一定の「栄養」のバランスと分量を第一にすえる発想だから、話がうまくかみあわない。しかし、授業を受けた子どもの方が私の意図に共感してくれることが多いので救われるのである。
○ 一つの短い俳句から、45分間の授業ができるということに驚きました。
○ ひとつの俳句について深いところまで考えたり、またみんなの感想を聞けてとてもよかったと思う。
○ ひとつの俳句を1時間かけてやるって、すごいやりがいがある。
 などの子どもたちの感想文がそのことを示してくれる。
  子どもは「甘いものが好き」なのではなく「うまいものが好き」なのだ。「味」さえわかればあとは、子どもが自分で意欲的に他の俳句にも取り組んでいけると考える。
深く追求していく学習は、「上位生」だの「下位生」だのということは問題になってこないことが多い。むしろ日ごろ国語が「不得意」な子どもの方が、おもしろい、よい意見を出してくれることも珍しくない。
「ひとつの俳句を1時間かけて」みんで力をあわせて攻め落とすような学習作業自体が、今日の学校においては「非日常的」になっていることである。だが、毎日はおろか、週に1回でさえむずかしいかもしれないが、こうした「非日常的」授業がときおり入ることによって、「日常の授業」もよりよく生きるのではないだろうか。

A 教科書が薄くなるほど、授業での教師の努力は大変になるはずである。たとえば俳句1句だけを教材として、1時間の授業を構成してみるばあいを考えてみるとよい。少なくも百句くらいの研究をしたうえでなければとても授業がもたないであろう。(それは1句に対して百句を引き合いに出すのではなく、百句の素養を1句に凝縮して授業を展開する、ということである。)ところが1時間に十句とりあげれば、その十句につてひととおりのことを調べておけばそれでなんとか授業の表面だけはつくろえる。つまり、教材は精選すればするほど教師がその本質を深くとらえていることを要求されるのである。つまり教材や教材の核を絞れるということは、逆に言えば、かぎられた部分に十分時間をかけられるということは、その教師の力量が大きいからこそ可能なはずである。だが、一般には教材が減れば、それに要する授業時間が減り、あるいは単位時間当たりの教材量(授業密度)が小さくなるかのように誤解されているのではなかろうか。
教材は与えられるものという考え方は教師には根強い。それがこれまでの教育課程行政のしからしむところである。教材は教師が作り出すものだ、だから教師が成長する。
よい教科書はもとより必要であるが、それを生み出す場が実は授業なのだとまで考えられることこそが、いまほど必要なときはないであろう。



※第95回「浜松授業研究の会」は2019年9月21日(土)9:00~12:00
 場所は浜松市天竜区「天竜壬生ホール」の2階会議室です。多くの参加者を願っています。

※学校・学級づくり、授業づくりに協力します。お声を掛けてください。研修での講話や体験型研修をボランティアで行います。ホームページ「浜松授業研究の会」のお問合せ、ご連絡に記入してください。または、このブログのコメントに記入していただいても結構です。