松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

堆肥のはいっていない畑のような教師

2013-12-26 09:07:06 | Weblog

斎藤喜博 その著『私の教師論』によると

教師が堆肥のはいっていない畑のように、こちこちで固く、やせて貧相にみえるのも、意地が悪いのも、表現力が豊かでないのも、人間的なゆらぎがないのも、みなそういうところに原因があったのであろう。しかし、絶えざる自己脱皮ができ、自分を変えていくことができない限り、子どもの可能性を引き出すような、ひびき合いのある授業がきできないことを思えば、これからの教師は、何をおいても、自己脱皮ができ、自己変革のできる、豊かな柔軟な人間に自分を変えていかなければならないだろう。

※この文は、前回のブログに書いたものと共通しているようである。多くの教師の現実の姿を示すとともに、自己変革の大切さを述べている。私も同感である。


教師の偏狭・独善

2013-12-22 16:42:39 | Weblog

斎藤喜博 その著『授業入門』より

母親や芸術家の授業参観は私たちにはいちばんありがたい。それは母親とか芸術家とかは、私たちがくだくだと説明しなくても、授業や子どもを見て、直裁にその本質を見ぬき感動したり批評したりしてくれるからである。だめな教師は、そういうことをしない。いつでも自分の主観で見たり、ものをいったり、せんさくしたり、「××的だ」などと、自分の持っている既成の概念にあてはめたり、「こうなった方法を教えてください」などといったりする。実践から出た「自分」を持たないから、事物や人間の底にある本物が見えなかったり、見ようとしなかったり、ただ形式や方法を教わって帰ろうとしたりする。そういう教師が私はたまらなくいやだ。そして、そういう教師に限ってひどく怠け者でもある。

※私も現役教師のときに同じようなことを感じた。公開授業などを参観して、私は感動して「ああ!すばらしい子どもたちだ、すごい先生だ」などと思っても、素直にそれを認めない先生もいる。「話し合いばかりして、ノート指導がなかった」とか「一つの課題だけを学習しただけではないか」とか「教師は座って授業をしていた」などなどの屁理屈をいうのである。それが、その教師ではとてもこのようなすごい子どもたちを育てることができないとわかっていても言うのである。そんなときほんとうに偏狭、狭小な教師だと感じた。こういう教師は、一生よい授業、よい子どもたちをつくることができないと思ったりもした。

天竜厚生会 さいわいデイ・ケアセンター で手品をしてきました

2013-12-18 11:25:34 | Weblog


平成25年12月17日
1クイズ
○ソバ、メン、レンコン
○餅はなぜカビが生えるか
2シルクからステッキ
3バランス芸
○ステッキのバランス芸
○クリスマスイルミネーションのバランス芸
○門松を立てるバランス芸
4フランスのレストラン(テーブルクロス引き・シャンソンの音楽、蝶ネクタイで)
○ミジカイジュボン、ナガイジュボン
 イチタシュニタシュサンタシュ
○置いてあったローソクを消す
○紙袋からワインボトルを出す
○花を飾る
○パンを出す
○ハトの焼き鳥(ハンドファイヤー使用)
○缶ビールを出す
○ゆで卵を出す。黄色いシルク使用
○テーブルクロスを引く
5カエル(3匹)のモンテ
6シルクが右耳から左耳に出る
7ジャグリング
○玉
○クラブ
○謎かけ問答
さいわいデイ・ケアセンターとかけて、素敵な洋服と説く、その心はまた着たいなー

※ここは3年ぶりであった。お年寄りが相手なので、単に手品を見せるだけでなく、クイズや面白い話をしながら頭の体操も同時にやった。とても楽しくできてよかった。

第38回 「浜松授業研究の会」研修報告

2013-12-14 21:27:06 | Weblog


研究会テーマ:~「教師が変わる、授業が変わる、子どもが変わる」~

1開催場所 天竜壬生ホール第2議室

2開催日時
平成25年12月14日(土)9:00~12:00

3研修内容
(1)自己紹介及び近況報告

(2)研修内容

○教育の考え方を学ぶ
・授業を中心とした学校づくりの具体化について
・小学校の英語教育の賛否について
・学力テスト向上に資する授業とは
・「思う」と「考える」の違い

○教科研修
国語
・2年生 物語文「スーホの白馬」教材解釈と授業展開、具体的な発問など

図工
・3年生  描画「海爺」・・・和紙を使った新しい表現、味のある作品となった。
・4年生  木版画「鍵盤ハーモニカを吹く」・・・4年生とは思えない作品
・5、6年 木版画「銀河鉄道」・・・継続指導の効果が現れた作品
・3、4年 描画「歌う顔」・・・日頃の成果が作品展での入賞となった。
・6年生  描画「ランドセル」・・・6年間の思い出が詰まったランドセルの作品で素晴らしい。

音楽
・2年生 歌唱「落ち葉」・・・歌声で学級づくりをする。すべての子どもが全身を駆使して歌い、その姿は感動的である。2年生でこれだけの歌が歌えることに希望を持つ。

体育
・5、6年生「徒手体操」「組み体操」・・・笛の合図によらず音楽に合わせて子どもたちが主体的に表現する。時間差により体操が次々と展開されて、見ていて楽しくなる。新しい組み体操の表現の一つと言えよう。

○その他
今回も多くの参加者があり、実践報告も提示してくれて大変よい勉強になった。忙しい中であるが、自分の力を伸ばすために遠方から駆けつけてくる若い教師に感心した。また、本当に力がついてきたことを嬉しく思った。

4今後の活動
第39回 浜松授業研究の会の開催
 平成26年1月18日(土)9:00~12:00天竜壬生ホール第2会議室

5その他
この会の研修内容や実践の証、考え方は下記のブログをご覧になれば、おおよそ理解できると思います。検索してください。
○浜松授業研究の会(ホームページ)・・・参加方法や日時、研修の様子、各教科等の実践が掲載されています。
○totoroの小道
○松明光明





第38回 授業研究の会(浜松の会)の御案内

2013-12-09 10:15:55 | Weblog


第38回 授業研究の会(浜松の会)の御案内


~「教師が変わる、授業が変わる、子どもが変わる」そんな研究会です~

 一つの授業にじっくり時間をかけて取り組んでいない。何をしても中途半端な授業になってしまっている。やっつけ仕事になってしまっている。おそらく大半の学校の教育の実態でしょう。
 それがあまり問題視されず、改善されないのは、子どものほんとの力の凄さを知らないからです。子どものほんとうの力を引き出すような授業の経験が少ないからです。だから子どもを見くびって「これでよし!」と思っているのでしょう。または、そう感じていても、どうしたらよいのかその方法を知らないからでしょう。これらの解決は、校内研修だけではなかなか困難です。同僚や先輩教師に教えを請うても難しいことです。私の今までの長い経験で感じていることです。
 この浜松の会では「教師が変わる、授業が変わる、子どもが変わる」をテーマとして研修しています。ここでの学びは、具体的であり、実際的であり、実質的なものです。それだけに確実に得るものがあり、上記のテーマの実現が可能です。
 この会は、偏向的な教育や思想はしていませんので、安心して学ぶことができます。どなたでも自由に参加できます。まだ、参加されたことのない方は、是非覗いてみてください。
 多くの皆さんの参加をお待ちしています。

1 開催日時
  平成2013年12月14日(土)9:00~12:00

2 開催場所
  浜松市天竜壬生ホール第2会議室
  ※時間厳守ではありませんので参加できる時間で結構です。
  ※服装は自由です。
  ※駐車場はあります。

3 研修内容
○ 国語、算数を中心とした各教科
○ 音楽、図工、体育などの実技教科
○ 学級づくり
○ その他
   本研究会の学びの特徴
  ・具体的な教材とか写真とかDVD、テープとかの事実を対象にして考える。
  ・参加者からの実践があればそれをもとにして考える。
  ・音楽、体育、図工、その他の実技をする。

4 準 備 物
 ○ 実践したもの(ある人)
 ○ 教材研究をしてほしい教材がある人(10部印刷持参)
 ○ 筆記用具
 ○ 国語辞典
 ○ 会費 200円

5 この会の研修内容や実践の証、考え方は下記のブログをご覧になれば、おおよそ理解できると思います。検索してください。
 ○ 浜松授業研究の会
 ○ totoroの小道
 ○ 藍色と空色と緑のページ(各教科等の実践が掲載されています)
 ○ 松明光明

6 次回の予定
第39回 2014年1月18日(土)9:00~12:00天竜壬生ホール第2会議室




若い教師と学校

2013-12-06 09:50:18 | Weblog


斎藤喜博 その著「教師の自由と責任」のなかで次のような記述がある。

  ことしも、各小学校や中学校や高等学校には、新しく教師になった若い人たちが赴任していっている。その人たちのなかには、「ようやく教師になれた」という思いでいっぱいになっている人もいるかもしれない。高等学校のときから教師にあこがれ、「素晴らしい教師になるのだ」と、心をもやしつづけていた人たちである。(中略)
 ある小学校へいった教師は、職場があまりにも事務的であり形式的であり、、子どもとか教育とかの話は少しも出さないことに驚いていた。その学校では、県とか国とかから指令のきたことだけを形式的にやるだけで、自分たちで考えたり研究したりすることはお互いの約束で禁止しているというのである。(中略)
 どんなに素質を持った人間でも、教師としての能力は自分一人でつくり出すことはできない。やはり現場のなかにおり、職場の中で自分の仕事をし、それをもとにして共同の仕事や研究をすることによってつくり出されていくのである。


※今はここまでひどいことはないとは思うが、しかし、若い教師の勉強になる環境ではないようである。特に一番大切な授業においてそうである。それは、今の熟練教師も中堅教師も授業の勉強をあまりしてきていないからである。これでは若い教師を育てることはできない。
 私の若いころは、全国に非常に優れた実践を世に出していた学校や民間教育団体がたくさんあった。私は自費で何度もそういく研究会や学校公開に参加した。そして目の覚めるような授業や子どもたちの姿に憧れ、自分の授業を変えていったものである。


学校教育の機能・特徴

2013-12-02 14:55:43 | Weblog


 斎藤喜博は、その著「教育の演出」のなかで次のように記述している。

 私の学校へはじめて1年生を出した若い母親が、「家で一人でいるときより、学級の中でみんなといっしょにいるときのほうが、どの子どもも美しく見える。」といっていたことがあるが、これは学校教育の特徴をみごとに指摘していることばである。学校というところは、そういうところだ。ひとりでいるだけでは自分の持っている可能性の出せないそれぞれの子どもたちが、学級とか学校とかの集団のなかにはいると、おたがいにひびき合い交流し合うことによって、相互により大きな力を出すようになってくる。その結果、顔も生き生きと美しくなってくる。それが学校の特徴であり、学校が持っている機能である。

 私も同じようなことを感じる。ひとり一人の持っている力は小さいかもしれないが、互いにふれあい、交流することによって、ひとりでは発揮できない力があらわれるものである。これは授業においても遊びにおいても同様である。そしてこういうことをいっそう意図的にすすめることが学校教育の果たす役割でもあると思う。しかし、今もそうであるが、国や文科省はさらにこれらと逆行するような教育の施策をとろうとしている。ほんとうに教育が分かる人がいるのであろうかと首を傾げたくなる。