松明 ~光明を指し示して~

暗闇を照らし赤々と燃える。が、自身が燃え上がっては長くはもたない。火を消すことなく新しい松明へと引き継がれねばならない。

2学期の始めに~その2~

2011-08-30 09:12:11 | Weblog



 学級づくりのあれこれ「いつもやっていることを見直して考えてみる」ことが大切です。以下のことに注意をはらってみてください。そして、教師は徹底して指導することです。これは学期始めだからこそ効果のある指導になります。

○ 授業は、明日からでなく始業式の日から始めよう。授業で子どもをつくることが大切です。

○ 「話を聞きなさい」よりも「こちらに目を向けて」の指示のほうが効果的、対象に目を向ければ、無駄話はできませんからね。

○ 「前にならえ」「気をつけ」はいりません
自分の意思で列の間やよい姿勢をつくらせること。リーダーが前に出て、ハンドサインで並ぶのもダメですね。ボーイスカウトではありません。いつも命令されて動く子どもをつくっていませんか。

○ 発表するときに立たせるのも賛成しません。座ったままでよい。そのかわり他の児童は発表者をしっかりと見るようにさせるとよいでしょう。

○ 活動させたら、すぐに評価すること
例えば朝のかけ足が終わったら、何周走ったかクラスの全員に聞くこと。1~2周しか走らない子どもは、何回も聞いているうちに、変わっていくでしょう。評価は通信簿や授業案に書くだけのものではありません。何かをしたらすぐに評価するようにしましょう。

○ 課題を与えたのに「先生」「先生」と叫ぶ子どもは、無視ぐらいしてもよい。いつも話が一回で聞けない子どもをつくります。

○ 前に出て発表する子どもは、しっかり友だちを見て話すようにさせる。
「はずかしい」とか「できない」とかをいつまでもそのままにしておいては、絶対にできません。

○ 教師は全体を見ながら、子どもの反応に気遣いながらいつも授業を進めること。
せっかくの教師の話が、教師の思いだけの話し方では、子どもの中に入っていきません。

○ 質問したら、必ず答えさせる。挙手できない子どもがいたら選択問題にする。あるいはグループで話合いをさせる。挙手するときに「はい」と言わせない。

※  ここに掲げたことの中で、無理なことだと思われる先生がいると思います。これは実践し続けて成果のでないうちに、または、何もやらないうちにダメだと考えるからでしょう。これでは、何も変化していきません。また、明日からとか、来週からとか、月が変わったらというように実践を先延ばしするのもやっぱりダメです。今日からすぐに実践しましょう。


2学期の始めに~その1~

2011-08-26 13:25:09 | Weblog



いよいよ夏休みが終わり、来週から2学期が始まる学校が多いだろう。そこで2学期のスタートで大切なことを記してみる。

朝の子どもたちの迎え方にはいろいろある。教室で教師が子どもたちを挨拶と笑顔で迎える。それがベストである。しかし家庭や通勤の事情でそれができないこともある。そんなとき、一言でよいから黒板に「今日を迎えた喜びや希望」「子どもたちへの指示等」を前の日に書いておく方法もある。子どもたちはそれを見て、教師の愛情を感じ、ほっとした気分になったりもする。また、今日はどんな予定があり、そのためにどうすればよいかが理解でき、行動に移すこができる。教師は少し大変かもしれないが、結果的には子どもの指導がスムースにできて、教育効果を上げることができる。

○ さあ、2学期が始まったね。先生はみんなを待っていたよ。がんばろうね!
○ 静かに聞いて深く考える。そんな2学期にしよう。
○ 第2学期始まる。スポーツの秋、勉強の秋、さあ!思いっ切り活動しよう。 
○ 澄んだ青空 澄んだ心 勉強のチャンスだ!!
○ 学習に スポーツに 努力しよう

2011-08-23 20:40:44 | Weblog





蝉が鳴いている

哀しくもあり

尊くもあり

上の言葉は、近くのお寺の掲示板に書かれていたものです。


5月にハルゼミ、ミンミンゼミ

6月にニイニイゼミ、アブラゼミ

7月にクマゼミ、ヒグラシ

8月の後半にツクツクボウシが鳴き出す

ああ、夏も終わりだなあ~

何となく寂しいものである。

教育メモ~グループ学習、個別学習について

2011-08-18 21:10:56 | Weblog


 グループ学習や個別学習は、「一斉授業」の基盤に立ってこその個別化である。
子どもの学習・行動が変容していく過程である典型が、一斉授業にあるとすれば、
その学習形式が個別の学習形態の基礎ともなるはずなのである。そのような教師や
子どもの訓練を抜きにして、学習の個別化や多様化をいたずらに実施しても、ほん
とうに成果が得られるかどうかはなはだ疑問である。

読書メモ~ひとつの教材に時間をかける授業

2011-08-16 14:39:44 | Weblog



 こんなに時間をかけて授業をしていては教科書は終わらないのではないか
 こういうたぐい意見はよく出てくる。こういう意見はつねに一定の「栄養」のバランスと分量を第一にすえる発想だから、話がうまくかみあわない。しかし、授業を受けた子どもの方が私の意図に共感してくれることが多いので救われるのである。
○ 一つの短い俳句から、45分間の授業ができるということに驚きました。
○ ひとつの俳句について深いところまで考えたり、またみんなの感想を聞けてとてもよかったと思う。
○ ひとつの俳句を1時間かけてやるって、すごいやりがいがある。
などの子どもたちの感想文がそのことを示してくれる。
  子どもは「甘いものが好き」なのではなく「うまいものが好き」なのだ。「味」さえわかればあとは、子どもが自分で意欲的に他の俳句にも取り組んでいけると考える。
深く追求していく学習は、「上位生」だの「下位生」だのということは問題になってこないことが多い。むしろ日ごろ国語が「不得意」な子どもの方が、おもしろい、よい意見を出してくれることも珍しくない。
「ひとつの俳句を1時間かけて」みんで力をあわせて攻め落とすような学習作業自体が、今日の学校においては「非日常的」になっていることである。だが、毎日はおろか、週に1回でさえむずかしいかもしれないが、こうした「非日常的」授業がときおり入ることによって、「日常の授業」もよりよく生きるのではないだろうか。

読書メモ~教材解釈について

2011-08-11 20:36:34 | Weblog




 日常的な授業を変革していくために、いかに教材のとらえ方が重要かということがわかるであろう。「よい」教材を選んだとしても平板で一般的な「借りもの」の解釈をとおりいっぺんに行っていたのではどうにもならない。まず教師は自分の主体をかけて教材と「出合う」ことが必要である。
授業で本質的に必要なことは、いったいこの教材で何を教えたいのか、なぜこれを選ぶのか、ということがぎりぎりまで考えぬかれていることである。それは単に将来なにかの役に立つから、とういうような功利主義のレベルを超えた何ものかを持っていなければ教育にならないであろう。単に「そこにあるからだ」式の授業には、子どもも教師もともどもにあきあきしているのである。
そこで大切なことは、子どもにとってどうだから、という以前に、まず教師自身にとってどうだから、という視点、つまり教師と教材との共感(出合い)がもっとも重視されねばならないであろう。

「分かる」「できる」「教える」

2011-08-05 21:26:17 | Weblog



 学習でも習い事でも「分かる」→「できる」→「教える」という段階はとても大切である。
 よく授業で教師が「分かりましたか?」と聞く、子どもは「分かりました」と答える。それで次の学習に進むことがある。これは、くせ者である。本当に子どもはどこまで分かっているのか怪しいからである。
 そもそも「分かる」というのは、筋道がはっきりするということで、どうも頭の中の理解といえるようである。頭の中のことを、実際に行動に移し、十分に納得はしていない段階であるようである。 
 では、「できる」とはどういうことなのか。「できる」を辞典で調べると、形をとって表れるという意味であった。頭の中の分かったことが、事実として、生まれる、発生する、ことである。つまり、頭の中で理解したことが、そのとおり形となって表れることである。
したがって、「分かる」よりも「できる」ことが大切である
 では、「教える」とはどういうことか、教えるとは、自分が身につけていることを他者に身につけるように導くことである。これは、教える者が、本当に「できる」という状態でなければ、他者に教えることはできない。しかも分かりやすく手順よく教えなければならないのである。
子どもが子どもに教えるということは、とても意義のあることである。

ビジョンを持ち、実行する

2011-08-01 21:19:32 | Weblog



 臨床心理学者・河合隼雄さんの著書〈心の処方箋〉に「絵に描いた餅は餅より高価なことがある」という一章がある。要約するとこんな話だ。「絵に描いた餅という表現がある。これは、見かけはともかく、何ら現実的価値はもたないという意味で使われる。どんなに上手な絵でも、腹の足しにはならない。しかし、例えば、東山魁夷画伯の描かれた餅の絵ならどうだろう。本当の餅の値段などは比較にならぬ高価なものになるであろう。絵に描いた餅の方が現物よりはるかに価値をもつのである。 何でこんな当たり前のことを言うかというと、日本人はどうしても絵に描いた餅を過小評価する傾向があるからだ。絵に描いた餅とはビジョンであるとも言える。現物の餅つくりに心を奪われるあまり、餅についてのビジョンをもつことの大切さを忘れるのである」
その章はこう結ばれている。「食べることのみにあくせくせず、絵に描いた餅の鑑賞力を磨くことを心がけることが、これからますます大切になることだろう」・・・なるほどとうなずかせる内容である。
                                 草柳大藏著「午前8時のメッセージ」より
 さて、学校の教育活動においてビジョンともいえる「ねらい」や「子どもの姿」を掲げて取り組んでいる。これはとても大切なことである。ただ、わけもなく教育したのではダメである。「少人数の授業(2学級を3つのクラスに分けてやる指導)」や「ティームティーチング(複数の教師による指導)」では、このような授業にしたい。「運動会」や「持久走大会」での子どもの姿はこのようでありたい。「水泳大会」や「陸上大会」「音楽発表会」では、このように頑張らせたい。子どもの「言葉遣い」や「あいさつ」はこのようにできるようにしたい。・・・など学校の各教育活動が、どんな「ねらい」で「子どもの姿」はどうあったらよいのか、また、そのために「教師の指導」はどうあらねばならないのかを考えて実施していかなければならない。以下そのビジョンともいえるものを記してみる。
1 授 業
○ めあてに向かって、あきらめずに考えていく子 
○ 自ら課題をもち、進んで調べ解決していく子
○ 自分と友だちのよさを知り、認め合い高め合っていく子
○ 自分の思いや考えを豊かに表現できる子
2 行 事
○ 学校全体で行う共通の活動を通して、学校の勢い、所属感、連帯感、楽しさなどをダイナミックに引き出すことにより、子どもを力強く育てる。
3 部活動
○ 放課後の練習を通して、体力、技術、心を鍛える。また、対外的な競技や発表の機会を通して、他校の友だちと競い合ったり、楽しく交流したりする。
4 基本的な生活習慣
○ 家庭や地域とともに特に「あいさつ」「言葉遣い」「規則正しい生活」を育てる。