地図を見ると(私は京都の事情に詳しくないので)祇園の街は四条通で北と南に分かれているようである。その北側を川幅10メートルもない白川が流れている。この川は歴史舞台にも登場する名のある川なのだそうだが、明治・大正期の文化にもそれなりの貢献をしたようだ。
白川が鴨川に注ぐ少し手前に、巽橋という木橋がありその辺り、川沿いには昔のお茶屋の姿を残す建物が並んでいる。
京都盆地の端に近いのだろう、流れはそれなりの勢いがあり、川にせり出すようにして建てられた建物からは川の音が耳元で聞こえるだろう。
川の反対岸には結構大きな碑が据えられているのだが、説明書きのようなものは見当たらない。じつは吉井勇の詩碑であり「かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水の流るる」とある。この場所にはいささかの縁のある歌なのである。
この場所には「大友」というお茶屋があり、明治末から大正、昭和にかけて幾田多佳という女将がいた。多佳は藝妓のころから文学などに趣味があり、尾崎紅葉や巌谷小波の作品を愛読したという。谷崎潤一郎は始めて京都を訪れた明治末に知己を得、「幾田多佳女のこと」という随筆を残している。以下は、そこから得た話を元とするものである。
多佳女(谷崎はこう呼んでいる)は舞鶴藩の武士と、京都の藝妓との間の子だという。芸者に出ていたので音曲の道に詳しかったという。また詩や俳句や書などをそれなりの人について学んだと言うから、相当に教養のある人だったのだろう。大正六年には夏目漱石が京都に彼女を訪ね、持病の胃痛をおこして二日もお茶屋に泊まったりしている。詩碑を書いた吉井勇とも親交があり、勇の歌は元々は「かにかくに祇園は嬉し酔ひざめの枕の下を水の流るる」であったようだ。多佳女は二十六七までは芸者に出ていたが、その後は退いて、画の師匠の愛妾であったり、旅館の主人の側室であったり、またお茶屋の女将であったりしたようだ。
旅館の主人の側室の時代には陶器を扱う店を出したりもしたようだが、その旅館の主人というのがまた絵なども上手な文学好みの人間で、多佳女を妾扱いなどせず、同じ文学趣味を有する友人に対するような振る舞いであったという。また、画の師匠との関係もあくまでも弟子の範囲であったという人もいるようだ。
谷崎は流石に品が良く、その辺りの真相を無理やり探るようなことはせず、その時代の呑気な趣味に生きた生活の実践者として多佳女を描いている。
お茶屋の「大友」の建物には大変な工夫と洗練があったようだが、戦争末期に建物疎開のために取り壊された。後には詩を記した碑が残るのみである。
詩碑から直ぐの料亭を京都在住の先輩に紹介していただいた。実にそれらしい構えである。
川に面した二階の座敷に通された。
まずは、冷えたビールで。その脇は白和えのように記憶しているが。
グラスには数の子に空豆。下は穴子寿司。ちょうど笹の葉の影になってしまったが、塩辛も。塩辛はどうもウルカのような感じだ。
おつくりは、魚を寝かせる技法を用いたものと思われる。身が適度に柔らかく、風味も豊かだった。その辺りの管理も見事。
季節らしく鱧がでた。
焚き合わせは視覚的にもとても美味しい。
茶碗蒸しはひんやりとした冷製。じゅんさいが、いかにも時期をものがたる。
お待ちかねの鮎。解禁直後の小ぶりのものである。
丁寧に取った出汁が使われていた。なお、冷酒をグラスでいただいたので、杯は伏せたままとなった。
こちらは天麩羅。コースの中で主張しすぎないように、計算された感じである。
まだ、竹の子御飯がお終いになっていなかった。
デザートはスイカ。
この日は、しつらえ、料理ともに京都を満喫した。
白川が鴨川に注ぐ少し手前に、巽橋という木橋がありその辺り、川沿いには昔のお茶屋の姿を残す建物が並んでいる。
京都盆地の端に近いのだろう、流れはそれなりの勢いがあり、川にせり出すようにして建てられた建物からは川の音が耳元で聞こえるだろう。
川の反対岸には結構大きな碑が据えられているのだが、説明書きのようなものは見当たらない。じつは吉井勇の詩碑であり「かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水の流るる」とある。この場所にはいささかの縁のある歌なのである。
この場所には「大友」というお茶屋があり、明治末から大正、昭和にかけて幾田多佳という女将がいた。多佳は藝妓のころから文学などに趣味があり、尾崎紅葉や巌谷小波の作品を愛読したという。谷崎潤一郎は始めて京都を訪れた明治末に知己を得、「幾田多佳女のこと」という随筆を残している。以下は、そこから得た話を元とするものである。
多佳女(谷崎はこう呼んでいる)は舞鶴藩の武士と、京都の藝妓との間の子だという。芸者に出ていたので音曲の道に詳しかったという。また詩や俳句や書などをそれなりの人について学んだと言うから、相当に教養のある人だったのだろう。大正六年には夏目漱石が京都に彼女を訪ね、持病の胃痛をおこして二日もお茶屋に泊まったりしている。詩碑を書いた吉井勇とも親交があり、勇の歌は元々は「かにかくに祇園は嬉し酔ひざめの枕の下を水の流るる」であったようだ。多佳女は二十六七までは芸者に出ていたが、その後は退いて、画の師匠の愛妾であったり、旅館の主人の側室であったり、またお茶屋の女将であったりしたようだ。
旅館の主人の側室の時代には陶器を扱う店を出したりもしたようだが、その旅館の主人というのがまた絵なども上手な文学好みの人間で、多佳女を妾扱いなどせず、同じ文学趣味を有する友人に対するような振る舞いであったという。また、画の師匠との関係もあくまでも弟子の範囲であったという人もいるようだ。
谷崎は流石に品が良く、その辺りの真相を無理やり探るようなことはせず、その時代の呑気な趣味に生きた生活の実践者として多佳女を描いている。
お茶屋の「大友」の建物には大変な工夫と洗練があったようだが、戦争末期に建物疎開のために取り壊された。後には詩を記した碑が残るのみである。
詩碑から直ぐの料亭を京都在住の先輩に紹介していただいた。実にそれらしい構えである。
川に面した二階の座敷に通された。
まずは、冷えたビールで。その脇は白和えのように記憶しているが。
グラスには数の子に空豆。下は穴子寿司。ちょうど笹の葉の影になってしまったが、塩辛も。塩辛はどうもウルカのような感じだ。
おつくりは、魚を寝かせる技法を用いたものと思われる。身が適度に柔らかく、風味も豊かだった。その辺りの管理も見事。
季節らしく鱧がでた。
焚き合わせは視覚的にもとても美味しい。
茶碗蒸しはひんやりとした冷製。じゅんさいが、いかにも時期をものがたる。
お待ちかねの鮎。解禁直後の小ぶりのものである。
丁寧に取った出汁が使われていた。なお、冷酒をグラスでいただいたので、杯は伏せたままとなった。
こちらは天麩羅。コースの中で主張しすぎないように、計算された感じである。
まだ、竹の子御飯がお終いになっていなかった。
デザートはスイカ。
この日は、しつらえ、料理ともに京都を満喫した。
吉井勇の歌は存じていましたが、此処に詩碑が在るのですか。
新山、趣のある佇まい。
お料理は器に媚びず味は一流と見ました♪
谷崎が戦後間もなくに書いた一文に、両側に格子作りの茶屋や置屋が並んでいる町の姿は、明治の頃とあまり大して変っていない・・とあります。詩碑は白川沿いの大友の建っていた場所にあります。
新山の特に座敷のロケーションが素晴らしかったです。もちろん、料理も流石でした。