17世紀半ばに後水尾天皇はこの地に離宮を造営された。
20年に渡って比叡山を借景とする離宮に適した土地を探し歩き、ついに定めたのがこの土地である。
よく晴れた日ではあったが、午後も遅めで水蒸気が立ち込め、明るさを庭に定めると肉眼でははっきりと見えていた比叡山が写真では飛んでしまう。
離宮の姿を伝える御幸御殿とその庭は、たとえ借景の山が見えなくても、ただ者ではない雰囲気を漂わせている。
後水尾天皇はその後修学院離宮を造営され、さらにその後にこの地を禅寺とされた。修学院離宮はこの庭とは規模が大きく違うが、月を愛でるために南側の空を広く取った借景庭園の形や、中離宮の石組など、この庭と相通じるところがあるようにも思われる。
20年に渡って比叡山を借景とする離宮に適した土地を探し歩き、ついに定めたのがこの土地である。
よく晴れた日ではあったが、午後も遅めで水蒸気が立ち込め、明るさを庭に定めると肉眼でははっきりと見えていた比叡山が写真では飛んでしまう。
離宮の姿を伝える御幸御殿とその庭は、たとえ借景の山が見えなくても、ただ者ではない雰囲気を漂わせている。
後水尾天皇はその後修学院離宮を造営され、さらにその後にこの地を禅寺とされた。修学院離宮はこの庭とは規模が大きく違うが、月を愛でるために南側の空を広く取った借景庭園の形や、中離宮の石組など、この庭と相通じるところがあるようにも思われる。