ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

ホームドクター

2004-09-09 | 乳がん
我が家のホームドクターは、佐藤先生という。
佐藤先生の父上が、以前近所に開業していたので、
そのご縁で通うようになった。

胸に痛みがあったり、しこりを見つけた時に行った アノ総合病院
との 違いは、
・入院できない
・往診してくれる
・医師はひとりだけ
・いつ行っても、たいてい空いてる
・こちらの顔と名前と体質のあらましが 頭に入れてもらってある
などだろうか。

だいぶ前のこと、近所の若い奥さんに
どこの医者にかかっているのか、と聞かれたことがある。
「どこどこの、佐藤先生よ。」
「ああ! あの医者、ヤブでしょう!」
が~ん!
知らなかった、ヤブだったのか。

それでも アノ総合病院は 
元気なときじゃないと かかれない、と知っているから、
変わらずに通っていた。
そして、思った。
この先生でいい、と。
ヤブでもいい。

息子を抱いたまま
幼い娘を 小さい丸いスツールに座らせると、
娘の目の位置にまで 小さくかがんで、
「○○ちゃん。 こ ん に ち は 。」
と 最初のごあいさつ。
気難しい娘が 怖がらずに お返事をしてる。

小児科は 標榜してないのに、息子は 生まれたての頃から
たびたび やっかいになっている。
息子みたいに 小さいのは、ご迷惑では、と聞くと、
「きちんとした専門病院の方がいい場合は、
 私から どちらの病院にでも 紹介しますから。
 どうぞ 気になさらずに。」
と おっしゃって、
ずっと、家族四人で お世話になってきた。

実際、ここから 他県の病院や アノ総合病院などに
紹介してもらって 移った人も 近所に大勢いる。
あるおばあさんは、
自宅療養していたスキルス胃がんの夫を
アノ総合病院に入院させるとき、
佐藤先生が 救急車を呼んでくれて、
「私が一緒に乗っていきます。」
と自ら救急車に乗り込んで、一緒に行ってくれた、
どんなに心強かったか、
と何年たっても、ありがたがっている。


最近、「ゲート・ドクター」という言葉を
目にした事がある。
地域の医療機関において、
診察し、診断し、
適切と思われる医療機関に 紹介状を書いて
回してくれる医師のことで、
診断の正確さや 決断の早さなどが 必要とされる。
それによって
大病院の 殺人的(!)混雑を 救う、という
使命もある。
自身の収入面などを 第一に考える医師には
勤まらないに違いない。

佐藤先生に そのような意識が
あったかどうかは わからないが、
充分 ゲート・ドクターの役割を
長く果たしてこられた。

我が家は全員、
お腹を壊しても、風邪を引いても、
佐藤先生である。


私は 4週間に いっぺん、
アレルギーの 薬を いただきにゆく。
入院前にも、いただいてきた。

退院後に 行った時は、
乳がんのことを 話した。
隠してもしょうがないし。
知っていていただかないと困るし。

「なんという先生ですか?」
と聞かれ、主治医の名前を告げると、
知っている先生だ、とおっしゃる。
「山口県出身のかたですよ。」
そんなこと、知りませんよ。
「早口でしゃべる先生なんですよ。」
と私。
「そう、そう。」
同じ医大の出身で、
同じ病院で働いた事も あるらしい。
へー。
こんな事もあるんだ、偶然ねー。

2003年 2月10日、
佐藤先生の治療にもかかわらず、
私は 放射線治療を休んだ。
これで 放治の最終日が またずれた。

2月12日、
まだ微熱がある。
今日は外来へも行く。
病院へ行く事はできても、
帰ってこれる自信がない。
亭主に車で連れて行ってもらう。

マスクをしたまま、診察室に入る。
いつものように、
テキパキと 話がすすむ。
しっかり聞かないと、
早口なので、聞き漏らしそうで、緊張する。
4週間に一回の リュープリン注射を 続けたいと告げる。 

話が終わり、ほっとして 立ち上がった時に、
「インフルエンザじゃないだろうね。」
と声がかかる。
「私のホームドクターは・・・」
余分な話になると思い、言い出せなかった佐藤先生のことを
かいつまんで 口に出すと、
「ああ、○○男ちゃん。」
とおっしゃる。
「どこに行っちゃったかと思ったら、
 そ~んな所にいたのか。」
同じ病院で、アルバイトをしていたらしい。
研修医時代のことなのだろうか。

親近感がわいたけど、
先生の話の聞き取りづらさは、
それからも変わらなかった。