ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

オリンピックによせて

2004-08-22 | 考えたこと
連日 日本選手の予想外の活躍で テレビのスイッチが 
なかなか切れないでいる 私です。
録画じゃなくて、ライブで見たい。
名場面は 何度見ても 感動しますが、
じんわり 寄せてくる 静かな感動さえも、
ライブならではのものが あります。

特に、
特別好きでもない柔道で、
塚田真希選手の
「負けか!?」
と思った、次の瞬間の 逆転に、
感服しました。
金メダルです。

それまで 流してきた汗や
悔しさや 迷いや 後悔や・・・
いろんなものが 彼女にも あったでしょう。
そんなことを 
表彰台の上の 彼女の表情に 重ねて 考えると、
じ~んと してしまいます。

せっかくですから、君が代を聞きながら、
日の丸の掲揚を じーっと 見てから 休みました。

そして
日の丸を見ながら 思った事。
こうして 日本の選手が 活躍して、
君が代が流れて、
日の丸が 揚がることを、
東南アジアの ほとんどの国々は、
同胞の活躍、とばかりに 喜んで見てくれては いないのかしら。

私だったら、
高校野球では 
関東の高校の活躍、
それでなければ 東日本の 勝利を 期待して 応援しますし、
オリンピックでも 
ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカの 諸国ではなく、
アジアを 応援して見ています。
特に 東アジアの国々の活躍は、
身内の活躍のように 嬉しく思います。
イラクで 人質に取られ、犠牲となった民間人が 
今度は 韓国の人だった、と知った時の 胸の痛みは、
明らかに 欧米人の時のそれとは 違って、
やはり 身内の痛みのように 感じました。

それでも 東南アジアの諸国は 
日本憎し、の思いが強くて、
私が 今 感動している この場面で、
不快感を あらわに、あるいは 憎しみの瞳で、
あるいは 怒りの 言葉を発しながら 見ているのでしょうか。

台湾の 黄霊芝という 俳人は、
日本語で 俳句、小説、詩、短歌などを 表現してきたので、
公的な発表の 機会を失ってきたそうです。
日本語を使うこと、それが 批判の対象になるのです。

古田博司という人が いうには、
東アジア諸国において、
「近代国家の歴史は 日本への抵抗から始まったものであり、
 反日は 修正不可能な、いわば国是なのだ」から、
私たちは 敵意を持たれている、
「はっきりそう覚悟を決めてかかった方が良い。」
       
そうして彼は
「不協和音の原因は、彼らの側からの 
 バッソ・オスティナート(執拗に繰り返される低音)
 なのではないか」
という。           (2004.8.18 夕刊 10面)
バッソ・オスティナートという言葉は 始めて知ったけれど、
以前オウム真理教で 初めて耳にした サブリミナルのような
効果が あるのかしら。

反日が 国是。
バッソ・オスティナート。
執拗に繰り返される低音。
だとすると、日本が アジアの中で
まるで 鬼のように 嫌われる事態は、
そうそう変わりそうにない。
戦後の日本に起きたような、
価値観の器を ひっくり返すような 革命でも 
起こらない限りは。

願はくは、
スポーツの祭典などを通して、
彼らの 心情を 幾分かでも 和らげる事が できますように。
(ワールドカップの共催に際して、
 ウルトラス・ ニッポンと レッド・デビルズの間に、
 友情の 芽生えが あったように。)
彼らに 冷静に見る目を 持つことが 必要だと、
認識してもらえますように。
彼らの目に、現代日本人の ひとりひとりが
独立した 個々の 素晴らしい人間に 見えますように。
自立し、責任感を持った 日本人が 増えますように。
そして、
なにより、
世界に 平和が 訪れますように。