ジョルジュの窓

乳がんのこと、食べること、生きること、死ぬこと、
大切なこと、くだらないこと、
いろんなことについて、考えたい。

MY 乳がん―入院中

2004-08-08 | 乳がん
日ごろ おさんどんを している者にとって、
入院は 悪いことばかりでは ない。
なにしろ、黙って 座っていれば、
いや、寝ていても、
三度の食事が 運ばれてくる。
デザートが 付いてることもある。
週に一度、週末に 
麺類が出たり、パンが出たりもする。
なんと、湯飲みに お茶までついでもらえる。
足らなければ、給湯室に、
お湯の入ったポットも、お茶の入ったポットもある。
冷蔵庫も あるから、
名前を書いた アイスクリームを 入れたりもした。

なぜか 人に 作ってもらった 食事というのは
美味しいもので、
私は 毎食 残さず 食べていた。
でも、なんとなく 食後の お腹が 重いなあ
と感じていたら、
屋上で 出会った人が、
「あれは、男のひとの 《並》なのよ。
 アタシ、半分にしてもらったわ。」
という。
そうだったのか!
どうりで。
看護士が 「多くない?」と 何度も 聞いてくるわけだ。
で、
半分にしてもらったけど、
別段 早く お腹がすくわけでも なかった。
やっぱり、ちょっと 多かったみたい。
もう少しで、胃拡張に なるところだった。
もともと 決して 小さい方じゃないのに。

そうして、
おさんどんを 退院後にもする者は、
病院の食事の内容を、よく見て 参考にしようとする。
まさか、がんセンターの 食事が、
癌に 悪いわけは なかろう。
肉が出たり、魚が出たり。
お肉も、悪いわけじゃ、ないんだー。
ただし、お肉の時は、一緒に お野菜も 煮付けてあったりして、
野菜や こんにゃくの 量も 多い。

2002年12月13日(金)
5時に目覚め。
良い天気。
日の出を待つことにする。
(それで起きだすなんて、普段じゃ考えられない)
日の出を見ようと、談話室に行く。
次々と 入院患者が やって来た。
太陽は、赤々と して 昇ってきた。

談話室の隣の部屋に 新しく入ってきた 乳がん患者、
H さんもいた。
昨日入院したそうだ。
木曜入院、月曜の手術。私の 一週間おくれ。
――もう 一週間たったんだ。

H さんは、フツーの がん患者で、
つまり、自分が 癌に なったことに、
まだ とまどっていて、
手術を前に ドキドキしている 様子。
私にいろいろ聞いてくる。
教えてあげたい と思うが、
教えてあげられることは、驚くほどなほど 少なかった。
つまり、どうも 彼女は、手術中のことが 不安だったようだ。
「痛くなあい?」
「痛くないです、麻酔で 寝てますもん。」
「ああ、そう。
 ねえ、痛くないの?」
「痛くないですってば。
 気が付いたら、手術は 終わってんですから。」
「ああ、そうね。
 でも・・・心配だわー、大丈夫かしら。」
「何がですか?」
「何がって・・・。ねえ・・・大丈夫?」

あんまり、わかりあえなかったみたいです。
手術中のことは、覚えてないし。
彼女のがんは、2センチだそうで、私は、ガッツポーズをして、
「勝った! わたし、3センチ!」
とやっていたら、
隣で聞いてた 若いオジサンが 口を挟んできた。

このオジサンは、声がステキな、
医薬品関係の会社に お勤めの 方で、
皮膚の移植でもしたのか、体中あちこちに 手術の痕が あった。
「ボクは、少し 知識もあるから、
 毎月 決まった日に、奥さんの むねを 触って、
 乳がんの 検診を してますよ。」
「私、自分で 気が付いたんだけど、
 こんなに大きな 癌が 胸に できてるなんて・・・
 知らなかったわ。」
と H さん。 
「私も 自分で 触って 見つけたんだけど、
 亭主は、オレは 全然気がつかなかった、って、
 ショックを受けてたみたいですよ。」
と私。
「だから、触り方が あるんですよ、こうやって・・」
「いやだわ、私、全然 気がつかなくて・・・」
「自分のおっぱいのことなのに、
 他の人に 先に 気が着いてもらいたか ないですね。
 退院したら、毎月 自分で 調べましょうね。」
「そうねえ・・・」

こんな おしゃべりの後、
H さんは 自分の病室に 私を 招きいれてくれた。
Good location !!
富士山が 部屋の窓から、よく見える !
白く 雪化粧をした、Mt. 富士!!
美しい !!!
談話室の窓からは、横ちょのほうに、やっと見える富士山が、
実にいい角度で、窓の フレームに 収まっている。

 
H さんは、私と同じ広さの 個室に 入りたかったのだけど、
空いていなかったんだそうで、
私の部屋を お見せしたら、
「いいわねえ。」「いいわねえ。」
富士山の見える部屋の方が、よほどいいのに。
もう、見せてあげない!


この日は 午後に 屋上へ 出たけど、風もあって 寒く、
すぐに 引き返した。
同級生の病棟を ぐるっと回ったりして、
3時には 靴を履いて、外へ。
どんぐりを 拾う。

夜になって
亭主と 子供達を 一階の 出入り口まで、 見送りに。
そこで、一生懸命 私たちに 挨拶をしてくれている、
見知らぬ 男性がいる。
よーく 見ると、
白衣を 脱いで コートを着た T 医師だった。

この医師は、
入院後に 医師たちが かわるがわる 私の胸を、いや、癌を
触りに 来た時に、
一番 痛かった人。
手術前夜に 医師全員で 病室に来て、
出てゆく時に、私に向かって、
「一緒に、頑張りましょう!」
と、ガッツポーズを して見せた人。
「へ?
 頑張るのは、私じゃなくて、あなたたちだけでしょ、
 私は、寝てるだけ。」
と 思った私は、
この医師に あまり好感を 持っていなかったが、
この日、一気に 好きになった。 


MY 乳がん―手術の後(3)

2004-08-07 | 乳がん
治療計画予定表を見ると、
いろいろ思い出す。
思い出さないこともある。
手術前日には、手術側の 腋毛を 剃ってください、
といわれ、佐藤看護士に 脇を 点検された。
夕食後に 下剤を のまされた―――のは、記憶にない。
便秘症の私に、下剤は 効いたのか? 


それから、
手術室に入る時に 足につける、
ネームタグの付いたゴムひも。
これの ハトメは、止めちゃ いけなかったんだそうだが、
パチンと 止めちゃって。
看護士に 
「これ、一度止めちゃうと、はずせないんですよ。」
と、や~な顔されて。
それを娘が 一生懸命爪ではずして、
看護士に 喜んでもらったり。
この看護士が 一番 言葉がきついんだけど、
娘は 一番 なついていた。
このネームタグは、なんだか 死体になるような気がして、
ぞっとしないね。
新生児には 見えないしね。
 

手術室に 入る時には、
身につける 衣類 すべてに 病棟番号や 名前を
小学生のように 書いておくのだが、
私は 20年くらい ずっと 
足首に 保温用の サポーターを 付けているので、
これがないと 足首が 冷えて 痛いから、と ごねて、
サポーターにも 名前を書いて 足首につけて 
手術室に 向かった。
手術の前に はずすけど、
終わったら すぐに また 付けてくれると
佐藤看護士が 約束してくれた。


麻酔から 覚めた時には、
深呼吸をするんですよ、と
リハビリ室で 深呼吸の 練習まで させられたのに、
「あ、深呼吸を するのを 忘れた、大丈夫かな。」
ずっと後になって 思い出した。 


2002年12月12日(木)。
昨日から始まった、鼻水、せき、喉のエヘン虫。
加湿器を 借りられたので、ほっとする。

朝7時。売店まで散歩。
9時にも散歩。手術の 同級生と会って、
キャラメルを 買って帰る。

私たち同級生 四人は、バラバラの 病棟・病室。
乳腺外科の 手術、すなわち、乳がんの 四人で 一部屋、
ということも
あったそうだけど。

この日、病棟の婦長が 病室にやって来て、
おしゃべりをして行った。
結構長く 居た。

昼前、病院の前の ポストに 郵便を 出しに行く。

午後1時。屋上へ出てみると、同級生や、
今日 新しく知り合った 方や、
知らない人も、 何人も 来ていて、
2時の検温まで、陽だまりでおしゃべり。

2時過ぎ、娘が カップラーメンとともに やって来る。
娘と二人で 外を 散歩。
実の付いた 小枝を拾ってくる。
5時前に 亭主。
5時過ぎに 息子。
息子とも 屋内を グルグル散歩。

8時の検温で、37.6℃。
ヤバイ。
歩きすぎて、疲れたか?

早く寝ようと 9時半ごろ 床に就く。
左腕の 内側に ビリビリと 痺れが走る。
縦横に走る。
「あなたの癌は、14年くらい前にできたものが、
十何年かかって、ここまで大きくなった・・・」
という、入院前の 診察の時の 主治医の言葉を 思い出す。

十数年前の わたし。
辛いことが 多かった。
悲しいことも 多かった。
本当に 辛い 日々だった、確かに。
涙が あふれてきて、
暗がりの中で 泣いた。

でも、あの頃の 私は、頑張っていた。
精一杯 やっていた。
子供を 犠牲にしていた部分も あったかもしれない。
もっと 遊んであげたかったし、
遊んであげれば 良かったかもしれない。

子供達よ、不満は あるだろうけれど、
あれで ママは 精一杯だったんだよ。。。

今は あの頃とは 比べられないほど
シアワセな日々です。
寂しい日々でもあるけれど。


癌だと わかってから 初めて この日 泣いたかなあ。

MY 乳がん―手術の後(2)

2004-08-05 | 乳がん
亭主は 取り除いた 私の癌を 見せられている。
大きくて、びっくりしたそうだ。
さらに、手術日の 4時から、
主治医から 家族への説明が あったはず。
つまり、4時には 一日にこなす 手術数、4人の 手術が
終わっていたはず。

手術をした晩は、のどだけじゃなく、
おなかに 背中に 肩、
あちこち 痛い。
人間、眠っていても 動いているものなので、
普段は そんなこともないけれど、
麻酔で 眠っちゃうと、体を動かさないので、
痛くなるんだそう。
私なんて、普段でも 背中が痛いのに。
悲惨だった。

 
つぎつぎと 管が 取り除かれたのは、
翌日の 
2002年12月10日だったろうか。
医師の回診の時に 許可が下りるみたいだった。
「取りましょうね。」
の一言が、すごーく嬉しい。
そして、
トイレまで ゆっくり 歩む 喜び!
意外に ちゃんと 歩ける!

私の頭の中には、むか~し むかしの 盲腸の手術の時のことが
あったらしい。
退院しても、お腹が痛くて、
しばらくは 笑うと やっぱり お腹が 痛んだ。
今回は、それがない。

入院・手術というと、点滴台を がらがらと 引いて歩く、
そんな姿を 連想する。
点滴台がない!
これは かなり、快適。

ただひとつ、手術した側の胸から 体液を出すための 管が、
左胸に 突き刺さっているはず。
なぜか、そこが 痛む事はない。

ぽかぽか暖かいと 気持ちがよかったので、ガンガン暖房して、
部屋はかなり 乾燥してしまった。

治療計画予定表によると、
この日は 朝から お粥などを 食べているはず。
看護士による 清拭が あったはず。
昼から 抗生剤、痛み止めの 内服が 始まったはず。

11日(水)にはもう、かなり しっかりして、
日記も書いている。
6時半ごろ 起きて、
ベッドの上で 上半身を起こして、体を支えるために
両肘を付いた瞬間、左の 二の腕の内側が 痛んだ。
それから、点滴をしていた 腕の部分の 痛みは、
じきに とれるだろうとのこと。

この日の朝は、お粥ではないはずなのに、お粥だった。
あと、味噌汁、梅干、キンピラゴボウ、オムレツ、ヨーグルト。
朝食の後には、薬の色の グラデーションの美しさに うっとり。
へんな患者かも?
お昼も お粥。
お粥、決して嫌いじゃないけど。
楽しみは、食事と 窓の外の景色だけなんだもん。

二時ごろ、娘がロッテリア持参で やってくる。
ポテトが いい匂いだったけど、朝も昼も お粥の患者としては、
ぐっと我慢。
病院内を ふたりで 探検してまわる。
シャンプーと清拭を 看護士にやってもらう。

五時ごろ、洗濯物の山を 出張用の鞄につめて、
亭主がやって来る。
病院の洗濯機は、気持ちが悪いから、
使いたくないんだそうだ。
こんなだから、温泉も嫌いな、変わり者。

洗濯物が届いた所で、
シャワーで足を洗って、さっぱり、着替えもできた。
胸の管とつながった箱を キルトの袋に入れて、
その袋を 必ず 身につけて 歩くわけだから、
シャワーは 少し やりづらい。

まもなく お腹をすかせた息子が やって来て、
お菓子の 食べまくり。
息子とも 病院内ミニ・ウォークをする。
「どんどん 歩いて 下さいね。」
看護士が 口をそろえる。
「歩くと、痰も よく出るみたい。」
痰を出すことは、どうやら すごく 重要らしい。

夕食には、不満を伝えた甲斐あって、ご飯。
単なる 間違いだったみたい。

こうして毎日、
子供達は それぞれの 学校から 病院へ、
そして 家からやって来るパパと 
途中で ご飯を食べて、家に帰る、を
繰り返していく。
電動ベッドは ひとしきり 
子供達が おもちゃとして 楽しんだ後、
彼らの ゆりかごとなる 毎日。


MY 乳がん―手術の後

2004-08-02 | 乳がん
痛みで、目が覚めた。
うっすら目を開けると、しろっぽい部屋。
あれー。
じゃあ、手術は、もう、終わったんだ。
ここは どこだろう。
もう一度、すこーし、目を開ける。
周りには ベッドが いくつもあるみたい。
手術がおわった後に 行くという、
快復室みたいなところに 違いない。
でも、誰もいない。
不安になってくる。
だって、わたし、痛いんだよー。

うなってみる。
人の気配がした!
うめいてみる。
「痛い。」
でも、誰も、なんとも言わない。
「痛い、痛い。」
人が 反応している。
でも、誰も、私のところに来ない。
もっと 不安になってくる。
痛い。
「痛い、痛い、痛い、痛い。」
気配が、あわてだした。
どこかの誰かと、話をしている。
「アレルギーがあるから・・・」とかなんとか。

そう、私の事だ。
私は 原因不明の アレルギーがある。
目が覚めたときの、止まらないくしゃみと 鼻水。
ひどい時は、蕁麻疹も。
くしゃみは、ずっと 花粉症だと思っていた。
でも 検査をしたら、スギ花粉も たいしたことない。
ブタクサも、カモガヤもも、ヒノキもない。
ダニにも ハウスダストにも アレルギーがない。
何が原因かは わからないけど、確かに、
しかも 一年中 アレルギーがあって、
お薬を飲んでいる。
だから、なんなの。
左の胸が、
切った所が、痛いのよ。

それから、誰かが、私を乗せて 病室から出して。
邪魔にされている感じ。
病室に戻って、佐藤看護士に、
説明を受けて、痛み止めの座薬を入れてもらう。
あの、フンドシの 短いのを 付けてるからね。

これが、たぶん、昼ごろ。
まもなく 痛みが 収まって、
私は うとうと 夢心地。
亭主が 誰かと 何かを しゃべってる・・・。

何度か目を覚まし、
その度また うつらうつらと 眠ってしまう。
それをずっと繰り返していた気がする。

人工呼吸器を はずしたのは、病室だった。
いつはずしたのかは 覚えていないけれど、
そのころ すでに 佐藤看護士はいなかった。
そして、
呼吸器をはずす前に、
血液中の 酸素の 量だか 濃度だかを はかるのに、
手の爪の 半月のところで はかっていた。
そんなところで はかるんですか~。
へ~。しらなかったあ。
そんな会話をしたのを 覚えているけれど、
眠くて、目は寝てました。
どんなことをするのか、どんな機械をつかうのか、
見ていたかったんですけどね。

はっきり してきたのは、夕方だった。
左の 肩の下に敷いた 当て物が 当たって 痛い。
手術した側を 心臓よりも 高くしておくのだそう。
看護士と 娘とに やいやい 言って、
当て物を あちこちに ずらして、
なんとか 落ち着く所を 見つけて、人心地ついた。

そして、先生方が 病室まで 様子を見に来て くださった時、
私は 喉が 痛くて たまらなかった。
同時に、喉の痛みを キャラメルで やわらげたくなった。
看護士に 言うと、
ドアの外に 出て行かれた 先生方を 追いかけていって、
OKをもらってきてくれた。

本当は 何にも 口にしては いけないはずだったけど、
主治医の、
「本人がそう言うなら、いいんじゃない。かまわないよ。」
という声が 廊下から聞えてきて、にんまり。
さっそく 買ってきてもらって
(売店に売ってたの、知ってるもん)
口に入れた キャラメルは、
のどの痛みを 期待以上に やわらげてくれた。
亭主には、
わがままを言うなと しかられた。


病院には、家族が泊まれる部屋がある。
二人分 予約をしておいて、
学校から病院に来た息子と、
期末試験あとの 休暇中の 娘とが
そちらに泊まった。
亭主は、病室に泊まった。

看護士が 夜中に何度も 見回りに来る。
かわいそうに、
亭主は 疲れているのに、
その度に 起き上がる。
看護士がいい、と言ってくれても、
だんなさん、休んでてください、と言われても、
起きる。
そういう性格なんだから、
ほっとく。
 
この晩、予想通り、かなり暖房で乾燥していて、
前もって マスクを用意していた 亭主は、
得意満面。


手術を受けた月曜日は、
もちろん 日記は つけなかったが、
日曜も、そうとう 退屈していたらしく、
朝ごはんの メニューしか 書いてない。
(入院まで 読まずにいた ハリーポッター上下巻も、
読んでしまっていたかも。)
このへんのことは、すべて 記憶にたよっているので、
かなり、真実と 食い違っているかもしれない。
娘や 息子や 亭主に 同じように書かせて 並べたら、
かなり 面白い 読み物になるに 違いないんだけどね。



私の食養生(4)―ダシ

2004-08-01 | 食生活
山谷えり子さん(サンケイ・リビング編集長)だったと思う。
   ○○さんが、
   「ウチの子は 
   昆布と 鰹節で だしをとった 味噌汁しか、
   飲まないのよねー。」
   って 言うのを聞いて、
   カッコいいな、と思ったから、
   まねしたの。
   そしたら、
   本当に ちゃんとダシをとった 味噌汁しか、
   飲まなくなっちゃった。(笑)
と言う会話が、雑誌か何かに 掲載されていたのを
読みました。

当時、山谷さんは 一人娘の子育て中で、
責任あるお仕事を こなしながら、
育児関係の 雑誌のページに
たびたび 登場していて、
私は 楽しみに読んでいました。

この 山谷さんの ことば
(記憶では、見城美恵子さんとの会話)
を 読んで、
あら、ほんと、かっこいいじゃない。
と思った私は、
さっそく実行してみました。

味噌汁の出しは、私は 鰹節で とったものが 一番好きです。
いつも、鰹節を 使っていました。
そこで、
さっそく 昆布を買ってきて、
カツオと 昆布で ダシを とるようにしました。
これを まだ 離乳食が 完了していない 娘に
飲ませつづけました。

意外に早く 効果が 出まして、
ある日、
インスタントの 味噌汁を飲ませようとしたら、
飲まなかったのです。

やった!!
でも・・・
まあ、今日のは インスタントだし、
のまなくてもいいや。

それから・・・
ちょっと、今日は どうかな・・・
と思いながら、
疲れた日などに 
インスタント味噌汁や 
だしの素を 使った味噌汁などを 与えようとすると・・・

嬉しいような、悲しいような。
飲もうとしません。
なんとも、面倒な 子供に
自分で してしまった、
ちょっと、後悔。

その後、だしは 鰹節だけになりましたが、
それは OK だったようです。

昆布というのは、水の中に 浸けて置いて、
それから 火にかけます。
これで、時間が 余分に かかります。
そのうえ、沸騰直前に 昆布を ひきだすことに
なっています。
これが、意外と、面倒なんです。
気が付くと、沸騰して 噴いてたりするんです。

父が 脳梗塞で 入院した病院から、
栄養指導の時に、
人口調味料は 使わないように、
と言われたんだそうで、
それ以来、
私も なるべく 使わないようにしてきました。
鰹節を 削って、お出汁を とる。
それは、当たり前の事でした。

そして、
乳がんで 入院してからは、
昆布が 復活しまして、
なるべく (面倒だけど)昆布を使うようにしています。

昆布を水に浸して、
びよよよ~んと伸びるまで
放っておく。
火にかけて、沸騰しそうになったら、
(ときどき沸騰させちゃう)、
昆布を とりだし、
鰹節をいれて、
8~15分くらい、弱火で 加熱。
(鰹節によって 多少違うらしい?)
灰汁は 丁寧に すくい取れと言うけれど、
ほとんど 出ません。


最近、料理研究家の本を 立ち読みしまして、
「水だし」なるものが
あることを知りました。
昆布と 頭・内臓を取り除いた煮干を 
水とともに 冷蔵庫に入れ、
一晩おいたもので、
「これで、充分おいしいダシがとれます。」
とか 書いてありました。
やってみたんですが、
どうも、物足りない。

そうして、
この猛暑の夏にもめげず、
時間をかけて、じっくり ことこと 
お出汁を とっている ワタクシです。

これで、毎朝、
家族に 美味しい味噌汁を 飲ませていれば、
主婦の鑑なんですがね。