心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
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ほうれん草を茹でると思い出す

2021年02月04日 | 母のこと
今朝もほうれん草を使った。
最近、朝の野菜はほうれん草が多くなった。安いし、扱いやすいし、母も食べてくれるからだ。以前は茹でて使っていたのだが、生を切って皿に乗せ、味付けしてレンジでチンが多い。

そんなレンジでチン、ではなく。今朝は久々に鍋で茹でて食べたいと思った。
ほうれん草を根元から洗い、鍋に水を入れる。水を入れながら思い出した。ほうれん草を茹でると思い出すことが必ずといっていいほどある。

昔、まだ小学校の頃だった。
あの頃、我が家は貧乏だった。といっても食べていけないというほどではないが、それでも同じクラスの子の家から比べたら、あるものがなかったりした。テレビが来たのは、東京オリンピックの辺りだと思う。その点では母と時期がずれて思い込んでいた節もあるのだが、わたしの記憶ではオリンピックを見れる! という思いが強かったのだ。すでにテレビがあった子も沢山いたから、我が家は最新の家電のある家からは遠い位置にあったのだ。

そんな貧乏な家で育ったわたしが母からやっておいてくれと言われる家事は、御飯を炊くこと。
たまに言われるのが、簡単な作業。
ある日、ほうれん草を茹でてくれと言われた。言われるがままにほうれん草を洗って、大きな鍋に水を張った。そしてガス台に乗せて火をつけた。そこへ母がやってきて、鍋をのぞき込んだ。
「なんでこんなに水を入れるの!」と母が強い口調で言った。
その瞬間、わたしはポカンとした顔をしたに違いない。

母がちょっと情けないような顔をして
「水をこんなに使ったらもったいないだろ」と言った。
そのときわたしは、ほうれん草の嵩(かさ)の多さからしたら、沢山の水がいるんじゃないのかと不満な気持ちがあった。しぶしぶ母に言われたようにガス台から鍋をはずし、水を半分捨ててもう一度湯を沸かした。

果たせるかな。ほうれん草は鍋の中であんなに嵩があったのに、お湯の中に埋もれていった。

昔のほうれん草は今のものよりもっと灰汁があったように思う。ゆで汁は汚い緑に染まっていた。

あれ以来、茹でる水は少なめにしている。
あのとき母は「もったいない」と言った。我が家の財政が大変だから節約せよ、という意味だったのか。それとも「葉物を茹でる時には、こうなるから水加減はこれくらいで大丈夫なんだよ」と言いたかったのか。
今思うと、やはりもったいないという気持ちの方が強かったように思う。あれからもことある毎に母は物を捨てずに最後まで使い切ろうとするし、もったいないという気持ちを出し惜しみしない。
そういう母のもったいない精神をわたしはまだ受け継いでいないなあと、今朝も茹でながら思っていた。


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