金森正臣先生のカンボジアの文化・教育・食べ歩き体験記
金森先生のカンボジア日記
第9回正臣会御礼
第9回正臣会御礼 2012.2.10. 金森正臣
ご無沙汰いたしておりました。先月末には、上記の会を開いていただきましてありがとうございました。今回で9回目、退職してから10年が過ぎたことになります。皆さんお顔を拝見していると、急に若返った気持ちになったり、当時のことを鮮明に思い出したりします。私も、今年は6回目の年男です。
話し合いの中で、学校と支援センターのカウンセラーの関係が、安城市の場合が特殊であることが出ました。そのことから私が、安城市に関わり出した頃のことを思い出しました。私と安城市の関わりの最初は、「生活科」の教材開発でした。何時もこの会の世話をして下さっている、小鹿先生が、卒業して桜林小学校に勤務しておられました。小鹿先生からの話で、桜林小学校に出かけ、当時1年生の担任であった先生たちと「生活科」の教材の開発に関わったのが最初です。実際に「生活科」が実施されるよりも、10年ぐらい以前の話で、試験的に実施する段階だったと思います。考えてみますと、桜林小学校のスタッフの皆さんと共鳴するところがあり、しばらく学校に通いました。特に野畑校長先生の人柄が、関わって行く上で、重要な要素だったと思います。自由にさせて下さり、すべての責任は持つから、最も効果的に出来るようにして下さいと言うご意向であったことが大きかったと思います。天気が良くて外に出るのが良いと思えたら、計画提出は後でもよいから、行動して下さいと言われ、いい加減な私のやり方を全て支持してくださいました。この学校との出会いが、安城市との出会いでした。その後この学校の先生方の移動に伴い、あちこちの学校に行く機会が増えました。この頃、名古屋の先生たちともお会いする機会が多くありました。その頃考えたこととして、組織を作って関わるのではなく、個人として一緒にするのであれば、大きな組織は動かすことが不可能であろう。しかし、安城市くらいの規模で、多くの先生と知り合うことができれば、それなりの効果が上がるのかと考えました。その後、植物採集の会や中学校の自然教室などに参加させていただき、より多くの先生と知り合うことができました。
その後学校において、不登校の児童の問題が大きくなった頃、友人を頼んでこの問題に取り組むことになりました。この時も、安城市ぐらいの規模であれば、10年ぐらいで多くの先生に関心を持って頂き、学校と支援センターの関係が構築できるのではないかと考えた覚えがあります。この関係を構築するために、友人を頼んで講演会や講習会、定期的な先生たちの話し合いの会を持ちました。先日もこの会の中で、いまでも勉強会が続いていることを伺い、継続が力になっていることを実感しました。この様な先生たちの努力により、安城市では学校と支援センターの連携の理解が進み、様々な方法がつかわれるようになってきていると思います。定形的になるのではなく、それぞれの関係者が、自分のできることで協力することによって、連携がスムーズに行われるようになっていると思われます。
安城市のように、多くの皆さんと協力することは目的とすることはありませんでしたが、学生の教育のために、豊橋市の学校でも20年を超して協力頂きました。児童をお借りして、学生の勉強の機会を作ってきました。もちろん児童の皆さんにも、自然を体験する機会が提供できます。生物教室の20名の学生の75%が参加し、4年生目でにリピーターになる学生は70%に上がっていました。学生にとって、魅力的な体験であったろうと思います。児童に自然の中で接し、自分の体験も増えることで、教室での勉強とは異質の勉強ができたのであろうと思います。私自身のエネルギーは小さくても、皆さんに協力して頂くことによって、少しずつ全体が動く体制ができて行ったように思います。自分ですぐに結果を見ることができなくても、動き出した方向はその後も動いてゆくように思います。今のカンボジアの支援も、同じような方法でやっています。
ご無沙汰いたしておりました。先月末には、上記の会を開いていただきましてありがとうございました。今回で9回目、退職してから10年が過ぎたことになります。皆さんお顔を拝見していると、急に若返った気持ちになったり、当時のことを鮮明に思い出したりします。私も、今年は6回目の年男です。
話し合いの中で、学校と支援センターのカウンセラーの関係が、安城市の場合が特殊であることが出ました。そのことから私が、安城市に関わり出した頃のことを思い出しました。私と安城市の関わりの最初は、「生活科」の教材開発でした。何時もこの会の世話をして下さっている、小鹿先生が、卒業して桜林小学校に勤務しておられました。小鹿先生からの話で、桜林小学校に出かけ、当時1年生の担任であった先生たちと「生活科」の教材の開発に関わったのが最初です。実際に「生活科」が実施されるよりも、10年ぐらい以前の話で、試験的に実施する段階だったと思います。考えてみますと、桜林小学校のスタッフの皆さんと共鳴するところがあり、しばらく学校に通いました。特に野畑校長先生の人柄が、関わって行く上で、重要な要素だったと思います。自由にさせて下さり、すべての責任は持つから、最も効果的に出来るようにして下さいと言うご意向であったことが大きかったと思います。天気が良くて外に出るのが良いと思えたら、計画提出は後でもよいから、行動して下さいと言われ、いい加減な私のやり方を全て支持してくださいました。この学校との出会いが、安城市との出会いでした。その後この学校の先生方の移動に伴い、あちこちの学校に行く機会が増えました。この頃、名古屋の先生たちともお会いする機会が多くありました。その頃考えたこととして、組織を作って関わるのではなく、個人として一緒にするのであれば、大きな組織は動かすことが不可能であろう。しかし、安城市くらいの規模で、多くの先生と知り合うことができれば、それなりの効果が上がるのかと考えました。その後、植物採集の会や中学校の自然教室などに参加させていただき、より多くの先生と知り合うことができました。
その後学校において、不登校の児童の問題が大きくなった頃、友人を頼んでこの問題に取り組むことになりました。この時も、安城市ぐらいの規模であれば、10年ぐらいで多くの先生に関心を持って頂き、学校と支援センターの関係が構築できるのではないかと考えた覚えがあります。この関係を構築するために、友人を頼んで講演会や講習会、定期的な先生たちの話し合いの会を持ちました。先日もこの会の中で、いまでも勉強会が続いていることを伺い、継続が力になっていることを実感しました。この様な先生たちの努力により、安城市では学校と支援センターの連携の理解が進み、様々な方法がつかわれるようになってきていると思います。定形的になるのではなく、それぞれの関係者が、自分のできることで協力することによって、連携がスムーズに行われるようになっていると思われます。
安城市のように、多くの皆さんと協力することは目的とすることはありませんでしたが、学生の教育のために、豊橋市の学校でも20年を超して協力頂きました。児童をお借りして、学生の勉強の機会を作ってきました。もちろん児童の皆さんにも、自然を体験する機会が提供できます。生物教室の20名の学生の75%が参加し、4年生目でにリピーターになる学生は70%に上がっていました。学生にとって、魅力的な体験であったろうと思います。児童に自然の中で接し、自分の体験も増えることで、教室での勉強とは異質の勉強ができたのであろうと思います。私自身のエネルギーは小さくても、皆さんに協力して頂くことによって、少しずつ全体が動く体制ができて行ったように思います。自分ですぐに結果を見ることができなくても、動き出した方向はその後も動いてゆくように思います。今のカンボジアの支援も、同じような方法でやっています。
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