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久米地区の神社探訪その12・日尾八幡神社 1 南久米町

2015年07月16日 | 伊予松山歴史散策
日尾八幡神社
社 格:旧県社
所在地:松山南久米町2番地 日王山中腹にある。
境内面積:4,792坪
神  紋:右三つ巴・左三つ巴、どっちが本当!!
祭  神:本殿は三神殿に分かれ、西玉殿・中玉殿・東玉殿と呼ばれ、さらに東・西玉殿にはそれぞれ側玉殿がる。祭神は次の通り。
西玉殿:   品陀和気命(ほんだわけのみこと、応神天皇)
        帯仲日子命(たらしながつひこのみこと、仲哀天皇)
西玉殿側玉殿:健内宿禰命(たけうちすくねのみこと)
中玉殿:  多紀理毘命(たぎりひめのみこと)
       狭依毘売命(さよりひめのみこと)
       多紀都毘売命(たぎつひめのみこと)
       伊予比売命(いよひめのみこと)
       饒速日命(にぎはやひこのみこと)
東玉殿:  大帯姫命(おほたらしひめのみこと、神功皇后)
東玉殿側玉殿:猿田毘古大神(さるたひこのおおかみ)

境内社:天照皇大神(内玉垣本殿東隣)・春日大神(内玉垣本殿西隣)・天満神社(本殿東側) 
    東道後神社(天満神社東隣)杉谷金比羅大権現神社(石段中腹東側)・奈良原神社・黒田霊社(石段中腹西側)・生目神社(手水舎西側)にある。 
境内外神社:境内外神社が、小氏子神社として石井地区に2社「天山神社、王子八幡神社」、久米地区に5社「東山神社、辰岡天満神社、龍神社、素鵞神社(鷹子町)、素鵞神社(福音寺町)」、小野地区に8社「一の宮神社、野田神社、日吉神社、客天満宮、素鵞神社、西宮神社、三熊野神社、来目部神社」ある。
宮 司:三輪田 
社 号:古い時代には久米八幡宮といい、中古の時代には山の名をとって日王八幡宮と呼んだ。後に日王を日尾と改め、日尾八幡神社と改称した。
礼 祭:10月5日・夏越し祭7月30日
由来沿革:第46代孝謙天皇(奈良朝7代の中、第4代目の天皇)の勅願所として、天平勝宝4年(752)、宇佐八幡の摂社として勧請して営まれ、久米八幡とした。大仲朝臣久米麻呂(三輪田家の祖)と高市古麻呂(武智家の祖)の二人が斎王として奉仕した。
中玉殿に奉斎する伊予比売命(いよひめのみこと)は伊予比古命(いよひこのみこと)とともに伊予国の地神として、また部族久米部の祖神として、久米郡神戸郷矢野神山(現在の平井町小屋峠)に祭られていたが、豪雨の大洪水により社殿が流されたので、矢野神山より下手の平井谷明神鼻に新たに社殿を遷座し奉った。その後、延喜17年(798)頃また数日に渡り豪雨があり山が崩れ、伊予比売命・伊予比古命の両御神体とも再び漂流、伊予比売命の御心霊は日瀬里(現在の久米窪田町)の龍神淵に留まられたのを久米八幡に合祀された。
なお、同時に流された伊予比古命の御心霊は天山町の縦淵(たてぶち)に留まられ、そこより居合に遷座され、伊予村大神と称えられた。これが現在の椿神社(椿さん)、伊予豆比古神社である。
その後、源頼朝や伊予国の守護である河野氏より社殿は造営されたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐のため湯築城は落城久米八幡も荒廃したと言う。
慶長8年(1603)加藤嘉明が正木(松前)城から、松山城に居を移し、新しく築かれた城の固めとして城の四方に八幡社を選び八社八幡を定められ、武運長久を祈願せられ、久米八幡もその一社に定められた。
寛永12年(1635)松平定行公が伊勢国、桑名藩から伊予松山藩に移封後も藩主の崇敬厚く、修築が度々行われた。
明治12年(1879)県社に列し、同40年には、「神饌幣帛料の供進する事を得べき神社」として指定され、終戦時にまで至った。
伊予比売命の伝説
日尾八幡神社の祭神「伊予比売命(伊予豆比売命)」と伊予豆比古神社(椿さん)の祭神「伊予比古命(伊予豆比古命)」とは伊予の地神として御夫婦であり一所に祭られていたが、大雨による洪水のため神霊がそれぞれ別の地に流れ着きて現在の二社に別れられた。
御夫婦の神霊は久米と石井とに別れ、伊予比古が別れの挨拶として伊予比売へ、氏子の中から星岡村と天山村とを贈った。
星岡・天山を贈られた伊予比売はそのお返しとして来住村を伊予比古へ贈った。この事があって以来、石井地区の星岡町と天山町は、日尾八幡の氏子となり、久米地区の来住町は椿さん(椿神社)の氏子になったのだと言い伝えられ現在も変わっていない。


旧国道11号線沿いに日尾八幡神社の入口がある。石段を上がると先ず外玉垣が巡らされている。
そして社号碑、赤い鳥居、また数段の石段を上がると神門(楼門)がる。そして中玉垣で囲われてお
り、神門右に社務所があり、その横に紀元2600年記念の石碑がある。


では、日尾八幡神社の聖域に入る事にしよう。階段を上がると立派な注連石がある。揮毫は、当神
社の宮司であった三輪田米山で「鳥舞」「魚躍」とあり、建立は明治13年10月15日と書かれて
ある。


注連石の後ろに、島木型の鳥居があり、中央に唐破風付の「日尾八幡宮」の社号額が掲げてある。


右側の注連石の前に、三輪田米山揮毫の「縣社日尾八幡大神」の社号碑がある。
石碑右側に、明治13年12月と書かれている。


社号碑、注連石、朱塗りの鳥居を東側から撮った。


赤い大鳥居を潜り石段を上がると大きな「神門」がある。銅版葺である。
夏越し祭は此処に祭壇と茅の輪を造り氏子たちが輪をくぐることによって身のけがれをはらう。


神門を潜ると長い石段がある。石段は158段ある。
石段を7段あがると、左側に手水舎(てみずや)がある。身を清め社殿に向かう。
7月30日(木)は輪越祭り(夏越し祭)があるので境内は綺麗に清掃されていた。
夏越し祭を社殿で行うと158段の長い石段を上がらなければならない。高齢者にはかなりの体力
負担となるので神門で行う様にしたのでは?。


長い石段を上がると社殿(拝殿)がある。


先ず、一揖し、次に、鈴を力強く鳴らし、神様に自分が来たことをこれで知らせ、お賽銭を静かに入れ、そして、「二礼二拍手一礼(二拝二拍手一拝)」を行い、その後、写真撮影お断りして 撮らせて貰った。
画像は、拝殿内部で、久米地区は、青少年の県道が盛ん、度々全日本少年剣道大会で優勝している。
記念の額が沢山奉納されている。


久米地区は、青少年の県道が盛んで、度々全日本少年剣道大会で優勝している。
昭和54年8月3日、東京の日本武道館で行われ優勝した時の記念の額で拝殿に奉納されている。
揮毫は、高市照子さんで、久米地区では女米山と言われ書の達人である。
練士5段、露口健二練士は中学の同期生で私も剣道をしていた。


拝殿と本殿の間にある、幣殿で沢山のお供え物が献上されている。


拝殿の社号額、八幡宮の神の使いは鳩で、八幡の八は鳩で画かれている。


拝殿前には日尾八幡神社の祭神が、石碑として建立されている。


拝殿前には日尾八幡神社の由緒が大きな花崗岩に書かれ石碑として建立されている。


本殿屋根の大棟の鬼版に表示してある、神紋「巴の紋」これは、「右三つ巴」。


拝殿の鬼瓦には、「左三つ巴」日尾八幡神社の神紋は「右三つ巴・左三つ巴」どちらが本当だろうか!!
軒丸瓦には左三つ巴の周りには、18個の文殊が配されている。

武士の神である八幡神は、神紋として三つ巴が用いられる様になり、八幡神以外の神社でも、三つ
巴が神紋として用いられるようになった。
参考までに:松山城本丸の建造物(大天守、小天守、櫓、城門)等々の軒丸瓦には左右の三つ巴が入
り交じって使われている。

コメント
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