波賀部神社
所在地:松山市高井町1160番地
境 内:1139坪
神 紋:折敷に三文字
祭 神:大山積命 雷神 高龗神
配 神:寛王命
社 格:元村社
境内社:床浦神社 生目神社 金毘羅神社 一事神社 大刀打神社 朝日神社 素鵞社 奈良原神社天満宮 水神社 土居神社
礼 祭:10月5日
由来沿革:縁起によれば、神亀5年8月23日(728)聖武帝の御代詔を奉じ、越智玉純公が、大三島明神を勧請し久米郡石井郷の一の宮とした。
第52代嵯峨天皇(810年頃)の皇子、寛王命が国司としてこの地におられたが、貞観18年(876)5月27日亡くなられたので三島神社の辺に埋葬して王塚と呼ばれた。これ以降三島神社は寛王の墓のそばなので墓辺神とも言われるようになった。後、元慶2年(878)7月8日墓辺神に従五位下が授けられている。また古墳時代中期(400~600)頃、重信川(旧伊予川)を中心にして住んでいた当地の豪族の長が死亡したので、平地に盛り土をして全長62mに及ぶ前方後円墳を築いて葬った。それより王塚神として拝んだものとも考えられる。神社としては最も古い形式の古墳そのものが御神体として拝まれたもので、世にいう本当の氏神様であろう。
元弘3年(1334)8月河野通治・通綱・通増等によって再建され、また天文8年8月土居通高が社殿を再建、明治14年(1881)5月2日に墓辺を波賀部として、社名を波賀部神社と改めた。
神社参道口に社号碑があるが、揮毫は三輪田米山で書き上げに一ヶ月を要したと記録がある。その詳細な記述が久米郷土誌にあるが割愛する。
今まで、6社を探訪して来たが、波賀部神社の規模は一番大きく、そして境内は綺麗に清掃が行き届いていた。今までの6社は日尾八幡神社の三輪田宮司が兼務している神社だが、波賀部神社には宮司が居られるその為に日頃の管理が出来ているからであろう。
この神社境内にも、「日露戦勝記念」の石碑がある。日露戦争で、高井村から戦いに出征し凱旋した皇軍兵士と地元有志が、明治42年3月建立した石碑である。揮毫者は、文学博士 井上圓了書とある。その横に大きな「平和記念碑」が昭和56年9月建立されている。日清、日露、大東亜戦争経た。特に先の大戦で日本は絶滅に近い大打撃を受けた。日本の平和を祈念して、今後絶対に戦争を起こさない事を願っての地元氏子の強い思いがこの石碑に籠められている。
五十鈴神社同様に、松山市景観樹保護地区として、昭和53年4月25日に指定され指定番号は第24号である。
波賀部神社は神主がおられ、久米地区の氏神である、日尾八幡神社に次ぐ社格の高い神社ではないかと思いながら後にした。
次回は、南土居町と隣接する、高井町に鎮座する、高井八幡宮を探訪する。
波賀部神社正面入り口にある社号碑と鳥居、社号碑は、三輪田米山が一か月を掛けて書き上げたと言う。鳥居も立派である。鳥居の前に大きな灯篭がある。社号碑は、明治21年11月7日に、灯篭は、一対あり、東側は、明治32年10月、西側は、明治15年の建立で建立年月日が異なる。社号碑、灯篭に付いては久米郷土誌に詳細な記述があるが、割愛する。しかし記述にも灯篭の建立年月日が異なる事に付いては何も記載されていない。鳥居は、平成8年9月建立とある。
鳥居を潜り参道を歩くと注連石が見えて来る、いよいよ波賀部神社の聖域となる。注連石は明治14年建立。
綺麗に清掃された境内で、立派な拝殿がある。先ずは参拝する。
拝殿には立派で綺麗な注連縄が飾られていた。
拝殿の正面棟には切妻の荘厳な化粧瓦が掲げてあり、頂点に鍾馗さんか、毘沙門天か分からないが鎮座されており、その下に龍がいる。そして破風には神紋の「折敷に三文字」の棟瓦が敷かれている。
拝殿を東側から、その奥に本殿がある。拝殿は瓦葺で、本殿は銅版葺である。棟には、「折敷に三文字」の神紋が描かれている。
拝殿にある「折敷に三文字」の神紋。本殿は大きく今まで探訪して来た神社とは規模が違う。
社格は村社だが、県社に近い風格である。
境内にある末社を紹介すると、先ず拝殿東に、鳥居を構えた末社2社が鎮座している。
向かって左が、一事神社、右が、大刀打神社。
拝殿西側にある末社で、左が朝日神社、右が床浦神社。
朝日神社、床浦神社の前にある末社で、左が、生目神社、右が金毘羅神社。
境内に、「日露戦勝記念」の石碑がある。日露戦争で、高井村から出征し凱旋した皇軍兵士と地元有志が、明治42年3月建立した石碑である。揮毫者は、文学博士 井上圓了書とある。
その横に大きな「平和記念碑」が昭和56年9月建立されている。日清、日露、大東亜戦争経た。特に先の大戦で日本は絶滅に近い大打撃を受けた。日本の平和を祈念して、今後絶対に戦争を起こさない事を願っての地元氏子の強い思いがこの石碑に籠められている。
松山市景観樹林保護地区として、昭和53年4月25日に指定され指定番号は第25号である。
波賀部神社を北方面から見た景観で、波賀部神社古墳である。何時の頃か分からないが、その半分が破壊されている。全長54m、西が(画像右側が西)前方部で幅28m、高さ6,1m、後円部径28m、高さ6,6m、外部に堀を巡らした跡が残っていると記載されている。(伊予路の文化より、松山市文化財協会発行)
松山市教育委員会設置の「波賀部神社古墳」の説明板で、波賀部神社境内にある。
所在地:松山市高井町1160番地
境 内:1139坪
神 紋:折敷に三文字
祭 神:大山積命 雷神 高龗神
配 神:寛王命
社 格:元村社
境内社:床浦神社 生目神社 金毘羅神社 一事神社 大刀打神社 朝日神社 素鵞社 奈良原神社天満宮 水神社 土居神社
礼 祭:10月5日
由来沿革:縁起によれば、神亀5年8月23日(728)聖武帝の御代詔を奉じ、越智玉純公が、大三島明神を勧請し久米郡石井郷の一の宮とした。
第52代嵯峨天皇(810年頃)の皇子、寛王命が国司としてこの地におられたが、貞観18年(876)5月27日亡くなられたので三島神社の辺に埋葬して王塚と呼ばれた。これ以降三島神社は寛王の墓のそばなので墓辺神とも言われるようになった。後、元慶2年(878)7月8日墓辺神に従五位下が授けられている。また古墳時代中期(400~600)頃、重信川(旧伊予川)を中心にして住んでいた当地の豪族の長が死亡したので、平地に盛り土をして全長62mに及ぶ前方後円墳を築いて葬った。それより王塚神として拝んだものとも考えられる。神社としては最も古い形式の古墳そのものが御神体として拝まれたもので、世にいう本当の氏神様であろう。
元弘3年(1334)8月河野通治・通綱・通増等によって再建され、また天文8年8月土居通高が社殿を再建、明治14年(1881)5月2日に墓辺を波賀部として、社名を波賀部神社と改めた。
神社参道口に社号碑があるが、揮毫は三輪田米山で書き上げに一ヶ月を要したと記録がある。その詳細な記述が久米郷土誌にあるが割愛する。
今まで、6社を探訪して来たが、波賀部神社の規模は一番大きく、そして境内は綺麗に清掃が行き届いていた。今までの6社は日尾八幡神社の三輪田宮司が兼務している神社だが、波賀部神社には宮司が居られるその為に日頃の管理が出来ているからであろう。
この神社境内にも、「日露戦勝記念」の石碑がある。日露戦争で、高井村から戦いに出征し凱旋した皇軍兵士と地元有志が、明治42年3月建立した石碑である。揮毫者は、文学博士 井上圓了書とある。その横に大きな「平和記念碑」が昭和56年9月建立されている。日清、日露、大東亜戦争経た。特に先の大戦で日本は絶滅に近い大打撃を受けた。日本の平和を祈念して、今後絶対に戦争を起こさない事を願っての地元氏子の強い思いがこの石碑に籠められている。
五十鈴神社同様に、松山市景観樹保護地区として、昭和53年4月25日に指定され指定番号は第24号である。
波賀部神社は神主がおられ、久米地区の氏神である、日尾八幡神社に次ぐ社格の高い神社ではないかと思いながら後にした。
次回は、南土居町と隣接する、高井町に鎮座する、高井八幡宮を探訪する。
波賀部神社正面入り口にある社号碑と鳥居、社号碑は、三輪田米山が一か月を掛けて書き上げたと言う。鳥居も立派である。鳥居の前に大きな灯篭がある。社号碑は、明治21年11月7日に、灯篭は、一対あり、東側は、明治32年10月、西側は、明治15年の建立で建立年月日が異なる。社号碑、灯篭に付いては久米郷土誌に詳細な記述があるが、割愛する。しかし記述にも灯篭の建立年月日が異なる事に付いては何も記載されていない。鳥居は、平成8年9月建立とある。
鳥居を潜り参道を歩くと注連石が見えて来る、いよいよ波賀部神社の聖域となる。注連石は明治14年建立。
綺麗に清掃された境内で、立派な拝殿がある。先ずは参拝する。
拝殿には立派で綺麗な注連縄が飾られていた。
拝殿の正面棟には切妻の荘厳な化粧瓦が掲げてあり、頂点に鍾馗さんか、毘沙門天か分からないが鎮座されており、その下に龍がいる。そして破風には神紋の「折敷に三文字」の棟瓦が敷かれている。
拝殿を東側から、その奥に本殿がある。拝殿は瓦葺で、本殿は銅版葺である。棟には、「折敷に三文字」の神紋が描かれている。
拝殿にある「折敷に三文字」の神紋。本殿は大きく今まで探訪して来た神社とは規模が違う。
社格は村社だが、県社に近い風格である。
境内にある末社を紹介すると、先ず拝殿東に、鳥居を構えた末社2社が鎮座している。
向かって左が、一事神社、右が、大刀打神社。
拝殿西側にある末社で、左が朝日神社、右が床浦神社。
朝日神社、床浦神社の前にある末社で、左が、生目神社、右が金毘羅神社。
境内に、「日露戦勝記念」の石碑がある。日露戦争で、高井村から出征し凱旋した皇軍兵士と地元有志が、明治42年3月建立した石碑である。揮毫者は、文学博士 井上圓了書とある。
その横に大きな「平和記念碑」が昭和56年9月建立されている。日清、日露、大東亜戦争経た。特に先の大戦で日本は絶滅に近い大打撃を受けた。日本の平和を祈念して、今後絶対に戦争を起こさない事を願っての地元氏子の強い思いがこの石碑に籠められている。
松山市景観樹林保護地区として、昭和53年4月25日に指定され指定番号は第25号である。
波賀部神社を北方面から見た景観で、波賀部神社古墳である。何時の頃か分からないが、その半分が破壊されている。全長54m、西が(画像右側が西)前方部で幅28m、高さ6,1m、後円部径28m、高さ6,6m、外部に堀を巡らした跡が残っていると記載されている。(伊予路の文化より、松山市文化財協会発行)
松山市教育委員会設置の「波賀部神社古墳」の説明板で、波賀部神社境内にある。