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久米地区の神社探訪その12・日尾八幡神社 3 境内石碑群

2015年07月22日 | 伊予松山歴史散策
旧県社格の日尾八幡神社の境内には、石碑が沢山あり、三輪田米山揮毫の石碑が数基ある。
此処で三輪田米山に就いてふれておこう。
米山は、文政4年(1821)1月10日、日尾八幡神社の神官、河内守清敏の長男として生まれた。幼名を秀雄といい国学者野之口隆正の松山来訪の時入門を許され常貞の名をもらった。号を米山と称した。
学問を好み、和漢書を読みあさり、松山の伊賀海士人、大洲の常盤井厳戈に就いて国学を学び、更に諸国を巡って研鑚を積んだ。
嘉永元年(1848)父清敏が亡くなり家に帰り神職を継いだ。其の後、王 羲之(おうぎし・中国の書家)の書を見て感嘆し書法を猛練習した。そして米山独自の書風を会得し、大いにその名を挙げる様になった。書道ばかりでなく、国学者であり、儒学者である米山は、幕末から明治初期にかけて、社務のかたわら鷹子の自宅に三輪田熟を開き近郷近在の子弟を教育した。福音寺の仙波太郎陸軍中将も三輪田熟の門下生であった。
慶応2年(1866)幕府の第二次長州征伐に際し、親藩である伊予松山藩は出兵を命ぜられ、藩主松平勝成自ら出陣した。この時藩命により戦勝祈願をするよう言い渡された。米山は、「松山藩は徳川幕府の親藩として、心ならずも朝敵と言う汚名を受けられたのでしょう。朝敵が勝つように祈るのは臣下のする事ではありません。神様もまたお受けなさるはずもありません。」ときっぱり戦勝祈願を断ったと言われている、度胸がすわった神官であったそうです。
また米山は、酒好きとして有名で、揮毫する時は好きな酒を飲んでから筆を執ったと言われている。但し酒を飲まないで書かれたこともあり、その時の揮毫も素晴らしい書体として残っている。
明治41年11月3日、88歳を以て生涯を閉じた。多岐に渡り活躍した神官であった。
日尾八幡神社の末社は15社あるが全ての神社ではないが社号碑の揮毫は米山の筆が多い。
また、境内には、灯篭・狛犬・玉垣・幟立石・等沢山の石碑がある。


三輪田米山が生まれた日尾八幡神社の社号碑で、側面に明治13年庚辰12月と彫られている。
高さ3,1m、正面幅53㎝、厚さ45㎝、西側面に氏子中とある。米山60歳の書である。この社号碑と傍に立つ注連石の書と共に世の人々の称賛を浴び、米山の名を高め、以後揮毫の依頼が増え、ことに社号碑の揮毫依頼がにわかに増えたそうだ。


日尾八幡神社正面大鳥居の前にある注連石で、向かって右に「鳥舞」左には「魚躍」と揮毫されている。社号碑と共に米山の名を高めた書である。明治13年10月15日建立で米山60歳の時である。


三輪田米山記念碑「米山碑」。
米山の古里に米山碑がないのは残念なことだ。と「鷹子ふるさと会」で話が出たことが契機となり記念碑の建立が計画され、地区内外多数の人の賛同を得て、三輪田米山記念碑が建立された。高さ3,4mの巨石に、書家浅海蘇山が揮毫「米山碑」の三文字が彫られている。米山が宮司であった日尾八幡神社神門下広場に平成元年2月28日、米山を偲ぶ300名が集まり米山より4代目の三輪田葉子らが紅白の綱を引き除幕された。石は米山の墓が伊予の青石に因んでこの米山碑も同じ伊予の青石を使っている。
なお墓所は、四国88ヶ所第49番霊場浄土寺の墓地にある。




番外米山の墓。
米山と言えば酒がすぐ連想される。自宅(日尾八幡神社の神官自宅)の前には、後藤酒造「久米の井」がありよく酒を飲みに行ったそうだ。後に面白可笑しく大分拡張だれ伝えられているが、酒がお好きであった事には間違いなく、酔われてから筆をとられた事も事実、飲まないで書かれた事も事実である。多くの名筆を残し明治41年11月3日、88歳の高齢で生涯を閉じた。
墓は、浄土寺にあり、墓碑銘の文字は、生前自ら書いたもので、表面に、米山三輪田先生墓、裏面に、教正自取筆、明治廿七年甲午冬十一月習書、明生中建之 明治四十一年十一月三日逝去 年八十八・・と書かれている。




三輪田元綱碑。三輪田米山記念碑「米山碑」の左にある。三輪田3兄弟の1人。
三輪田元綱は、文政11年(1828)、日尾八幡神社の神官、河内守三輪田清敏の3男として生まれた。米山の弟で元綱も学問を好み、阿沼美神社の神官田内董史について和漢の学を修めた。
安政6年(1859)4月、国学者近藤芳樹の来松に接して直接その教えを受けた。同年11月芳樹の長州へ赴くに際し元綱も同行して岩見・出雲の諸国を歴遊し、広く勤王の志士と交遊を深め翌年万延元年帰郷した。兄米山同様に大洲の常盤井厳戈・矢野玄道から国学を学び研鑚を積んだ。その後江戸に上がって平田鉄胤について益々学識を深め、桜田門外の変の情勢を見聞した。そして京都に移り、勤王の志士達と交遊を深めその結果、京都守護職松平容保の命を受けた新選組の浪士狩りにより同志らと共に捕らわれの身となった。元綱は、但馬豊岡の京極飛騨守家へお預け、押し込めの身となった。時に歳36歳であった。幽閉5年、明治維新と共に許され自由の身となり帰郷、その後新政府に召され神祇権少祐、更に大学丞となり更に累進して外務権大丞(外交官)に進み、明治2年(1869)従6位を授与された。しかし間もなく病にて官を辞した。
郷里へ帰り静養も空しく、明治12年(1879)1月14日、54歳で波乱の生涯を閉じた。


番外、三輪田元綱の墓。
墓所は、三輪田家の前にある墓地にある。墓石は東向きで、正面に「権小教正三輪田元綱墓」南面に「旹年五十四」北面に明治12年1月14日とある。兄米山はこの年59歳。明治維新の際、勤王に身を捧げた末弟の墓碑銘を米山はどんな思いで筆をとったのであろうか。
米山と元綱の間にもう一人兄弟がいた、三輪田清敏の2男、三輪田高房で、文政6年(1823)10月8日、高房も兄米山、弟元綱同様に学問を好み、江戸に出て昌平校に学び「伊予の田舎にもこんな男がいたのか。」と教授や同僚を驚かせたと言われた。松山に帰り万延2年(1861)伊予松山藩校明教館(現愛媛県立松山東高等学校)で藩士の子弟を教え、明治5年久松定謨(旧伊予松山藩松平(久松)家第16代当主)の守役となり、明治16年学習院の講師及び幹事になった。明治43年11月5日、88歳で逝去した。墓は東京の青山墓地にある。藩校明教館で秋山好古(幼名信三郎・坂の上の雲の主人公の一人。)も教えを得た一人である。


三輪田米山・三輪田元綱の石碑の前に「告朔之餼羊(こくさくのきよう)」と揮毫されている石碑がある。原点は論語の「八佾第三(はちいつ)」によるものだとか。昭和62年3月除幕されている。石碑は、高さ2,2m、幅1,3m、の御影石。
この碑は書道誌「書神」の前会長であった書家故、織田子鵬の業績を称え書神会松山支部によって建てられた。子鵬が生前今治から松山へ度々指導に来られたこと、また、久米地区に門弟が多いこと等から、書家米山縁のこの地を選び、一周忌を期して昭和62年3月8日に建てられた。碑の文字は、中国の故事から出た言葉で「古くからの習慣は、理由なく廃止せずに保存し、他日の用に立てるべきである。」と言う意味だそうだ。・・字体は何と言う字体か?凡人には、一字、一字の文字さえも分からない。
告朔之餼羊の石碑、左に「明治百年記念樹」の石碑があるが、記念樹として植栽したであろう、土を盛土して植栽した形跡は伺えるが記念樹は枯死したのか現存しない。


神門の東に社務所がある。社務所玄関の左に紀元2600年記念の碑がある。
紀元2600年記念とは、昭和15年(1940)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った一連の行事。昭和15年に誕生した子供の名前には「紀」を使った名前が多い。紀子、秀紀、紀夫等。


日尾八幡神社の神門の西側に建立されている。
正面に「忠魂碑」と豪快な文字が刻まれている。裏面には、支那事変より大東亜戦争にかけて、国家鎮護の神となられた219柱の氏名と、「昭和35年10月嘉辰建之」と言う文字が刻まれている。碑の石材は花崗岩で、高さ3,5m、台座石の高さが2m、合わせて高さが5,5mもある巨大な碑である。この忠魂碑建立に就いては、元在郷軍人久米村分会長故石川元一らが、英霊に感謝し、その氏名を永久に残し祀るもので、揮毫は、鷹子の故、窪田久で名筆である。


神門を潜ると直ぐ左側に「手水石・(漱石)」がある。正面に米山揮毫である。何時頃揮毫したのかは不明で、米山らしい豪快な筆である。


神門から158段の長い石段を上り詰めると社殿があるが、その石段沿いに左右16基の灯篭が建立されている。石段沿い中腹に、境内末社:黒田霊社・奈良原神社・杉谷金毘羅社・の3社がある。


神門を潜ると158段の長い石段がある。その石段沿いに左右16基灯篭があり、石段を上り詰めると社殿があるがその前に、注連石が視野に入ってくる。揮毫は三輪田米山で左が「如水」右が「上善」昭和55年5月建立で新しい注連石である。「如水」・「上善」は米山生前に書き留めていたものを使用した。


息を弾ませて158段の石段を上り詰めると、日尾八幡神社の拝殿に辿り着く。拝殿の左側に百度石がある。高さ1,15m、正面に「百度石」と楷書で揮毫、正に米山らしい文字であり、如何に多くの人々が、如何に多くの願いをこめてこの百度石の前に立った事であろう。西側面に「明治23年12月」と書かれている。米山70歳の時である。
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