伊賀上野城
平成21年11月8日、明石城跡の次に伊賀上野城を訪ねた。
この日は、10月の気温で汗だくで城を見学した。明石城の時も暑かった。
さて伊賀上野城は、海抜180mの丘の上に慶長13年(1608年)徳川家康の命を受け伊予今治藩から転封、反徳川方の紀伊・大和勢力の押さえとして、そして大坂方との決戦に備えて、もし大坂決戦に失敗した時の家康を迎え入れる城として築城の名人藤堂高虎が築城を開始した。
北、西、南、三面に高さ日本一と言われる30mを越える高石垣を構築(敵の防御として)天守は5層の壮大なものだったが、竣工直前慶長17年(1612年9月)に大暴風で倒壊、1615年大坂夏の陣で徳川方の勝利で上野城の必要性がなくなり天守は再建されなかった。
高虎は、外様でありながら特別譜代大名扱いで家康から厚い信頼を受けた。
伊予今治藩から移封の際は、今治城天守を解体し家康に献上、天下普請で築城する丹波亀山城の天守として用いた。
先日訪れた伊賀上野城天守は、昭和7年地元の川崎克氏が私財を投じて桃山形式の木造建築で層塔型の模擬天守を昭和10年に完成させた。
天守最上階の天井に各界有識者の揮毫が展示されていた。
高石垣の一部は崩れかかっている箇所が有り心配だ。
城の直ぐ南にある上野高等学校校内に、上野市指定文化財「旧藤堂藩武器庫」がある。
藤堂家の本拠地は、津城(津藩)で初代から明治維新まで血統していて伊予松山藩最後の藩主、第14代藩主、松平定昭は、津藩主藤堂高猷の5男である。
伊賀上野城は、日本100名城第47番目で、私は38番目の紀行である。次は、中国地方の城、「広島城・岩国城・津和野城・萩城」に行く予定で、これが終わると中・四国の100名城紀行が完成する。
画像は、昭和10年に完成した伊賀上野城天守で正式名称は、「伊賀文化産業城」と称している。
平成21年11月8日、明石城跡の次に伊賀上野城を訪ねた。
この日は、10月の気温で汗だくで城を見学した。明石城の時も暑かった。
さて伊賀上野城は、海抜180mの丘の上に慶長13年(1608年)徳川家康の命を受け伊予今治藩から転封、反徳川方の紀伊・大和勢力の押さえとして、そして大坂方との決戦に備えて、もし大坂決戦に失敗した時の家康を迎え入れる城として築城の名人藤堂高虎が築城を開始した。
北、西、南、三面に高さ日本一と言われる30mを越える高石垣を構築(敵の防御として)天守は5層の壮大なものだったが、竣工直前慶長17年(1612年9月)に大暴風で倒壊、1615年大坂夏の陣で徳川方の勝利で上野城の必要性がなくなり天守は再建されなかった。
高虎は、外様でありながら特別譜代大名扱いで家康から厚い信頼を受けた。
伊予今治藩から移封の際は、今治城天守を解体し家康に献上、天下普請で築城する丹波亀山城の天守として用いた。
先日訪れた伊賀上野城天守は、昭和7年地元の川崎克氏が私財を投じて桃山形式の木造建築で層塔型の模擬天守を昭和10年に完成させた。
天守最上階の天井に各界有識者の揮毫が展示されていた。
高石垣の一部は崩れかかっている箇所が有り心配だ。
城の直ぐ南にある上野高等学校校内に、上野市指定文化財「旧藤堂藩武器庫」がある。
藤堂家の本拠地は、津城(津藩)で初代から明治維新まで血統していて伊予松山藩最後の藩主、第14代藩主、松平定昭は、津藩主藤堂高猷の5男である。
伊賀上野城は、日本100名城第47番目で、私は38番目の紀行である。次は、中国地方の城、「広島城・岩国城・津和野城・萩城」に行く予定で、これが終わると中・四国の100名城紀行が完成する。
画像は、昭和10年に完成した伊賀上野城天守で正式名称は、「伊賀文化産業城」と称している。