EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

岩国城 復興天守

2009年11月23日 | 往年の名車 メグロ
岩国城

平成21年11月21日、広島城を紀行しその次に訪ねた。
広島城の時は小雨がぱらついたが、岩国に着いた頃にはいい天気になっていた。
関ヶ原の戦い後、広島藩主毛利120万石は、萩に36万石に減封され、
吉川も毛利家の同属のあおりで出雲の富田城12万石から岩国3万石に、転封された。初代藩主吉川広家は、1608年横山の山頂に岩国城を築城した。
城は、白亜の3層4階の桃山風南蛮造りの山城であった。

1615年幕府は1国1城令が発布され築完成7年後に取り壊された。
現天守は、昭和32年市民から多額な寄附が寄せられ昭和37年3月21日に復興天守として竣工された。当時を思わせる桃山風南蛮造りである。構造は鉄筋コンクリートで錦帯橋からの景観を重視し本来の位置よりも南側に移動して建造したと記譜してある。

なお、吉川には、毛利元就の次男が養子として入り、3男隆景は、小早川家に養子として行き、毛利両川として毛利家を支えた。

21日に訪れたが錦帯橋と岩国城を見学する人たちで賑わっていた。


岩国城は、日本100名城第74番目で、私は40番目の紀行である。次は、津和野城、に行く。

画像は、昭和37年に市民の寄附で復興天守として鉄筋コンクリートで造られた岩国城天守
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広島城 外観復元天守

2009年11月23日 | 往年の名車 メグロ
広島城

平成21年11月21日、広島城を訪ねた。
この日は、曇天で時々小雨がぱらついた。広島城は21年ぶりに尋ねた。
この城は、毛利元就の孫、毛利輝元が築城したのが始まりで、関ヶ原の戦い後、福島正則が領主として入城し外堀や外城郭を整備し広島城を完成させた。

しかし1619年城の修築許可の不備をとがめられ信州高井野藩4万5000石に減封された。
その後に、和歌山から浅野長晟(ながあきら)が広島城主に抜擢され以後浅野家が明治維新まで続いた。
忠臣蔵の赤穂藩浅野家の本家である。

明治6年の廃城令はまぬかれ、天守は現存したが、昭和20年8月6日原子爆弾により壊滅、その後天守は、昭和26年広島国体記念に木造仮天守が造られたが国体終了後解体された。

現天守は、昭和32年広島復興大博覧会が開催された際、鉄筋コンクリート構造で外観復元された。
今回訪れたが、二の丸の御門橋・表御門・平櫓・多門櫓・太鼓櫓が復元されていた。

また、城内には日清戦争時代に設置された広島大本営跡がある。
広島城(別名、鯉城)は、日本100名城第73番目で、私は39番目の紀行である。次は、岩国城、に行く。

画像は、昭和32年に外観復元された広島城天守で、外観から見ると木造のようである。
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