私から見た日本三名城郭紀行 3 名古屋城
名古屋城・・・この城が建つ前にこの場所に那古野城があり、この城で織田信長が生まれたとされている。
徳川家康は、慶長14年(1609年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。慶長15年(1610年)、西国諸大名による天下普請で築城が開始した。
普請奉行は加藤清正、作事奉行は小堀政一、大工頭は中井正清であった。縄張は篠山城に酷似しており、藤堂高虎によるといわている。
天守台石垣は加藤清正が築き、慶長17年(1612年)に大天守が完成した。
名古屋城
徳川御三家の尾張名古屋城昭和27年3月29日に国指定特別史跡・名古屋城跡は、面積:98ヘクタールが「特別史跡名古屋跡」に指定されている
概 要
城郭構造:梯郭式平城
天守構造:連結式層塔型、大天守は5層5階地下1階
昭和34年外観復元(SRC:鉄骨鉄筋コンクリート構造)
築城主 :徳川 家康
築城年 :1610年2月(慶長15年)
廃城年 :明治4年
織田信長誕生の城、那古野城を元に徳川家康が九男義直のために天下普請で築城徳川御三家の尾張徳川17代明治維新まで存続した。
熊本・大坂城とともに日本三名城と称され、私もそれに倣って熊本、大坂。名古屋を紀行した。
名古屋は、昭和37年に始めて訪れ今回が5回目である。
圧巻は、清正が手がけた大天守台で江戸城は別としてこの天守台が一番だと何時も感心する。
天守台、西側、北側の高さが20mあるそうだが(北側の石垣が少し膨らんでいるのが心配・400年の風雪に耐えて来たのだから仕方のない事だろうが)各城の天守台を見てきたが沢山の刻印があり中には、扇子、軍配等々が珍しい。
清正は、天守台を3ヶ月で完成したそうである。
明治6年明治新政府が下した廃城例により14代徳川家慶勝は廃却を申し出たが、中村重遠大佐の尽力で免れた。(たしか姫路城も中村重遠大佐の尽力で残ったのでは??)
昨年12月8日に行った時は、本丸御殿復元の整地は出来ていたが、現在工事は始まっているのであろうか??
完成は平成34年とか・・・・元気であれば行ってみたい。
城内は、明治になり名古屋鎮台が設置、明治5年に歩兵第6聯隊になった記念碑がある。
また、坂の上の雲の主人公の一人である、秋山好古が教師として赴任した名古屋師範学校付属小学校もこの地であった。
昭和20年5月14日、名古屋空襲で天守焼失、昭和34年10月外観復元として再建された立派な天守である。
JR名古屋駅ツインタワーから見た名古屋城天守
西の丸方向から見た天守
御深井丸側から見た清正が築いた天守台、と天守
本丸側からの天守、昭和34年地元商店街市民、全国からの醵金によって外観復元された
小天守から、目隠し用の塀を通り大天守に渡る通路
名古屋城のシンボル「金の鯱」、84%以上の純金で造られ高さ2,7mあったそうだが、現在のものは復元されたもので、復興天守建造のときに、日本国内に数えるほどしか残っていなかった鎚金師で大阪造幣局職員の手により復元製造された。一対に使用された金の重量は88kgである。北側に雄の鯱、南に雌の鯱を上げている。
天守に上っている同じ大きさの模型で、石膏で造り上に金粉を塗っている鯱が天守内に展示されている
天守から見た本丸御殿復元予定地
天守台は清正が担当して築かれた携わった石工達に関係する刻印が沢山残っている・・こんなに多くの刻印が残っている天守台は名古屋城以外では見た事がない
天守台石垣に残る沢山の刻印
名古屋城にも巨石がある・・清正が運び築いた・・しかし巨石の説明版には、この石垣は黒田長政の担当場だったので伝説ではなかろうかとある・・私は清正が運び清正の許可を得て此処に築いたのだと思う
昭和20年5月14日名古屋空襲で焼失する前の名古屋城本丸御殿と大・小天守
昭和20年5月14日名古屋空襲、焼夷弾投下で大火災を起こし焼失した本丸御殿跡と残った大・小天守台
名古屋城築城に大貢献した加藤清正像が名古屋能楽堂傍に建立されている
名古屋城・・・この城が建つ前にこの場所に那古野城があり、この城で織田信長が生まれたとされている。
徳川家康は、慶長14年(1609年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。慶長15年(1610年)、西国諸大名による天下普請で築城が開始した。
普請奉行は加藤清正、作事奉行は小堀政一、大工頭は中井正清であった。縄張は篠山城に酷似しており、藤堂高虎によるといわている。
天守台石垣は加藤清正が築き、慶長17年(1612年)に大天守が完成した。
名古屋城
徳川御三家の尾張名古屋城昭和27年3月29日に国指定特別史跡・名古屋城跡は、面積:98ヘクタールが「特別史跡名古屋跡」に指定されている
概 要
城郭構造:梯郭式平城
天守構造:連結式層塔型、大天守は5層5階地下1階
昭和34年外観復元(SRC:鉄骨鉄筋コンクリート構造)
築城主 :徳川 家康
築城年 :1610年2月(慶長15年)
廃城年 :明治4年
織田信長誕生の城、那古野城を元に徳川家康が九男義直のために天下普請で築城徳川御三家の尾張徳川17代明治維新まで存続した。
熊本・大坂城とともに日本三名城と称され、私もそれに倣って熊本、大坂。名古屋を紀行した。
名古屋は、昭和37年に始めて訪れ今回が5回目である。
圧巻は、清正が手がけた大天守台で江戸城は別としてこの天守台が一番だと何時も感心する。
天守台、西側、北側の高さが20mあるそうだが(北側の石垣が少し膨らんでいるのが心配・400年の風雪に耐えて来たのだから仕方のない事だろうが)各城の天守台を見てきたが沢山の刻印があり中には、扇子、軍配等々が珍しい。
清正は、天守台を3ヶ月で完成したそうである。
明治6年明治新政府が下した廃城例により14代徳川家慶勝は廃却を申し出たが、中村重遠大佐の尽力で免れた。(たしか姫路城も中村重遠大佐の尽力で残ったのでは??)
昨年12月8日に行った時は、本丸御殿復元の整地は出来ていたが、現在工事は始まっているのであろうか??
完成は平成34年とか・・・・元気であれば行ってみたい。
城内は、明治になり名古屋鎮台が設置、明治5年に歩兵第6聯隊になった記念碑がある。
また、坂の上の雲の主人公の一人である、秋山好古が教師として赴任した名古屋師範学校付属小学校もこの地であった。
昭和20年5月14日、名古屋空襲で天守焼失、昭和34年10月外観復元として再建された立派な天守である。
JR名古屋駅ツインタワーから見た名古屋城天守
西の丸方向から見た天守
御深井丸側から見た清正が築いた天守台、と天守
本丸側からの天守、昭和34年地元商店街市民、全国からの醵金によって外観復元された
小天守から、目隠し用の塀を通り大天守に渡る通路
名古屋城のシンボル「金の鯱」、84%以上の純金で造られ高さ2,7mあったそうだが、現在のものは復元されたもので、復興天守建造のときに、日本国内に数えるほどしか残っていなかった鎚金師で大阪造幣局職員の手により復元製造された。一対に使用された金の重量は88kgである。北側に雄の鯱、南に雌の鯱を上げている。
天守に上っている同じ大きさの模型で、石膏で造り上に金粉を塗っている鯱が天守内に展示されている
天守から見た本丸御殿復元予定地
天守台は清正が担当して築かれた携わった石工達に関係する刻印が沢山残っている・・こんなに多くの刻印が残っている天守台は名古屋城以外では見た事がない
天守台石垣に残る沢山の刻印
名古屋城にも巨石がある・・清正が運び築いた・・しかし巨石の説明版には、この石垣は黒田長政の担当場だったので伝説ではなかろうかとある・・私は清正が運び清正の許可を得て此処に築いたのだと思う
昭和20年5月14日名古屋空襲で焼失する前の名古屋城本丸御殿と大・小天守
昭和20年5月14日名古屋空襲、焼夷弾投下で大火災を起こし焼失した本丸御殿跡と残った大・小天守台
名古屋城築城に大貢献した加藤清正像が名古屋能楽堂傍に建立されている
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