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私から見た日本三名城郭紀行 2 大坂城

2010年12月20日 | 往年の名車 メグロ
私から見た日本三名城郭紀行 2 大坂城

大坂城
国指定特別史跡・大坂城跡大坂城公園は、面積:107ヘクタールあり、この
うち73ヘクタールが「特別史跡大坂城跡」に指定されている昭和以降、各地で建てられた復興天守の第一号である。
大阪は、度々伺っているが、デジカメ持参で平成20年4月13日・8月25日に伺った。

大坂城は、豊臣氏が築城した当初の城と、落城後に徳川氏が再建した城とで縄張や構造が変更されていて、現在地表から見ることができる縄張はすべて、江戸時代のものである。ただし、堀の位置、門の位置などは秀吉時代と基本的に大きな違いはないとされている。
天守
大坂城の天守は現在までに三度造営されているが、いずれも外観、位置等が異なる。
初代天守(豊臣大坂城)
天守は、複合式若しくは連結式望楼型5層6階地下2階であったと考えられており、外観は、黒漆塗りの下見板張りで、漆喰壁部分も灰色の暗色を用いて、金具や、瓦(金箔瓦)などに施された金を目立たせたと考えられている。一説には、壁板に金の彫刻を施していたというものもある。

立説には、大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)、大坂冬の陣図屏風、大坂城図屏風などが参考にされている場合が多い。特に大坂夏の陣図と冬の陣図では天守の姿が大きく異なっているため、夏の陣のものは再建または改築されたものであると言われ、それに沿った復元案も研究者などから出されている(三浦正幸説)。黒田屏風の姿に近い宮上茂隆の復元案は、大坂城天守閣内の豊臣大坂城再現模型のモデルにもなっている。
二代天守(徳川大坂城)
徳川氏が再建した大坂城の天守は、現在見られる復興天守(大阪城天守閣)の位置とほぼ同じである。江戸城の本丸・初代天守の配置関係と同配置に建てられたと見られている。
天守台は、大天守台の南に小天守台を設けているが小天守は造られずに、天守曲輪のような状態であった。天守へは、本丸御殿からの二階廊下が現在の外接エレベータの位置に架けられていた。建物は独立式層塔型5層5階地下1階で、江戸城天守(初期)を細身にしたような外観で、白漆喰塗籠の壁面であったとみられている。最上層屋根は銅瓦(銅板で造られた本瓦型の金属瓦)葺で、以下は本瓦葺であったという。高さは天守台を含めて58.32mあったとみられている。この事から江戸城の初代天守の縮小移築との説もある。

天守の図面は、内閣文庫所蔵の「大坂御城御天守図(内閣指図)」と、大坂願生寺所蔵の「大坂御天守指図(願生寺指図)」の二つがある。二つの指図は相違しており、どちらかの内部、外観を参考に復元案が出されている。内閣指図の外観は二条城天守とほぼ同じ破風パターンで願生寺指図の外観は名古屋城天守や江戸城天守とほぼ同じ破風パターンである。
復興天守
現在大阪市の象徴となっているのが、大阪城天守閣である。昭和3年に当時の大阪市長関一氏によって再建が提唱され、市民の醵金により昭和6年に竣工した。この市民の寄付には、申し込みが殺到し、僅か半年で目標額の150万円(当時)が集まった。昭和以降、各地で建てられた復興天守の第一号である。

建物は、徳川大坂城の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎をした上に、鉄骨鉄筋コンクリート造りサスベンション工法を用いて建てられた。高さは54.8m(天守台・鯱を含む)。天守閣の中は大阪城天守閣という博物館になっている。
外観は、絵図(大坂夏の陣図屏風)を基に新たに設計されたものである。大坂城の天守は、豊臣大坂城と徳川大坂城のそれぞれで建っていた場所も外観もまったく異なるが、復興天守閣では1層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とした一方、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴(絵図では白鷺)の絵を描いている。この折衷に対しては諸々議論があり、豊臣時代の形式に統一するべきとする意見もある。

平成8年から平成9年にかけて、平成の大改修が行われた。この時、建物全体に改修の手が加えられ、構造は阪神・淡路・大震災級の揺れにも耐えられるように補強され、外観は壁の塗り替え、傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われた。また、身体障害者や高齢者、団体観光客向けにエレベータが小天守台西側(御殿二階廊下跡)に取り付けられた。
豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも30数年で焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後70年を超え、最も長命の天守になった。平成9年、国の登録有形文化財に登録されている。施行は大林組で、たしか名古屋城も大林であったと記憶している。
東京墨田区に建設途上の「東京スカイツリー・電波塔」も大林組、この会社は特殊建設には特技とする技法が培われている。

豊臣秀吉
尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で生まれ名は、藤吉郎といわれ、その後木下藤吉郎秀吉、羽柴秀吉、関白職を賜る為、藤原秀吉となり、天正14年(1586)9月朝廷から関白職を賜り、姓も豊臣を賜った。それまで藤・橘・源・平氏であったが新たに豊臣が加わり5氏と言われた。百姓の出から天下人まで上り詰めた豊臣秀吉、日本で一番出世した人物で築いた城も一番大きな城であった。
秀吉の辞世の句「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

加藤が運んだ巨石

清正は、秀吉の遠縁に当たり、豊臣家に生涯尽くした。秀吉が下し朝鮮出兵にも付き合い、本当に忠義の人。
城内に「肥後石」と呼ばれる33畳ほどもの石があるが、昭和34年の本格的学術調査まで、城内No.2の巨石で清正が運んだもの、と言われてき。徳川大坂城を築くとき、命により諸大名が持ち場を競ったことを、ずっと誰も知らなかった。

肥後石は、高さ5.5メートル、最長部の長さ14メートル、約33畳・120トンもあります。巨石ランキングNo.1(蛸石)はもうちょっとだけ大きく、岡山の池田家が担当した。


昭和になり日本で最初に復興天守として再建された大坂城天守、昭和6年市民の醵金で造られ、4層までが徳川時代で、5層が豊臣時代の複合型天守


現代大阪市のシンボル「大坂城天守」南面下から仰ぎ見た


北側から見た天守


昭和20年の大阪大空襲で1トン爆弾が投下され、爆風で天守台の石垣がずれた


大坂城大手門「高麗門」ここにも大きな石が使われている


大手門左側の石垣、大阪城の石垣は大手門向って左側から積み始め10年掛けて大手門右側まで積み上げた。よく見ると大手左と、右側の石の積み方が違う


10年掛けて積み上げた大手右側の石垣、よく観察すると石積の違いがよく分かる


32m「水面から24m、水深6m基礎の根石を含めると32m」の高石垣日本の城郭の中で一番高い石垣、二番目の高石垣は、藤堂高虎が築いた伊賀上野城の高石垣(29,7m)である・・日本一の石垣にするため大坂城の高石垣は32mにした



大坂城には巨石が沢山あるが、桜門枡形にある「蛸石」がNO1である
大きさは高さ5m・横11,7m・面積59,43㎡、岡山藩池田忠雄が備前大島から切り出し石垣を築いた


大坂城には巨石が沢山あるが、NO2の石で京橋門枡形にある「肥後石」で大きさは高さ5m・横14m・面積54,17㎡、熊本藩加藤清正が小豆島から切り出し石垣を築いた


大坂城でNO3番目に大きい巨石で桜門枡形にある「振袖石」、大きさは高さ4,2m・横13、5m・面積53,85㎡、岡山藩池田忠雄が備前大島から切り出し石垣を築いた


大坂城天守北側の下にある秀頼・淀の自刃の碑


KKR大阪からみた大坂城


大坂城本丸にある秀吉時代の史跡調査用の立坑(普段は鉄製の蓋がされている)


香川県小豆島にある大坂城残石公園に展示してある、切り出した石を筏に積んで大坂城に運んだ当時の様子、また大坂城に運ばれて行くはずであった残石が沢山残っている


香川県小豆島に残る大坂城石垣石切丁場の今も残る巨石






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