松山市城東地区歴史散策追加 16 旧制松山高等学校講堂(章光堂)
伊予松山の教育の原点は、藩政時代伊予松山藩第10代藩主松平定則が文化2年(1805年)に現松山市二番町に興徳館を設け、また文化6年(1809年)に江戸屋敷、愛宕藩邸に三省館を設けた。第11代藩主松平定通は、文政11年(1828年)2月に、これ等の施設を拡充して明教館を創建しここに本格的な藩校が誕生した。
その目的が文武の奨励による綱紀の粛正と、文運の振興にあった。明治になり松山中学となり、この様な素地の基、大正8年に旧制松山高等学校が松山市に設立された。
全国で12番目、四国では最初の旧制高等学校で、文科・理科よりなる修業年限3年の高等科が設置された。
新制愛媛大学の前身校の一つで文理学部の構成母体となった。
新制愛媛大学への包括により文理学部校地として継承され、その後教育学部附属小学校、中学校、の校地となり、現在に至っている。
現在、旧制高校時代の講堂(章光堂)は昭和38年(1963年)以降愛媛大学附属中学校の講堂として使用され、平成10年(1998年)国の登録有形文化財指定(松山市内では初)を受けている。
主な卒業生には、
中村草田男 - 俳人、
宮本顕治 - 文芸評論家から出発し日本共産党委員長・議長、参議院議員。在学時には社会科学研究会を指導。
早坂暁 - 作家・脚本家。学制改革直前に入学。自身の松山高校時代をとりあげた小説は山田洋次監督により「ダウンタウン・ヒーローズ」として映画化された。
桧垣徳太郎 - 郵政大臣、参議院議員、農林事務次官
塩崎潤 - 経済企画庁長官、総務庁長官、衆議院議員、大蔵省主税局長
菅太郎 - 衆議院議員(自由民主党)
がいる。
註:伊予松山藩第10代藩主、松平定則は、徳川御三卿、田安家(第8代将軍 徳川吉宗の次男で、田安家の祖:田安宗武、その3男が伊予松山藩に養子として第9代伊予松山藩主となる)の血統を受け継ぐ名門の出で若くして17歳で亡くなる。藩の教育に取り組んだのは優秀な側用人がいて藩主に助言していたのでは??松山から多くの文人が輩出しているのは、この時代からの素地を受け継いでいるのか??
画像は、旧制松山高等学校の講堂(章光堂)として、大正11年(1922年)2月現在地に建設された。
昭和24年(1949年)教育制度の改正により旧制諸学校が愛媛大学に包括された時に愛媛大学文理学部講堂となり、昭和38年(1963年)付属中学が持田地区に移転した際に愛媛大学付属中学校講堂となり現在に至っている。
本建物は旧制中学時代の諸施設のうち唯一の現存建物であり、昭和53年(1978年)に愛媛大学保存建物に指定され、平成10年(1998年)国の有形文化財として、愛媛県下で2番目に登録された。
文化庁:登録有形文化財(建造物) 第38-0002号
所在は、松山市持田町一丁目5番22号
参考事項:国指定登録有形文化財(建造物)愛媛県第1号は、宇和島市立歴史資料館(旧宇和島警察署)で、平成8年12月3日に指定 第38-0001号、明治17年建造
伊予松山の教育の原点は、藩政時代伊予松山藩第10代藩主松平定則が文化2年(1805年)に現松山市二番町に興徳館を設け、また文化6年(1809年)に江戸屋敷、愛宕藩邸に三省館を設けた。第11代藩主松平定通は、文政11年(1828年)2月に、これ等の施設を拡充して明教館を創建しここに本格的な藩校が誕生した。
その目的が文武の奨励による綱紀の粛正と、文運の振興にあった。明治になり松山中学となり、この様な素地の基、大正8年に旧制松山高等学校が松山市に設立された。
全国で12番目、四国では最初の旧制高等学校で、文科・理科よりなる修業年限3年の高等科が設置された。
新制愛媛大学の前身校の一つで文理学部の構成母体となった。
新制愛媛大学への包括により文理学部校地として継承され、その後教育学部附属小学校、中学校、の校地となり、現在に至っている。
現在、旧制高校時代の講堂(章光堂)は昭和38年(1963年)以降愛媛大学附属中学校の講堂として使用され、平成10年(1998年)国の登録有形文化財指定(松山市内では初)を受けている。
主な卒業生には、
中村草田男 - 俳人、
宮本顕治 - 文芸評論家から出発し日本共産党委員長・議長、参議院議員。在学時には社会科学研究会を指導。
早坂暁 - 作家・脚本家。学制改革直前に入学。自身の松山高校時代をとりあげた小説は山田洋次監督により「ダウンタウン・ヒーローズ」として映画化された。
桧垣徳太郎 - 郵政大臣、参議院議員、農林事務次官
塩崎潤 - 経済企画庁長官、総務庁長官、衆議院議員、大蔵省主税局長
菅太郎 - 衆議院議員(自由民主党)
がいる。
註:伊予松山藩第10代藩主、松平定則は、徳川御三卿、田安家(第8代将軍 徳川吉宗の次男で、田安家の祖:田安宗武、その3男が伊予松山藩に養子として第9代伊予松山藩主となる)の血統を受け継ぐ名門の出で若くして17歳で亡くなる。藩の教育に取り組んだのは優秀な側用人がいて藩主に助言していたのでは??松山から多くの文人が輩出しているのは、この時代からの素地を受け継いでいるのか??
画像は、旧制松山高等学校の講堂(章光堂)として、大正11年(1922年)2月現在地に建設された。
昭和24年(1949年)教育制度の改正により旧制諸学校が愛媛大学に包括された時に愛媛大学文理学部講堂となり、昭和38年(1963年)付属中学が持田地区に移転した際に愛媛大学付属中学校講堂となり現在に至っている。
本建物は旧制中学時代の諸施設のうち唯一の現存建物であり、昭和53年(1978年)に愛媛大学保存建物に指定され、平成10年(1998年)国の有形文化財として、愛媛県下で2番目に登録された。
文化庁:登録有形文化財(建造物) 第38-0002号
所在は、松山市持田町一丁目5番22号
参考事項:国指定登録有形文化財(建造物)愛媛県第1号は、宇和島市立歴史資料館(旧宇和島警察署)で、平成8年12月3日に指定 第38-0001号、明治17年建造
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