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新潟市の郷土歴史研究家「神田氏・来松」坂の上の雲の街松山紀行 3

2010年10月30日 | 往年の名車 メグロ
新潟市の郷土歴史研究家「神田氏・来松」坂の上の雲の街松山紀行 3
 
「坂の上の雲ミユージアム」正岡子規特別展を見学の後訪れたのは、好古が勉学した、伊予松山藩藩校「明教館」と松山中学、松山東高校の同窓会が管理運営している資料館を見学した。
明教館は、藩政時代伊予松山藩の教育の場所であった。

後の松山中学、現 愛媛県立松山東高等学校である。
秋山好古は、明教館で学び、秋山眞之、正岡子規は松山中学で学んだ。明治28年夏目漱石は松山中学の英語教師として赴任、名作「坊ちゃん」は松山中学を舞台にして書かれた記念の場所である。

註1:伊予松山の教育の原点は、藩政時代伊予松山藩第10代藩主松平定則が文化2年(1805年)に現松山市二番町に興徳館を設け、また文化6年(1809年)に江戸屋敷、愛宕藩邸に三省館を設けた。第11代藩主松平定通は、文政11年(1828年)2月に、これ等の施設を拡充して明教館を創建しここに本格的な藩学が誕生した。

註:2伊予松山藩第10代藩主、松平定則は、徳川御三卿の一つである田安家(第8代将軍 徳川吉宗の次男で、田安家の祖:田安宗武、その3男が伊予松山藩に養子として第9代伊予松山藩主となる)の血統を受け継ぐ名門の出で若くして17歳で亡くなるが藩の教育に取り組んだ。

その目的が文武の奨励による綱紀の粛正と、文運の振興にあった。明治になり松山中学となる。この様な素地の基、大正8年に旧制松山高等学校が松山市に全国で12番目、四国で初めて設立された。
多くの文人が輩出しているのは、この時代からの素地を受け継いでいるのでは??


画像は、明教館内部で、特別に開館して頂き見学した。
明教館時代、松山中学時代を卒業した有名人の肖像画が掲載してある。
肖像画の掲示順番は、あいうえお順で最初に秋山眞之が掲載してあった。
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