私から見た日本三名城郭紀行 1 熊本城
現存12天守紀行を尋ね歩いて来た。
次は、私一存による日本三名城郭を紀行してみた。
近世の城郭創建の原点となった安土城、その後江戸時代初期にかけて城が築城されてきた。その中で築城の名人と謳われた、加藤清正、藤堂高虎の名が出てくる。
名城には、いろいろと諸説があるが私なりに文献、資料を参考にして名古屋城・大阪城・熊本城を日本三名城と設定し再度デジカメを持って紀行する事にした。
何故日本三名城と呼ばれるかとある資料を紐解いてみると、江戸時代初期、城造りの名人と言われた加藤清正、藤堂高虎によって普請が行われた城のうち、特に石垣の美しさをもって名古屋城、大阪城、熊本城を日本三名城と呼ぶようになったそうだ。
当時の基準では、城のよしあしは、建築(作事)よりも石垣(普請)にあったようだ。
私の独断と偏見で、名古屋城・大阪城・熊本城にした。
この三条城は、数10年前に行きましたが、持参したカメラがデジカメ時代でなかったのとゆっくり時間を掛けて紀行出来なかったので改めて紀行することにした。
では、先ずは熊本城です。
熊本城
昭和30年に国指定特別史跡・熊本城跡は、面積:98ヘクタールが「特別史跡熊本城跡」に指定されている
昭和35年の熊本国体開催に合わせ熊本市は、一般からの寄付を募り1億8000万円の費用をかけ外観復元で大小天守を再建し大天守の内部は、熊本市立熊本博物館の分館となっている。
築城400年を記念して本丸御殿が今年4月完成したのを機会に4回目の訪問である。
一回目は、昭和37年開催された熊本博覧会の時で二回目が昭和60年、三回目が平成16年7月16日そして今回平成20年9月24日・25日に行った。
城郭構造:梯郭式平城:(本丸を城郭の片隅に配置し、他の曲輪ではしごのように囲む縄張である)
天守構造:連結式望楼型、大天守は5層6階地下1階:昭和35年外観復元
築城主 :加藤 清正
築城年 :1607年
廃城年 :明治7年
熊本城は、豊臣秀吉に仕えた加藤清正が安土桃山時代、天正16年(1588)に肥後北半国を与えられ、隈本城に入城し天正19年に茶臼山に新たな城を築城開始した。
途中文禄・慶長の役で中断したが城が完成したのは慶長12年(1607)で、この時、隈本から熊本に改名した。
清正は、幼少時代から、ねね「政所」にくま、くまと可愛がられ生涯忘れる事はなかった。
本丸御殿の建設も大坂で変が起こった時には豊臣秀頼を迎えるために創建したといわれており、難攻といわれた大坂城は家康の攻略にあって落城したが、熊本城は不落であった。
城は明治まで残っていたが明治10年西南戦争の時焼失し、焼失の原因は一説には、熊本鎮台司令官、谷 干城が官軍兵の決意をかためるためみずから火を放って焼いたという。
西郷軍の包囲猛攻にあいながらびくともしなかったのは、さすが清正が築いた名城と賞賛され西郷隆盛曰く、官軍に負けたのではなく加藤清正公に負けたと言われたとか??
現在、宇土櫓を始め12基の櫓が現存し清正が築いた高石垣もほぼ完全な形で残っている。門、続き塀等々の復元が進んでいる熊本城である。
平成20年9月25日、本丸御殿が復元されたので訪れた。
冠木門の頬当御門・本丸中心部を顔に見立てて顔に付ける小具足の名をつけたといわれる。正面玄関入城券・ガイドの出発地点。
清正流の天守台に建つ本丸正面からの大・小天守・高さ57,8m
清正は、熊本城築城に要する費用の殆どは貿易で捻出し、住民の負担を軽減したといわれている。平成10年4月「熊本城復元整備基金」を創設し賛同し寄附金をした者には城主と称し氏名を天守に掲示している。
石垣天端より大きいな大天守一階:天守台より大きい長い土台材が敷かれ、石垣より大きい一階が建った。忍者返しに使われた。
鉄串忍返:小天守の一階石垣と接する所には両刃の鑓刃が下方を向いて設置され外部からの侵入を防ぐ忍者返しがある。
二様の石垣:清正時代の緩やかな扇の勾配(右)と細川時代の急勾配の石垣
宇土櫓に設けた、犬走状の帯曲輪:地質的に水掘や高石垣が築けない所に城側面に設け敵を引き付け近距離攻撃をする。
宇土櫓は、他藩の天守並みの天守建築櫓で国指定の重要文化財である。
高石垣:高さ25mの高石垣30度から始まり中間で55度、天端では75度になる武者返しと呼ばれている。熊本城は地盤が軟弱であったために石垣の裾を広く緩やかな勾配にして石垣の座りをよくした技法である。
長塀と石垣・石垣、長塀の長が242、44mで日本一である。塀の下を川に沿って歩く事が出来、坪井川は内濠であった。
本丸御殿:防御を考えて地下に玄関を設営した。
本丸御殿、大御台所:良質な木材をふんだんに使い凄い台所である。
本丸御殿、昭君之間:大坂で変が起こった時には豊臣秀頼を迎えるために創建した豪壮な特別な部屋
現存12天守紀行を尋ね歩いて来た。
次は、私一存による日本三名城郭を紀行してみた。
近世の城郭創建の原点となった安土城、その後江戸時代初期にかけて城が築城されてきた。その中で築城の名人と謳われた、加藤清正、藤堂高虎の名が出てくる。
名城には、いろいろと諸説があるが私なりに文献、資料を参考にして名古屋城・大阪城・熊本城を日本三名城と設定し再度デジカメを持って紀行する事にした。
何故日本三名城と呼ばれるかとある資料を紐解いてみると、江戸時代初期、城造りの名人と言われた加藤清正、藤堂高虎によって普請が行われた城のうち、特に石垣の美しさをもって名古屋城、大阪城、熊本城を日本三名城と呼ぶようになったそうだ。
当時の基準では、城のよしあしは、建築(作事)よりも石垣(普請)にあったようだ。
私の独断と偏見で、名古屋城・大阪城・熊本城にした。
この三条城は、数10年前に行きましたが、持参したカメラがデジカメ時代でなかったのとゆっくり時間を掛けて紀行出来なかったので改めて紀行することにした。
では、先ずは熊本城です。
熊本城
昭和30年に国指定特別史跡・熊本城跡は、面積:98ヘクタールが「特別史跡熊本城跡」に指定されている
昭和35年の熊本国体開催に合わせ熊本市は、一般からの寄付を募り1億8000万円の費用をかけ外観復元で大小天守を再建し大天守の内部は、熊本市立熊本博物館の分館となっている。
築城400年を記念して本丸御殿が今年4月完成したのを機会に4回目の訪問である。
一回目は、昭和37年開催された熊本博覧会の時で二回目が昭和60年、三回目が平成16年7月16日そして今回平成20年9月24日・25日に行った。
城郭構造:梯郭式平城:(本丸を城郭の片隅に配置し、他の曲輪ではしごのように囲む縄張である)
天守構造:連結式望楼型、大天守は5層6階地下1階:昭和35年外観復元
築城主 :加藤 清正
築城年 :1607年
廃城年 :明治7年
熊本城は、豊臣秀吉に仕えた加藤清正が安土桃山時代、天正16年(1588)に肥後北半国を与えられ、隈本城に入城し天正19年に茶臼山に新たな城を築城開始した。
途中文禄・慶長の役で中断したが城が完成したのは慶長12年(1607)で、この時、隈本から熊本に改名した。
清正は、幼少時代から、ねね「政所」にくま、くまと可愛がられ生涯忘れる事はなかった。
本丸御殿の建設も大坂で変が起こった時には豊臣秀頼を迎えるために創建したといわれており、難攻といわれた大坂城は家康の攻略にあって落城したが、熊本城は不落であった。
城は明治まで残っていたが明治10年西南戦争の時焼失し、焼失の原因は一説には、熊本鎮台司令官、谷 干城が官軍兵の決意をかためるためみずから火を放って焼いたという。
西郷軍の包囲猛攻にあいながらびくともしなかったのは、さすが清正が築いた名城と賞賛され西郷隆盛曰く、官軍に負けたのではなく加藤清正公に負けたと言われたとか??
現在、宇土櫓を始め12基の櫓が現存し清正が築いた高石垣もほぼ完全な形で残っている。門、続き塀等々の復元が進んでいる熊本城である。
平成20年9月25日、本丸御殿が復元されたので訪れた。
冠木門の頬当御門・本丸中心部を顔に見立てて顔に付ける小具足の名をつけたといわれる。正面玄関入城券・ガイドの出発地点。
清正流の天守台に建つ本丸正面からの大・小天守・高さ57,8m
清正は、熊本城築城に要する費用の殆どは貿易で捻出し、住民の負担を軽減したといわれている。平成10年4月「熊本城復元整備基金」を創設し賛同し寄附金をした者には城主と称し氏名を天守に掲示している。
石垣天端より大きいな大天守一階:天守台より大きい長い土台材が敷かれ、石垣より大きい一階が建った。忍者返しに使われた。
鉄串忍返:小天守の一階石垣と接する所には両刃の鑓刃が下方を向いて設置され外部からの侵入を防ぐ忍者返しがある。
二様の石垣:清正時代の緩やかな扇の勾配(右)と細川時代の急勾配の石垣
宇土櫓に設けた、犬走状の帯曲輪:地質的に水掘や高石垣が築けない所に城側面に設け敵を引き付け近距離攻撃をする。
宇土櫓は、他藩の天守並みの天守建築櫓で国指定の重要文化財である。
高石垣:高さ25mの高石垣30度から始まり中間で55度、天端では75度になる武者返しと呼ばれている。熊本城は地盤が軟弱であったために石垣の裾を広く緩やかな勾配にして石垣の座りをよくした技法である。
長塀と石垣・石垣、長塀の長が242、44mで日本一である。塀の下を川に沿って歩く事が出来、坪井川は内濠であった。
本丸御殿:防御を考えて地下に玄関を設営した。
本丸御殿、大御台所:良質な木材をふんだんに使い凄い台所である。
本丸御殿、昭君之間:大坂で変が起こった時には豊臣秀頼を迎えるために創建した豪壮な特別な部屋
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