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明治期の愛媛の野球を人形で再現

2013年08月13日 | 伊予松山歴史散策
明治の野球をテーマにした創作人形点展「やろうぞな・ベースボール」が松山市一番町三丁目の松山全日空ホテルロビーで開催されている。正岡子規が広めた明治時代の野球の様子を程よく人形で表現している。展示会は8月25日なで。
松山が産んだ偉大な「野球人」の一人に正岡子規があげられる。上京して大学予備門に入学したが、この頃に野球に熱中しはじめたといわれている。子規は数々の野球用語の日本語訳を施したが、そのほとんどが現在でも使われている。それは「直球」「打者」「走者」「飛球」などである。幼名を「升」といったので、それをもじって「野球(のボール)」という雅号もあった。ベースボールを野球と日本語訳したのは中馬庚だが、正岡子規はそれ以前に「野球」という字を使っていたのである。
 大学予備門時代の同級生に、秋山眞之、夏目漱石が居るが、一緒に野球を楽しんだ。そして正岡子規は、平成14年野球殿堂入りした。
平成14年は、松山城築城四百年祭・正岡子規没後百年祭・四国で初めてのプロ野球オールスター戦が開催され、試合の前に・正岡子規は野球殿堂入りし、その記念式典が行われた。
それは、下記の理由である。
明治17年、東京大学予備門時代にベースボールを知り、野球に熱中したといわれる。22年7月には、郷里の松山にバットとボールを持ち帰り、松山中学の生徒らにベースボールを教えた。23年2月、『筆まかせ』の雅号の項に「野球」が初めて見られ、幼名「升」から(のぼーる)と読ませている。29年には「日本」新聞に連載された『松蘿玉液』の中で野球のルール、用具、方法などについてくわしく解説している。野球を詠んだ短歌、俳句も数多く見られ、新聞や自分の作品の中で紹介し、野球の普及に多大な貢献をした。「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」「今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打ち騒ぐかな」

また東京都台東区では、 上野恩賜公園に、上野恩賜公園開園式典130周年を迎え130周年記念事業の一環として、正岡子規の句碑を、東京都による上野恩賜公園野球場の改修にあわせて、設置した。句碑には、正岡子規の野球に対する思いを表した句、「春風やまりを投げたき草の原」が刻まれている。また、同野球場の愛称が、東京都の協力により「正岡子規記念球場」となった。

松山市が管理する、松山中央公園野球場がある。愛称坊っちゃんスタジアムと呼んでいる。なぜ、正岡子規記念球場と命名しなかったのか不思議である。
参考までに
夏の甲子園で一番勝率がいいのは、愛媛県で以下の通り。
1位 愛媛県 .651 (114勝61敗)
2位 大阪府 .648 (153勝83敗)
3位 神奈川 .634 (116勝67敗)
4位 和歌山県.621 (118勝72敗)
5位 広島県 .617 (111勝69敗)
ちなみに全都道府県から出場校が出揃ったのは昭和53年(1978)の60回大会以降なので、各県の出場回数には差がある。但し記念大会時は各県の出場あり。「(1府県1代表制(但し北海道・東京都は2代表制))
成績は、
中京大中京(愛知県) 76勝19敗  優勝7回 準優勝0回
松山商業 (愛媛県) 60勝21敗1分  優勝5回 準優勝3回
龍谷大平安(京都府) 58勝28敗    優勝3回 準優勝4回


全日空ホテルロビーの一角に展示されている、案内板。


伊予松山城をバックに楽しげに野球を楽しむ風景。


球審は和服姿。


創作展での捕手は、野球に詳しく、頭脳的に配慮が出来る正岡子規を置き!!


投手には、愛媛の野球、戦前戦後を通じて最高の投手、安楽智大を配したと作者の森川真紀子さんは言っていた。度々安楽投手の試合を観戦し顔の表情を観察して創りましたと!!その安楽投手いよいよ明日甲子園に登場、頑張れ安楽投手。


画像は、今年の愛媛県大会で優勝したときの安楽智大投手で、森川さんは人形の投手を安楽君に仕上げた。


森川真紀子さんはこんな表示板を掲載している。


正岡子規は野球を愛し、松山の子供たちに教えたその詩を詠んでいる。・・これも会場に置いている。


地元紙に掲載された新聞記事。


松山全日空ホテルロビー。
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