今年も12月14日がやって来た。赤穂浪士の関係ある地方で義士祭が開催された。松山でも第54回の義士祭が松山市長参列の下供養がしめやかに行われた。
伊豫松山藩と赤穂浪士の関係は下記の通りで、浪士の内10名を幕府からの指示で伊予松山藩が預かった。
討ち入りした47名は、幕府大目付けへ自首し、細川、水野、毛利、伊予松山藩に預けられ、伊予松山藩では、大石主税ら10名を江戸中屋敷に収容し、切腹まで面倒をみた。
この内大高源吾、木村岡右衛門の切腹を介錯した藩士宮原久太夫は、両名の遺髪を藩主の許しを得て、松山にある宮原家の菩提寺、興聖寺(こうしょうじ)に二人の墓を建立し納め供養した。その墓は今も義士祭を開催して供養されている。
宮原久太夫は、この介錯の後、俳諧で著名であった人でも殺さねばならない武士というものに嫌気がさし、武士を捨てて松山で酒屋に転じている。その子孫は、現在も横浜市に在住とある。
平成29年12月9日(土)午後10時からBS-TBSで放映された「諸説あり!忠臣蔵の真実:赤穂浪士による吉良邸討ち入り「討ち入りは赤穂浪士の就職活動だった」と説明した昭和女子大学文化学科・山岸良二先生の説は、初めて聴いた事でビックリした。
山岸良二先生とは面識がありますが、色んな分野で研究をされている学者です。
義士祭が行われる興聖寺、此処に大高源吾、木村岡右衛門の供養墓がある。
また伊予松山藩24万石、第2代目城主・蒲生忠知の墓もある。
伊予鉄髙島屋デパート東側を行く義士行列。
平成29年12月14日、松山の最低気温は、今季最低のー0,5度、12時過ぎの気温は8,7度で1月下旬から2月の寒い日の義士祭であった。
伊予鉄髙島屋デパート前で記念の集合写真。
昨年は、赤穂浪士に関する番組が多くTV放映されたが、今年は何故か一番組しかなかった。
興聖寺の大高源吾、木村岡右衛門の供養墓で墓参りをする、野志松山市長、毎年義士祭には参列される。
大高源吾、木村岡右衛門の切腹を介錯した藩士宮原久太夫は両名の遺髪を藩主の許しを得て、松山にある宮原家の菩提寺、興聖寺(こうしょうじ)に二人の墓を建立し納め供養した。その墓は今も義士祭を開催して供養されている。
宮原家の菩提寺、興聖寺(こうしょうじ)に二人の墓の説明版。
義士行列に参加した関係者は、興聖寺境内で持て成しの、討ち入りそばを頂く。
義士の故郷、赤穂からお礼にと送られて来た「ハゼノ樹」。道後湯築城外堀に地元の道後地区土地改良区が大切に保存している。
平成29年12月9日(土)午後10時からBS-TBSで放映された「諸説あり!忠臣蔵の真実:赤穂浪士による吉良邸討ち入り」「討ち入りは赤穂浪士の就職活動だった」と説明した昭和女子大学文化学科・山岸良二先生。
また、山岸良二先生は、秋山好古と習志野騎兵隊の研究者としては第一人者で、特に習志野騎兵連隊について造詣の深い方です。平成29年10月18日、松山市歩行町にある、秋山兄弟生誕地で特別講演会が開催され、松山での講演演目は「秋山好古と習志野騎兵旅団」で好古を軸にその人物に迫る大変貴重な講話をされ、松山市民の知らない好古の凄さを改めて確信した思いで参加者は熱心に聴講した。
江戸城本丸跡にある松之大廊下の位置図。
江戸城本丸跡(現在、東御苑)に建立されている「松之大廊下跡」の記念碑。
伊予松山藩江戸中屋敷は、現在イタリア大使館となっており、何代目かの大使が、歴史のある処ゆえにと記念碑を建立し、大使館の庭も当時の面影を残し、赤穂浪士の慰霊祭を行っているそうです。
吉良邸跡にある記念碑。
泉岳寺にある「寺坂吉右衛門の墓」
諸説あるが、吉良邸討ち入り後、大石内蔵助良雄の命を受けた寺坂吉右衛門は、同志と別れ本懐の報告、亡君や同志の弔いのため諸国を巡ったとある。そんな関係で全国に吉右衛門の墓と称する墓所が7ヶ所あると言われている。
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