伊予松山城 本壇天守「連立式城郭」
加藤嘉明が、1602年1月15日に築城を始めた伊予松山城、現存する天守は嘉永5年(1852年)12月20日に復興事業完成、安政元年(1854年)2月8日に最大に落成式典が行われた。天明4年(1784年)落雷で天守焼失71年の経過である。この時の藩主は第12代松平定穀(後に、勝善と改名・島津斉宣の11男)である。
この復興された城郭は連立式建築の最も完備した形式と偉観を持つこととなった。連立式城郭とは、天守が並立する二基以上の城櫓によって形成したものをいい、中庭の備えがある。松山城では天守を中心に多門北隅櫓・南隅櫓、続いて小天守を廊下櫓でつないでいる。この様式を持つ城郭は姫路城・和歌山城があるが松山城は最も完全なものである。(姫路城は一般公開してない)
今日から数回に分けて松山城天守内部を画像で紹介しよう。
伊予松山城は、日本100名城第81番目の指定である。
画像は、伊予松山城本壇で天守を中心に整然と連立されている様子がよく分かる。嘉永5年12月20日完成、安政元年2月8日落成式典をした今から159年前に復興された現存12天守で一番新しい天守である。
加藤嘉明が、1602年1月15日に築城を始めた伊予松山城、現存する天守は嘉永5年(1852年)12月20日に復興事業完成、安政元年(1854年)2月8日に最大に落成式典が行われた。天明4年(1784年)落雷で天守焼失71年の経過である。この時の藩主は第12代松平定穀(後に、勝善と改名・島津斉宣の11男)である。
この復興された城郭は連立式建築の最も完備した形式と偉観を持つこととなった。連立式城郭とは、天守が並立する二基以上の城櫓によって形成したものをいい、中庭の備えがある。松山城では天守を中心に多門北隅櫓・南隅櫓、続いて小天守を廊下櫓でつないでいる。この様式を持つ城郭は姫路城・和歌山城があるが松山城は最も完全なものである。(姫路城は一般公開してない)
今日から数回に分けて松山城天守内部を画像で紹介しよう。
伊予松山城は、日本100名城第81番目の指定である。
画像は、伊予松山城本壇で天守を中心に整然と連立されている様子がよく分かる。嘉永5年12月20日完成、安政元年2月8日落成式典をした今から159年前に復興された現存12天守で一番新しい天守である。
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