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秋山好古揮毫石碑紀行 7 千葉県船橋市の碑 

2015年11月21日 | 伊予松山歴史散策
平成17年習志野市から松山の秋山兄弟生誕地にお越しになった方からの情報を頂き、平成17年9月11日、事前に陸上自衛隊習志野駐屯地に写真取材の申請をして取材した。
石碑の所在地は、千葉県船橋市薬円台三丁目20番1号、陸上自衛隊習志野駐屯地である。
この地は、陸軍騎兵学校の前身である陸軍乗馬学校があった。明治21年東京市麹町区元衛町に創立、同24年に東京府荏原郡目黒村上目黒(現在の目黒区大橋二丁目)に移転、明治31年陸軍騎兵実施学校となり大正5年12月千葉県千葉郡二宮町(現在地船橋市)に移転、翌6年9月陸軍騎兵学校と改称された。習志野は、日本騎兵の中枢だったため軍馬慰霊碑が騎兵学校に建立された。日本騎兵の父と言われた第2代目騎兵学校長・秋山好古大将が揮毫して建立された。
題字は、好古が入院直前、昭和5年10月5日の筆で此れが秋山好古の絶筆である。石碑は、昭和5年11月に建立された。
昭和11年11月1日秋山好古大将伝記刊行会発行「秋山好古」の背文字は、その署名を写したものである。


軍馬慰霊之碑の揮毫は、昭和5年10月5日の筆で、これが好古の絶筆、入院直前に揮毫した。石碑の建立は昭和5年11月である。好古はこの立派な石碑を見ることなく逝去した。
秋山好古は、昭和5年3月、郷里松山の「北豫中学校・現、愛媛県立松山北高等学校」校長を退職し子供と奥様の待つ東京に帰るが、体調が悪化し同年11月4日、東京陸軍病院で逝去、72歳の大往生、教師として社会に出て軍人の生活が長かったが最後は教師として世を終えた。
大正12年4月元帥に推薦せれるも此れを辞退した。辞退した事に付いて大元帥(大正天皇)は大変驚かれ、大元帥は、特旨として官位従二位を好古に与えた。大正13年郷里伊予松山から北豫中学校長就任の強い要請にこたえ6年間校長を務め松山の青少年の教育に功績を残した。好古の信条は「簡単明瞭、質素倹約、」座右の銘は「独立自尊」尊敬する人物は福沢諭吉であった。人間幾つになっても教育が大切・・生涯教育である。72歳を生き抜いて来た好古の生き方に感銘する全国の秋山好古を尊敬する皆さんが今も秋山兄弟生誕地にお越しになって好古が生きて来た過程を思い偲んでおられる。そして兄の生き方を見て育った弟眞之がいた。本人たちも世の為、人の為、故郷の人の為になるようにと育てた両親が凄いと思う。来館された方々もその事を語られる。


揮毫者、秋山好古の名前を切り抜き大きくした。


軍馬慰霊之碑の前にある「軍馬慰霊の塔」


御馬見所(現、空挺館)
軍馬慰霊之碑の前に御馬見所(現、空挺館)がある。
陸軍騎兵実施学校は東京目黒に置かれていた頃、明治天皇は騎兵実施学校の卒業式をはじめ、しばしば実習を天覧された。明治44年高齢になられた天皇のために騎兵操兵・馬場馬術などを展覧するための施設である御馬見所が建てられた。騎兵実施学校が大正5年船橋に移転し、同時に拡大され騎兵学校と改称、此れに伴い御馬見所も解体移築された。この建物に天皇の登台は都合4回に及んだ。御馬見所は晩年の天皇の体力に合わせて設計されており、入口を入ると真っ直ぐ緩やかな階段となり、バルコニーの手前に出るようになっていて内部の装飾は質素な中にも天皇の品位を保つ格調の高いものとなっている。


画像は御馬見所バルコニー内部。


御馬見所(現、空挺館)二階展示室にある歴代の騎馬学校長の写真が掲示されている。秋山好古は第2代目校長を務めた。


此れからの画像は、平成24年10月31日、新潟市の北方博物館と好古揮毫の「忠魂碑」見学に行った時、習志野市にも立ち寄り研修した。習志野市大久保の皆さんが歓迎表示板を創って頂き歓迎して貰った。学園大久保商店街資料館前にて。


習志野市にある東邦大学正門で、旧騎兵第14連隊跡である。


習志野市にある東邦大学校内に秋山好古時代に使われた騎兵隊兵舎が現存しており現在は、柔道と空手の武道場として使われている。明治時代の由緒ある建造物のため、東邦大学は永久保存にする事を決定された。その建物を見学した。


東邦大学漢学の後陸上自衛隊習志野駐屯地を見学した。ここに好古が揮毫しその筆が絶筆となった石碑を顕彰するために伺った。
習志野市学園大久保の皆様と秋山兄弟生誕地の研究員。秋山好古絶筆となった「軍馬慰霊之碑」の前で、好古を偲びながら。


駐屯地の中には、日本騎兵之碑が建立してあった。日本の騎兵は秋山好古が育てその機能が充実した場所がここであるから。


見学を終え陸上自衛隊習志野駐屯地の正面玄関で。


陸上自衛隊習志野駐屯地からJR津田沼駅寄りで、好古が習志野時代に過ごした官舎の後、現在は画像の様になっている。NHK坂の上の雲ドラマで、秋山眞之が白の軍服姿で妻季子の迎えを受け亡くなった母を見舞いに来る場面がありましたが、この地に眞之は来たのです。


習志野から東京に出て最後に青山霊園にある好古の墓所をお参りして今回の研修の成果を報告して帰松した。今回は良い勉強をさせて頂きました。
新潟市、習志野市の皆さんその節は大変お世話になりました。
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