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秋山好古揮毫石碑紀行 2 神奈川県平塚市の碑

2015年11月14日 | 伊予松山歴史散策
明治29年6月30日、秋山好古は日清戦争の役で祖国防衛の為名誉な戦死をした騎兵第1連隊所属14名の哀悼碑を東京世田谷池尻に建立した。
それから116年後、神奈川県平塚市から出征した「添田賢次郎」騎兵隊員の義烈の石碑が発見された。
添田賢次郎氏は、神奈川県大住郡金目村字広川(現 平塚市広川)で保吉氏の長男として生まれた。明治26年12月、第一師団騎兵第一大隊第二中隊に入隊し、その後騎兵一等卒に進み馬術・銃鎗の技を修め本体に属し戦地に赴いった。
そして斥候の任務に服し蓋平の戦いに於いて勇ましく戦い、二道溝栄口に敵を迎え撃つも激戦の末名誉な戦死をした。
騎兵隊員、添田賢次郎の実父、添田保吉は、息子の名誉な戦死を添田家の後世に伝えたく秋山好古に揮毫を依頼し石碑を建立した。
現在、好古揮毫の石碑は全国に52基(平成27年9月10日現在)発見されているが、名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員について漢詩で撰文した石碑は2基のみである。(1基は千葉県道野辺神社三分割され21年間眠っている)よって建立されているのはこの石碑のみである。
石碑の情報提供者は、添田保吉氏から4代目に当たる、吉則氏の妻、添田敬子氏が遠路はるばる神奈川県平塚市から平成24年4月18日、秋山邸に石碑に関する資料を持参してお越しになり判明した。東京世田谷区にある石碑「日清戦争で戦死した哀悼碑」の裏面に、好古は14名の隊員の氏名を自筆で刻印しているが、騎兵一等卒添田賢次郎氏の名前を好古は忘れることなく揮毫している。平塚市の石碑は、2番目に古い貴重な石碑である。
平成24年5月23日現地平塚市に伺い写真取材をした。
この事が今回この石碑が発見され、好古が哀悼の意を篭めて建立した思いが116年経過したいま実ったのである。・・「高が石碑、然れど石碑」である。今回の取材で特に痛感した。


秋山好古が添田賢次郎騎兵隊員に対し漢詩で義烈を揮毫された。
これを賢次郎騎兵隊員の実父添田保吉さんは石碑を建立し残した。その石碑の拓本である。


添田保吉さんからの添田家第4代目、添田吉則さんの奥さん敬子さんが石碑を拓本に取り、平成24年4月18日、秋山兄弟生誕地にお越しになり好古揮毫の石碑の存在が判明した。
東京都世田谷区池尻に好古が哀悼の石碑を建立してから実に116後の事であった。画像は、神奈川県平塚市の添田敬子さん。右は、秋山兄弟生誕地、宇都宮良治運営委員長。


神奈川県平塚市の添田敬子さんを囲んで秋山好古騎馬像の前で秋山兄弟生誕地の関係者と記念写真。


平成24年5月23日、現地神奈川県平塚市の添田家の直ぐ近くにある神社境内に建立されている騎兵一等卒添田賢次郎氏の「義烈」の石碑。
建立は、明治31年10月吉日、添田賢次郎氏の実父添田保吉さんが建立された。


騎兵一等卒添田賢次郎氏の篆額「義烈」。
義烈とは、義を護る心の堅い事。
篆額(てんがく)とは、石碑などの上部に篆書体で書かれた題字の事。


石碑左に揮毫した秋山好古の氏名が当時の肩書と共に刻まれている。
好古は、この時陸軍騎兵大佐で43歳の時であった。


現地神奈川県平塚市の広川神社境内にある石碑の前で宗家、添田家の吉則さんと奥さん敬子さん。


石碑裏面で、騎兵一等卒添田賢次郎氏の実父「添田保吉建立」と刻印されている。


秋山好古が騎兵一等卒添田賢次郎隊員に対し漢詩で書き上げた「義烈」の書。
秋山好古は、伊予松山藩校で漢詩を学び卒業前年には教師の代理が出来た優秀な藩校生であり、父久敬も漢詩に長け父親からも漢詩の教えがあり、大坂師範学校でも勉強し漢詩はお手の物であった。


「義烈」書の読み下し。


神奈川県平塚市の広川神社。


神奈川県平塚市の広川神社の境内。


神奈川県平塚市の広川神社境内の一角に建立されている石碑。


神奈川県平塚市の石碑取材に行った前日が、東京スカイツリーが完成し一般公開した日であった。この日は雨天で撮影を諦め、開業二日目の画像であります。


開業二日目の東京スカイツリーで、開業日は記念として二色のライトアップを披露した。心意気の「粋」と美意識の「雅」である。
二日目は、心意気の「粋」がライトアップアされたその画像です。


コメント
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