1、揮毫碑文 :表彰碑
2.所 在 地:西条市三芳町 「日切山・弘福寺」
3.建立年月日:昭和3年10月
4.揮 毫 者:陸軍大将 秋山好古
5.建 立 者:三芳村(現、西条市三芳)
6.碑石大きさ:高さ・1m74㎝ 横幅・1m22㎝ 厚み・16cm
表彰碑建立の由緒
旧愛媛県周桑郡三芳村は、下記の如く、渡邉スエ女の功徳を称えその事を後世に残す為昭和3年10月、表彰碑を建立した。
「スエ女は渡邉小市の妻として農業の手助けをしていたが、夫がリューマチに罹り病床で呻吟る身となった。
スエ女は病夫の枕辺に付き添い看病に勤しむ傍ら、三児の養育を一身に引き受け、14年の長い年月を働き続けた。
しかし、その甲斐もなく夫は明治21年他界した。
官府及び各種団体はスエ女の貞操を表彰し、賞状及び金品を十数度にわたり贈っている。
スエ女はあとに残された子女の成長に望みをかけ働いたが、今までの疲労が重なり病気となり36年に亡くなった。」
スエ女の貞操は「人の鏡」と題して、小学校修身書に載せられた。
参考事項1:渡邉スエ女の表彰碑の裏面に文部大臣 勝田主計の献上文書が埋め込まれている。
参考事項2:勝田主計(しょうだかずえ)は明治2年9月15日、伊予松山御宝町に松山藩主勝田久兼の5男として生まれ、大正5年12月、寺内正毅内閣において愛媛県人初の大蔵大臣となる。大正13年1月、清浦圭吾内閣において再度大蔵大臣となり、前年発生した関東大震災からの復興にあたった。昭和3年5月、田中義一内閣において文部大臣となりこの時「渡辺スエ女の碑・表彰碑の裏面に文部大臣 勝田主計が献上文を書き上げた」
参考事項3:勝田家と秋山好古、秋山眞之の生家とは近く、特に秋山眞之、とは幼少時代竹馬の友であった。
参考事項4:渡邉スエ女の表彰碑文の揮毫依頼は、村長が秋山好古に依頼、この時好古は北豫中学校長で、また御大典記念の年である。
昭和3年御大典記念の年にこの表彰碑が建立された。
石碑の所在は分かりにくい所に建立されている。
文部大臣 勝田主計が献上文を書き上げた銅版が石碑裏面に設置されている。
渡邉スエ女の表彰碑建立に付いての説明板、三芳公民館・社会福祉協議会三芳支部が設置してい
る。
石碑の所在地、西条市三芳町にある「日切山・弘福寺」入口参道。
西条市三芳町にある「日切山・弘福寺」で、地元では「ひぎり大師」として親しまれている。
石碑は山門手前の左に位置する。
2.所 在 地:西条市三芳町 「日切山・弘福寺」
3.建立年月日:昭和3年10月
4.揮 毫 者:陸軍大将 秋山好古
5.建 立 者:三芳村(現、西条市三芳)
6.碑石大きさ:高さ・1m74㎝ 横幅・1m22㎝ 厚み・16cm
表彰碑建立の由緒
旧愛媛県周桑郡三芳村は、下記の如く、渡邉スエ女の功徳を称えその事を後世に残す為昭和3年10月、表彰碑を建立した。
「スエ女は渡邉小市の妻として農業の手助けをしていたが、夫がリューマチに罹り病床で呻吟る身となった。
スエ女は病夫の枕辺に付き添い看病に勤しむ傍ら、三児の養育を一身に引き受け、14年の長い年月を働き続けた。
しかし、その甲斐もなく夫は明治21年他界した。
官府及び各種団体はスエ女の貞操を表彰し、賞状及び金品を十数度にわたり贈っている。
スエ女はあとに残された子女の成長に望みをかけ働いたが、今までの疲労が重なり病気となり36年に亡くなった。」
スエ女の貞操は「人の鏡」と題して、小学校修身書に載せられた。
参考事項1:渡邉スエ女の表彰碑の裏面に文部大臣 勝田主計の献上文書が埋め込まれている。
参考事項2:勝田主計(しょうだかずえ)は明治2年9月15日、伊予松山御宝町に松山藩主勝田久兼の5男として生まれ、大正5年12月、寺内正毅内閣において愛媛県人初の大蔵大臣となる。大正13年1月、清浦圭吾内閣において再度大蔵大臣となり、前年発生した関東大震災からの復興にあたった。昭和3年5月、田中義一内閣において文部大臣となりこの時「渡辺スエ女の碑・表彰碑の裏面に文部大臣 勝田主計が献上文を書き上げた」
参考事項3:勝田家と秋山好古、秋山眞之の生家とは近く、特に秋山眞之、とは幼少時代竹馬の友であった。
参考事項4:渡邉スエ女の表彰碑文の揮毫依頼は、村長が秋山好古に依頼、この時好古は北豫中学校長で、また御大典記念の年である。
昭和3年御大典記念の年にこの表彰碑が建立された。
石碑の所在は分かりにくい所に建立されている。
文部大臣 勝田主計が献上文を書き上げた銅版が石碑裏面に設置されている。
渡邉スエ女の表彰碑建立に付いての説明板、三芳公民館・社会福祉協議会三芳支部が設置してい
る。
石碑の所在地、西条市三芳町にある「日切山・弘福寺」入口参道。
西条市三芳町にある「日切山・弘福寺」で、地元では「ひぎり大師」として親しまれている。
石碑は山門手前の左に位置する。