EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市の路地 その1持田町

2012年07月04日 | 伊予松山歴史散策
松山市大空襲

松山の爆撃は、昭和20年7月26日23時08分より翌27日1時30分頃の間、空飛ぶ要塞B29大型戦略爆撃機128機が、サイパン島・イスレイ飛行場から飛来した米陸軍第73爆撃団の所属で四つの編隊に区分されていた。投下高度は、1万1千フィート。先頭部隊が無数の小型焼夷弾を投下、途中更に小型に分かれ広い範囲にバラバラと落下、最後尾部隊が250キロ大型焼夷弾を投下、計896トンの焼夷弾を投下し松山上空を離脱した。・・と米側資料にある。・・なおこの日は、大牟田、徳山、松山の三都市を爆撃のため350機がサイパン・マリアナ・グアムから飛び立った・・とある。

編隊機は豊後水道を経て北東に進み、佐田岬を通って松山市の西方上空に達し、午後11時30分ごろに第1弾を新町(清水町1丁目付近)に投下した。
編隊は右旋回して松山城を中心に、その周辺から市の中心部に焼夷弾896トンを投下、このため市街地の周辺部から火の手が上がり、市民の必死の消火活動もそのかいなく、わずかに3~4時間で市街地は文字どおりの火の海となり、B29は西南方の海上に飛び去った。

この空襲によって市の中心部は、全くの灰燼に帰し、旧市街の城北、通町(平和通2丁目付近)の一部を残すのみで、罹災戸数1万4,300戸、死者251人(男117人、女134人)、行方不明8人、負傷者は数えきれないほどの被害であった。
(『松山市誌』より)・・註:米側資料と松山市誌の記録と若干攻撃開始時間が異なる。

主な公共建築物はほとんど罹災したが、県庁、市庁、裁判所、図書館、日本銀行、四国銀行などが幸いに焼け残った。県庁、市庁が罹災しなかったことは、その後松山市の戦災復興事業の進捗に大変役立つことになった。

最近TVで散歩企画番組がよく放映されこれに感化され特に戦災を免れた町をカメラ片手に散歩する事とした。
初めは松山市の高級住宅地と言われた持田町を散歩した。高級住宅街も今や生活しにくい町となっている。殆ど高層ビルがない、・・道路事情が悪い為。

持田町の沿革を見てみると、温泉郡持田村⇒明治22年12月15日に温泉郡道後村大字持田⇒大正12年4月1日に松山市に編入し松山市大字持田となり⇒昭和5年10月2日大字廃し持田町に⇒昭和39年7月1日住居表示され持田町一丁目~四丁目に町名区割りされ現在に至っている。

註:日本の住居表示は昭和37年5月10日に施行された住居表示に関する法律に基づいて、町を分かりやすくしたり、郵便物を配達しやすくすることを目的にした制度である。地番は土地の場所、住居表示は建物の場所を表す番号。


画像は明治40年頃で、撮影は湯築城(現、道後公園山頂から見た道後町二丁目、南町一丁目・二丁目、持田町一丁目~四丁目)奥に伊豫松山城を望む・・農村地区であった


昭和37年の道後町二丁目、南町一丁目・二丁目、持田町一丁目~四丁目でこの地区は戦災に遭わなかった町・・すっかり住宅地区に変貌


現在の道後町二丁目、南町一丁目・二丁目、持田町一丁目~四丁目)奥に伊豫松山城を望む・・撮影場所は同じ・・道路事情が悪い


松山の高級住宅がであった町も戦後車世界と急変、市道整備が出来ず車の使用が出来ない


画像1の通り元は農村地帯であったのが宅地化された・・当時は車社会の事を予測できず4m道路の都市計画を考えなかったのだろう


現在の農家は機械化され農業用道路も広くなったが、戦前は農作業用の車は一輪車で、リヤカーと発展農家の皆さんは各自の農地を提供して農道を拡張した


昔の農道そのままで宅地化したため、このような細い道が残った・・


左の住宅は戦前に建築した家屋、右は新しく立て直した家屋、4m未満の道路は新たに建築する際には道の中心から2m控えて構造物を構築しないと建築許可が下りない。画像の様に左の建物を新築する時は2m控えるので4m道路の確保が出来、救急車、消防車の通行が可能となる


両サイドの2m控えての新築をしたので4mの市道が確保できた


この道はまだいい方だ・・左の塀を建築した頃は2m控えての規制が無かった時代か??


この地区の皆さんは乗車を持ちたくとも道路事情が悪く大変


4mになった所と昔のままの道とが入り混じっている


この市道は持田町で一番広い市道

コメント (1)
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