EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市の路地 その3立花町

2012年07月10日 | 伊予松山歴史散策
今回の路地散策立花町も松山市大空襲の戦災に遭ってない。
松山市の商店街の中心地であった湊町や大街道は、空襲によって焼き尽くされた。そのため湊町、大街道の商店主は、戦火を免れた立花町に間口を借りて商売をはじめたので、戦後直後の一時期松山市の中核商店街が、立花に移るという現象が見られた。・・立花橋~伊予鉄道立花駅の間(590m)の、旧国道33号線両側に商店が集中していた。

昭和20年12月26日には、市駅前に伊予鉄マーケットが、また翌昭和21年いよや百貨店が湊町3丁目に開店するとともに、同年10月6日には、三越百貨店松山支店が一番町に出店した。
このようないわゆる老舗の百貨店やスーパーの開店に刺激されて、湊町・大街道にあった各商店が、それ以後徐々に営業を再開し、再び松山市の商店街の中心地は、湊町・大街道に移動し、松山市の中核商店街の復興がみられるようになった。

そのため立花商店が衰退していき現在は繁栄当時の面影がなくなった。

今回はこんな商店の遍歴のあった立花町の路地を散策した。現在、立花町は住居表示が施行され立花一丁目~立花六丁目に区割りされている。

立花町の沿革を見てみると、立花は温泉郡立花村⇒明治22年12月15日に温泉郡素鵞村大字立花⇒大正15年2月11日松山市に編入、松山市大字立花⇒昭和5年10月2日に南立花町・西立花町に区割り⇒昭和40年10月1日町名変更により立花町一丁目~立花町六丁目となり⇒昭和51年7月1日第12次住居表示実施により⇒立花一丁目~立花六丁目となる。なお立花六丁目には旧温泉郡朝生田の一部が編入している。

註:国道33号線⇒起点高知市・県庁前~終点松山市・市役所前=距離122,9km、現在はバイパスが出来て松山市内の路線が変更されている。


戦後松山市民の需要路線(国道33号線)として復興に一番寄与した立花橋建設、画像は、昭和29年撮影、四国88ヶ所第46番札所「浄瑠璃寺」の住職「尭音」は、社会事業家としても知られ、寺の復興後は托鉢の日々をすごしその浄財で岩屋寺から松山へいたる土佐街道の八力所に橋をかけ、松山寄りの立花橋は大水のたびに流出していたのを、岩国の錦帯橋の構造を研究し、架橋に成功している。いまも立花橋の近くに尭音の供養塔が立っている由緒ある橋である


現在の立花橋で道路は国道33号線バイパスが完成した為県道に指定変更


立花橋北側堤防に、明治22年4月建設時の立花橋の橋名板が保存されていて真ん中に住職「尭音」の供養塔が建立されている・・画像真ん中に見えるのが供養塔で橋名板4個が四角形で保存されている・・橋名板は四個あり、1、橋名(漢字・楷書)2、完成年月3、路線名4、橋名(ひらがな)となっている


昭和32年当時の立花商店街で旧国道33号線(別名土佐街道)


現在の旧国道33号線立花商店街、更地となっている所もあるし、駐車場にもなっている


旧国道33号線、左の細い道は旧土佐街道で現在は市道となり市が管理維持している


さて立花町の中に入ってみよう・・トンネルの路地がある、これは伊豫鉄道横河原線が石手川に掛かる橋梁を渡る為土塁で線路を建設しトンネルで道路として利便性を図った施設


道後、持田と路地散策をしたが、画像のような三叉路はなかったが、立花には三叉路の路地が沢山ある


このような狭い路地が幾つもあった、右側は慶長7年(1602)加藤嘉明が伊豫松山城築城時に、普請奉行「足立重信」に命じて河川の付け替え工事をした石手川(旧湯山川)の南岸堤防下の路地


立花五丁目の路地で,両サイドの地主が新たに家屋建築時に中心から2m控えて建設し4m道路が確保


立花町には戦前建築された建物が残っているその一つで、そして立花町には高層ビルはない


松山市役所前の交差点が国道33号線の終点で建設省が建立した石碑がある
この石碑には、3面に国道11号線終点、国道56号線終点と揮毫してある・松山市役所前交差点は三国道の終点地点である
国道11号線は:起点が徳島市で高松市を経由、国道33号線は:起点が高知市、国道56号線も:起点は高知市で宇和島市を経由して松山に入る

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