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兵法経営塾第9回

2012年12月25日 | Weblog
参謀の条件

 『トップもその参謀も、その他の兵または従業員に比べて、格段に優秀でなければならないことは共通しているけれど、具体的な要件は全く逆である』と、兵法経営塾の著者大橋氏は述べている。例えば、『トップは細部にこだわらず、部下を委縮させない寛容さが必要であるが、参謀は細事もゆるやかにせず、いささかの隙もあってはならない』とある。トップは部下の感情を支配し、参謀は理性をコントロールするとも読める。

 具体的な要件が全く逆であるということは、『換言すれば、スタッフとして優秀であればあるほど、トップとしては不適格者ということになる。ところがスタッフとして優秀な実績をあげた者でなくては、トップの座につけないのが現実で、ここに現代の悲劇がある』

 この兵法経営塾には、参謀のための十ヶ条が記されている。このうち特に大切と思う5ヶ条をあげる。

1.参謀は考案者であり、演出家である。
2.参謀に命令権なし。
3.参謀は冷厳非情に計算せよ。
4.参謀はいつも将師の考えを念頭において判断しなくてはならない。
5.参謀は減磨オイルであれ。(あるときは悪役となって、部下の憤懣の受け手となる)

 本書では、名参謀の事例として豊臣秀吉に仕えた黒田官兵衛をあげ、官兵衛の本能寺の変を受けた対応を記している。本能寺の変(天正10年(1582年)6月2日未明)は最もよく知られた史実のひとつであるけれど、明智光秀勢の必死の探索にも関わらず、信長の遺体が見つからなかったということは歴史ミステリーの一つともされている。

 加藤廣氏の「信長の棺」*21)によれば、本能寺からの地下の抜け道を事前に秀吉が塞いだことになっており、岡山からの秀吉の大返し(中国の大返し)の謎と関連付けているけれど、本書は以下通常の史観によるものである。

 『「信長死す」の報を秀吉は、翌6月3日の夜に受けた。彼は茫然とした。目の前に毛利軍と対峙しており、しかも戦地は京都から遠い。それまでの秀吉は、信長あっての秀吉である。・・・言わば信長の操り人形のようなものである。その信長がいなくなれば、秀吉はただの人形になりかねない。・・・しかも現在秀吉の配下の大名も信長の死によって毛利方に寝返る不安もある。そうなれば秀吉は全軍に対する統率力を失い、彼の軍は一気に崩壊するおそれがある。

 この危機を乗り切るために、官兵衛は、まず気が動顚し木偶の坊になった秀吉に活を入れる必要を感じた。秀吉を奮起させ、それを見た諸将が秀吉に付く利を感じさせることである。意を決した参謀官兵衛は、秀吉の耳元でささやく。「よくさせ給え、君の御運の開かせ給う時ぞ」という有名な台詞である。官兵衛は、「これはピンチではなく、天下取りのチャンスですよ!」と励ましたのである。・・・

 参謀の第一の任務は「トップの決心の資料を呈供すること」すなわち「トップは今どうすればよいか」を考えることである。・・・』。

 官兵衛は、勿論それだけではなく、抜かりない状況判断を行い、秀吉を返した後に毛利方との和平を進めた。自分達が退く際には、近くの河の堤防を決壊させて毛利軍の全面一帯を泥海化させ、追撃にも備えて秀吉の後を追ったという。
 





*21) 2005年5月日本新聞社刊

本稿は、大橋武夫著「兵法経営塾」マネジメント社、昭和59年刊に基づき構成し、『 』内は直接の引用ですが、随筆の構成上編集しています。

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