オタバリの少年探偵たち

「オタバリの少年探偵たち」(セシル・デイ・ルイス/作 瀬田貞二/訳 岩波書店 1957)

訳は、瀬田貞二。
岩波少年文庫の一冊。
いま調べてみたら、2008年に脇明子さんによる新訳が刊行されていた。

これは英国の児童文学。
原書の刊行は1948年。
作者は、名高い詩人。
ニコラス・ブレイクの筆名で書いた、「野獣死すべし」(早川書店)などのミステリの作者としても、また名高い。
さし絵は、「チムとゆうかんな船長」などを書いた、これもまた名高いエドワード・アーディゾーニ。

本書は冒頭に、こんな文章が記されている。

《この「オタバリの探偵たち」は、フランス映画 Nous les Gosses の作りかえです。》

この映画はイギリスで、「ぼくたちチンピラ」というタイトルで上映されたという。
でも、「作りかえ」とはどのていどのことなのか。
翻案なのか、ノベライズなのか、アイデアを得たというほどに留まるのか。
それがちょっとわからない。

まあ、それはともかく。
本書は、ジョージという男の子による、〈ぼく〉の1人称。
年のころは13、4歳くらいだろうか。
この歴史家を自認するジョージにより、ひとつの事件がえがかれる。

ストーリーは、どかん場で戦争ごっこをする場面から。
「どかん場」というのは、戦争のとき爆弾が落ちたためにできた広場のこと。
ジョージの仲間は、親分格のテッド。
それから、爆弾で両親を失い、いまは叔父叔母の世話になっているニック、などなど。

戦争ごっこは、わが軍の勝利。
トピーひきいる敵方のタンク――自転車を改造したもの――を強襲し、一同、奪ったタンクとともにはしゃぎながら学校に帰還。
ところが、誰かが蹴ったフットボールが校長室のとなりの教室の窓を割ってしまう。
フットボールを蹴ったのは、ニック。
皆は、校長にお目玉をくらい、ニックは一週間以内に弁償代を払うはめに。

ニックの叔父叔母は、ニックの話など聞きはしない。
そこで、みんなでニックを助けることに。
トピーたちが再戦を申しこんできても、それには応じない。
すると、事情を知ったトピーたちも、ニックの手助けをするといいだす。
ここに、テッド軍とトピー軍による、オタバリ平和条約が締結される。

さて、どうやって窓ガラスの弁償費用を調達するか。
みんなの寄付や、おもちゃの類を質屋に入れてお金をつくっても、目標額にはほど遠い。
そこで、この週末、みんなそれぞれ得意なことをして、お金を稼ぐことにする――。

この、ニックのためにお金を稼ぐ作戦は、「ガラス屋作戦」と名づけられる。
親たちに話すのは、全員一致で否決。
大人たちは、並のやりかたを外れると大騒ぎするし、知られていたのでは、町を驚かす戦術上の要素を失ってしまう。
なにより自分たちだけでやり遂げるほうがずっと面白い。
ただ、なにかがうまくいかなくなった場合は、委員会がリチャーズ先生を相談役に呼ぶ権限をもつ。

翌日、ガラス屋作戦が開始。
窓ふきをしたり、合唱を聞かせたり、似顔絵を描いたり、少々いんちきな靴磨きをしたり、新聞配達の手伝いをしたり――。
その日のうちに、目標額を上回る稼ぎを得ることができた。

ここまでが、全体の3分の1ほど。
ここから話は急展開。
お金は、箱に入れてテッドが保管していた。
ところが、翌日、お金をニックに渡そうとしたところ、お金がなくなっていたのだ。

お金はどこに消えたのか。
盗まれてしまったのか。
盗まれたとしたら、だれが、どうやって。

もちろん、疑いはお金を管理していたテッドにかけられる。
そこで、ジョージとニックはテッドを助けるために真犯人をさがしだすことに――。

先ほど書いたように、本書はジョージの1人称。
1957年に出版された本書の訳は、さすがに古い。
でも、語句やいいまわしは古びているものの、全体としては生きている。
例として、冒頭近く、ニックについての文章を引いておこう。

《ニックは爆弾が落ちてからめっきり明るくなくなった。爆弾がおとうさんとおかあさんを殺し、かれがひとりきり、めちゃめちゃになったなかから助けだされた。むりもないんだ。でもぼくたちは、やっぱりニックがすきだった。あんなことがあった場所へきて遊ぶなんて、土性っ骨のいることだもの》

また、本書は少年たちの群像劇としてえがかれている。
これは、歴史家としての任務をよくはたして、自身をあまり押しださないジョージのおかげだろう。

それから、これは英米の児童文学の特徴だと思うけれど、子どもたちがじつに組織だっている。
戦争ごっこのときは各班に分かれ、それぞれ隊長が各部下に指示をだす。
停戦のさいは平和条約が結ばれる。
ガラス屋作戦のときは、委員会が設置される。
そして、どうやって窓ガラスの代金を稼ぐかについては、合議によって決められる。

テッドが金を盗んだ容疑者とされたときは、裁判が開かれる。
トピーが判事で、その副官であるピーター・バッツが検事。
ジョージは懸命に陪審員に訴える。

「イギリスの法律では、じっさいに有罪とわかるまでは無罪のあつかいでおかるべきで、有罪証明の任は検察のがわにある――」

英米の子どもたちは、遊びのなかで委員会をつくったり、裁判をしたりするのだろうか。
大人の社会と子どもの社会のあいだに、日本ほどの断絶がないのだろうか。

さて。
その後のストーリーについて触れておきたい。
ジョージたちの推理により、怪しい2人組の大人が浮かび上がる。
ひとりは、ジョニー・シャープ。
もうひとりは、その子分で、〈いぼ〉というあだ名のジョセフ・シーズ。

そして、この2人と、お金の入った箱をつなぐのが、トピーの仲間の一員だった〈すもも〉。
なぜなら、お金を入れる箱をもってきたのは、すももだったからだ。

というわけで、少年探偵たちの捜査は続行。
最後にいたっては、思いがけない犯罪まで発見してしまう。
このあたり、読んでいて、ルパンを追っていてニセ金づくりに出くわした、映画「カリオストロの城」の銭形警部を思いだした。

後半は、推理、捜査、悪漢との駆け引き。
加えて潜入、乱闘、追跡劇。
少年活劇小説として、まったく申し分のない出来映えだ。

以下は、2014年12月の追記。
「オタバリの少年探偵たち」(脇明子訳 岩波書店 2008)をみてみた。

瀬田訳とちがうのは、まず冒頭に、「物語のまえに」という文章が置かれていること。
作品を楽しむにあたっての手引きが記されている。

また、作者による、映画会社への謝辞は次のように訳されていた。

《『オタバリの少年探偵たち』を書くにあたって、私はフランス映画“Nous les Gosses”(『ぼくら悪ガキ』)を下敷きにしました》

「作りかえ」ではなく、「下敷き」ということばをつかっている。
つまり、アイデアを得ただけではないけれど、ノベライズというほどでもない。
本書は、そのあいだにある作品であるらしい。
あとは実際、このフランス映画とくらべてみるしかないだろう。

さて、それではニックについての説明を脇明子訳でみてみよう。

《爆弾が落ちてからこっち、ニックは頭の回転がすばらしくいいとは言えなくなった。両親はそれで亡くなったし、ニック自身がガレキのなかから掘り出されたんだ。だから、そんな具合なのも当然だよね。とにかくぼくらは、以前とかわらずニックが好きだった。なんたって、そんなめにあった場所へ来て遊ぶなんてことは、よほど肝がすわってないとできやしない。》


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翻訳味くらべ「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(まとめ)に追加

古本屋にいったら、田中小実昌訳の「郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす」が100円で売られていたので買ってきた。
そこで、翻訳味くらべに追加。
また、「郵便配達は…」についての記事は、2つに分かれてしまっているから、訳文をくらべたところだけ、ここにまとめておきたい。
さて、ではまず冒頭を、田中小実昌訳から。

「郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす」(J・ケイン 田中小実昌訳 講談社文庫 1979) 

《正午(ひる)ごろ、おれは干草をつんだトラックからほうりだされた。前の夜、国境で、おれはトラックにとびのり、キャンバス地の幌のなかにもぐりこむと、すぐ眠った。メキシコのティファナに三週間いたあとで、たっぷり眠る必要があったのだ。エンジンを冷やすため、トラックが道の片側によせてとまったときも、まだ、おれは眠っていた。片足がつきでているのを、トラックのやつらは見つけて、おれをほうりだしたのだ。おれはやつらをわらわせて、もっと先までのっけてもらおうとしたが、やつらはしらん顔でとりあわず、せっかくのギャグもだめだった。それでも、やつらはタバコを一本くれた。おれは、なにか食べものにありつけないか、道をテクっていった。》

「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(ジェームズ・ケイン 中田耕治訳 集英社 1981)。

《正午(ひる)ごろ、おれは干草を積んだトラックから抛りだされた。前の晩、国境のところで飛び乗って、ズック・カヴァーの下にもぐりこんだとたんに眠ってしまったのだ。ティファナで三週間すごしたあとで、ひどい寝不足だったから、エンジンの熱をさますために車が一方へ寄ったときにも、まだ眠りこんでいる始末だった。たまたま、かたっぽの足がつきだしているのを見つけられて、つまみだされてしまった。おれとしてはせいぜいご機嫌をとりむすぼうとしたわけだが、相手はまるで表情を変えない。そこでギャグはやめることにした。それでも、たばこを一本めぐんでもらって、何か食いものをさがそうと道路を歩きだした。》

「郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす」(ジェイムズ・M・ケイン 小鷹信光訳 早川書房 1981)。

《ちょうど昼頃、乾草を運ぶトラックから放りだされた。前の晩、南の国境近くで飛び乗り、覆いの下にもぐりこむと同時に眠ってしまった。ティワーナの町での三週間のあとだったからあたりまえだ。エンジンを冷やそうと連中が車を寄せたときも、ぐっすり眠っていた。それで、突きでていた片足を見つけられ、放りだされたのだ。道化てみせたが、相手はむつつりしていたので、おふざけは幕にした。煙草を一本恵んでもらい、食いものを探しに歩きはじめた。》

「翻訳入門」(松本安弘・松本アイリン 大修館書店 1986)

《昼ごろ、おれは干草を積んだトラックから追っ払われた。前の晩、南のメキシコ国境でこのトラックの荷台に飛び乗り、キャンバス覆いの下にもぐり込むとすぐ眠りこけてしまった。酒と女とバクチの国境町ティーアワーナに3週間も居続けたあとだったので、おれは睡眠が必要だった。エンジンを冷やすためトラックが道路脇に寄ったとき、まだむさぼるように眠っていた。そのときトラックの連中はおれの片足が外につき出しているのに目をとめて、おれをトラックから追い出した。おれは少々おどけてみせたが、相手からは無表情な顔しか返ってこなかったので、ギャグはやめにした。それでも連中はタバコを一本くれ、おれは何か食うものを探さねばと、ハイウェーをてくてく歩いた》

「翻訳入門」の著者による、小鷹信光訳についての指摘は、こちらの記事を参照のこと。

つぎは会話(「翻訳入門」は会話の訳がないのでなし)。

田中小実昌訳
《「なにをやってる? どんな仕事をしている、え?」
「ああ、あれをやったり、これをやったり、あれをやったり、これをやったり」
「いくつ?」
「二十四」
「若いんだなあ。若い者なら、今すぐほしい。ここの仕事にね」
「いいところじゃないか」
「空気、いい。ロサンゼルスみたいな霧、ない。ぜんぜん、ない。空気、いい。きれいだ。いつも、空気、きれいでいい」
「夜なんかすてきだろうな。今からでも、夜のすてきな空気がにおうようだぜ」
「よく眠れる。あんた、車のことわかる? 故障をなおすとか」
「ああ、おれは自動車修理工に生まれついたようなもんだ」》

中田耕治訳
《「あんた、何をやってるんだ、仕事のほうは、え?」
「うん、一つやったら、また一つ、あれこれやってきたんだ。なぜだい?」
「としは?」
「二十四」
「若いなあ、あんた。このところ、うちでも若い者を使ってもいいんだが。店のほうだが」
「いい場所に店をだしたね」
「空気さ。空気がいい。霧が出ないんだ。ロサンジェルスみたいに。霧なんか見たこともない。いつだって気分がいい場所で、すごく晴れているんだ」
「夜はすてきだろうな。昼間でもそんな匂いがするよ」
「よく眠れるさ。あんた、車のほうはわかるかい? 修理はできるか?」
「あたりまえだよ。生まれつき修理ときたらお手のものだ」》

小鷹信光訳
《「なにをやってる? 仕事は?」
「あれやこれやさ。べつにきまっちゃいない。どうして?」
「年齢(とし)は?」
「二十四」
「ほう、若いんだな。わしの商売に、若い者をすぐにでも使いたいんだがね」
「なかなかいいところだ、ここは」
「空気がいい。ここらはロサンジェルスとちがって、霧などかからない。全然だ。気持ちがよくて、きれいだ。いつもきれいで、いい気分だ」
「夜はもっといいだろうな。もう、匂ってくるようだ」
「よく眠れる。車のことはわかるか? 修理は?」
「お手のもんさ。生まれついての機械工だ」》

田中小実昌訳を読んで、はじめて、かわいそうなギリシア人ニック・パパダキスが、英語がそんなにうまくないのではないかと気づいた。
やっとこんなことに気づくなんて、なんともうかつな読者だ。

以下は2014年9月の追記。
ことし、立て続けに2つの新訳がでた。
ひとつは、光文社古典新訳文庫で、訳は池田真紀子。
もうひとつは、新潮社文庫で、訳は田口俊樹。
とりあえず、光文社の池田訳だけ訳文を確認。
ここに引用しておく。

池田真紀子訳
《正午ごろ、俺は干し草を積んだトラックから放り出された。前の晩に国境で幌の下にもぐりこむなり、寝入ってしまったんだ。歓楽の街ティファナで三週間も過ごすと寝不足になる。トラックがエンジンを冷やすのに道端で停車したときも、俺はまだ熟睡していた。荷台から足を突き出していたのを気づかれ、放り出された。冗談でごまかそうとしたが、相手はにこりともしない。ここまでだ。煙草を一本もらって、どこかで何か食おうと道を歩きだした。》

次は会話。

《「あんた、仕事なに? どんな仕事してる?」
「いろいろだな。あれをやったり、これをやったり。どうして?」
「年齢(とし)は?」
「二四」
「若いね。ちょうどいま、若いのを雇いたかった。ここの店で」
「いい店だな」
「空気、きれい。霧は出ない。ロサンゼルスと違うよ。霧、全然ないんだ。空気、きれいだよ。一年中きれいでいい空気」
「夜なんか気持ちいいだろうな。夜のいい匂いがもうしてるみたいな気がする」
「よく寝られるよ。あんた、車のことわかる? 修理できる?」
「わかる。天性の修理工だぜ」》

池田訳は、主人公のフランクが物語の進行と同時に語っているのではなく、物語が終わったところから回想形式で語っているという感じが強い。
もしこれが映画だったら、まずラストシーンがあり、それからフラッシュバックでファーストシーンが語られる――などと思わせる。

それから。
これは解説にあったのだけれど、「郵便配達」は6回も翻訳されたものの、現在はすべて絶版だとのこと。
これには驚いた。
「郵便配達」は、人気があるのやらないのやら。
ことし出版された2つの翻訳も、またすぐみられなくなるかもしれない。

さらに、以下は2014年12月の追記。
田口俊樹訳を追加。

田口俊樹訳
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」田口俊樹訳

《午(ひる)頃、干し草を積んだトラックから放り出された。そのトラックはまえの晩、国境の近くで飛び乗ったんだけれど、幌の下にもぐり込むなり、眠り込んでしまった。ティファナで三週間過ごしたあとだったもんで、すごく眠たかったんだ。だから、エンジンを冷ますのにトラックが路肩に寄ったときもまだいぎたなく寝てて、片足が突き出てるのを見つけられて引きずり出されたというわけだ。おどけてご機嫌を取ってみたりもしたんだが、仏頂づらが返ってきただけだった。おふざけはまるで効かなかった。煙草を一本恵んではもらえたけど。何か食いものにありつけないかと、おれは道路を歩きはじめた。》

次に会話。

《「なあ、あんた、何してる? どんなことしてる?」とギリシア人は訊いてきた。
「まあ、あれやこれや、あれやこれや、だな。どうして?」
「歳は?」
「二十四」
「若いんだな、ええ? 若い男の手は今すぐにでも借りたくてな。この店の手伝いに」
「あんた、いい店もってるよ」
「空気がいい。霧がない。ロスアンジェルスみたくな。霧、全然ない。空気がきれいでいい。ずっといい。ずっときれいだ」
「夜なんかもいいんだろうな。今ここにいても夜のにおいが嗅げそうだ」
「よく寝れる。自動車のこと、わかるか? 修理したりとか?」
「もちろん。おれは生まれながらの修理工だ」》

地の文が口語っぽい訳文になっている。
「郵便配達」は、フランクの1人称なのだから、この訳文もありだろう。

訳者あとがきで、田口さんは、「フランクはそもそもまっとうな男ではないし、コーラと出会おうと出会うまいと、きっとどこかで破滅していただろう」と書いている。
これは面白い指摘だ。
思えば、光文社古典新訳文庫の解説者も似たようなことを書いていた。
また、田口さんは、コーラについてこうも書いている。

《コーラは都会に出てきた田舎娘で、こつこつと真面目に働くことだけを考えている。それもこれもひとりの男を愛し、まともな暮らしをしたいがためで、その姿はむしろひたむきで健気だ。本書はいわゆる悪女(ファム・ファタール)ものとして取り上げられることが多いが、コーラのどこが悪女なのだろう?》

コーラがファム・ファタール扱いされるのは、この小説がフランクの1人称で書かれているためだろう。
もし、コーラの1人称で書かれていたら、コーラにはコーラの、別の言い分があったにちがいない。

コーラから、フランクはどうみえただろう?
フランクは出会った女性をファム・ファタール化する男だったと、コーラはいうかもしれない。



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