木曜日はあそびの日

「木曜日はあそびの日」(ピエール・グリパリ/作 金川光夫/訳 岩波書店 1980)

岩波少年文庫の一冊。
さし絵は、飯野和好。
筆でえがいたような、黒ぐろとした太い描線が特徴的。

本書はフランスの児童文学。
手元にあったのは、岩波少年文庫創刊40年記念の特装版。
ウィリアム・モリスのデザインをあしらったもの。
古本屋で買ったのだけれど、どこかの学校のハンコが押してある。
学校図書館に所蔵されたものの、除籍され、流れ流れてここにたどり着いたものだろうか。

作者、ピエール・グリバリについてはよく知らない。
内容は、都会風の洒落たおとぎ話集といった風。
収録作は以下。

まえがき
「ムフタール通りの魔女」
「赤靴下をはいた巨人」
「一足の靴」
「万能人形スクービドゥー」
「じゃがいもの恋の物語」
「蛇口の妖精」
「やさしい、子どもの悪魔」
「ほうき置場の魔女」
「ピエール伯父さんの家」
「ブリュブ王子と人魚」
「ずるがしこい子豚」
「誰やら、何やら、もしくは賢い妻」

「まえがき」に、本書の成り立ちが語られている。
パリに、ブロカ通りという架空の通りがある。
そこに、サイド小父さんが経営する、食料品店居酒屋がある。
そのとなりにはホテルがある。

居酒屋には、ナディア、マリカ、ラシダ、バシールといった、サイド小父さんの子どもたちがいて、ホテルの泊り客にも、二コラやティナといった子どもたちがいる。
作者のピエールさんは、居酒屋にちょくちょく立ち寄り、子どもたちに物語を語って聞かせていた。
ところが、ある日、ピエールさんの物語の種はつきてしまった。
そこで、子どもたちにこう提案。
毎週木曜日の午後にあつまって、みんなで一緒に新しい物語をつくろう。
もしそれがたくさんになったら、一冊の本にしよう。
――そうして成ったのがこの本。

だから、物語にはナディアやバシールといった子どもたちが何度も登場する。
万能人形スクービドゥーも、悪賢い子豚の貯金箱も、2匹の金魚が入った金魚鉢も、みんな実際にあったものだそう。
つまり、実際にあった身のまわりのものに、子どもたちは次つぎと物語をあたえていったということだろう。
では、物語をみていこう。

「ムフタール通りの魔女」
昔、パリのゴブラン地区に、魔法使いのおばあさんが住んでいた。
老いぼれて醜いくせに、世界一の美女だという評判を得たいと願っていた。
ある日、魔女は「魔女新聞」にこんな広告が載っているのをみつけた。
――若く美しくなるためには、トマトソースをつけて、少女をまるごと食べましょう。

さて、この地区には、ナディア――お話づくりにきていた女の子――という名前の女の子がいた。
魔女は、ナディアを食べなくてはいけないと思い決める。

その後、魔女はいろいろと苦労をして、ついにナディアを捕まえる。
ところで、ナディアにはバシールという弟がいた。
後半は、バシールによるナディアの救出が語られる。

魔女が、新聞広告をみてナディアを食べようとするのが現代風。
また、物語づくりにナディアも参加していたのなら、魔女とのやりとりなど大いに盛り上がったことだろう。
これは本書全体にいえることだけれど、読んでいて、物語に合いの手を入れる聴き手の顔がみえるようだ。

「赤靴下をはいた巨人」
身の丈が4階建てのビルほどもある大男が、住んでいた地下から地上にでて、お嫁さんをさがすというお話。
大男は、地上にでたとき、最初に出会った女の子に恋をする。
が、いまの大きさでそれは無理。
そこで、人間サイズになるために、中国の魔法使いを訪ね、ブルターニュの大魔法使いを訪ね、ローマ法王を訪ねる。

願いがかなって、巨人は人間並みの大きさになる。
ところが、そうなるといままではいていた赤靴下が、寝袋のようになってしまう。
おかげで、それまでつかえていた魔法がつかえない。
でも、最後はなにもかもうまくいく。

「一足の靴」
右足が夫の二コラ、左足が妻のティナという、一足の靴が主人公のお話。
この二コラとティナも、作者とお話をつくっていた兄妹。

二コラとティナは、靴屋の店先で幸せに暮らしていたが、ある婦人に買い上げられる。
ところが靴をはいた婦人は、何度も足をもつらせ転んでしまう。
というのも、二コラとティナがたがいに近づこうとして、婦人の足を引っかけてしまうから。

でも、靴が愛しあっていると知った婦人は、靴をいつもぴかぴかにしてしまっておくようにと家政婦に命じる。
家政婦は、奥さまがはかないのなら自分がと、靴を盗んではいてみる。
が、やはり足をもつらせ転んでしまう。
そこで、家政婦はこの靴を足の悪い姪にやってしまい――。

一足の靴が愛しあっているという設定が、なんともシュール。
短いけれど、しみじみとした風情のある一篇だ。

「万能人形スクービドゥー」
バシール少年がもつ魔法の人形スクービドゥーの、大冒険のお話。
スクービドゥーは人間同様、歩いたり話したりするだけでなく、魔法もつかえ、目隠しをされると過去や未来をいいあてる。

ある日、スクービドゥーは、バシール少年に、パパが自転車を買ってくれるように仕向けてほしいとお願いされる。
そこで、スクービドゥーは魔法をつかうのだが、それが裏目にでて、バシールのもとを去るはめに。
スクービドゥーは、旅を続けたあげく、港から船に乗り、未来の天気をぴたりと当てる気象予報士としてはたらくことに。
給料は、1日5フラン。
そのお金を貯めて、バシールに自転車を買ってやるつもり。
ところが、航海中に思わぬことが起こり、スクービドゥーは海に投げだされてしまう――。

もちろん最後、スクービドゥーはバシール少年のもとに戻り、バシール少年は自転車を手に入れる。
でも、それまでのいきさつは波乱万丈だ。

「じゃがいもの恋の物語」
ポム・フリット(油で揚げたじゃがいも)になることを夢みるジャガイモのお話。
ところが、運命はその夢をかなえることを許さない。

少年にナイフで目耳鼻を彫られたジャガイモは、口がきけるようになる。
が、ごみ捨て場に捨てられてしまい、そこで弦が2本しかないギターと出会う。
2人が身の上話を語りあっていると、それを聞きつけた浮浪者が2人をつかみ、サーカスに売りこみに――。

ジャガイモのていねいなことばづかいが面白い。
はじめてギターに会ったとき、ジャガイモはこう挨拶をする。

「お見受けしたところ、なみなみならぬご身分のおかたと存じますが。と申しますのは、フライパンにとても似ておいでですもの!」

ラストは、大変なナンセンスだ。

「蛇口の妖精」
この話もまた、魔法が裏目にでてしまうという話。

昔、ガリアの地のある泉に、ひとりの妖精が住んでいた。
当時は崇拝されていたが、ひとびとがキリストに教化されると、かえりみられなくなってしまった。
あるとき、技師たちがやってきて、泉から給水するために工事をした。
そのため、妖精はあるアパルトマンに住む労働者一家の姉娘、マルチーヌの前に姿をあらわす――。

マルチーヌは妖精に親切にする。
お礼に妖精は、マルチーヌの口から真珠がでるようにしてやる。
そのため、両親はマルチーヌを学校にいかせるのをやめさせ、サラダボウルの上でおしゃべりさせるようになる。
まもなく、下品なことばをいうと真珠が大粒になることがわかり、下品なことだけをいわせるように。
こんな生活に耐えられなくなったマルチーヌは家をでる――。

このあとも、マルチーヌの受難はまだ続く。
さらに、マルチーヌの妹のマリは、妖精のために口から蛇がでてくるように。

泉に妖精がいるのなら、蛇口にだって妖精がいるはずだ。
これは、いかにも子どもの発想のように思える。
妖精の魔法からはじまった騒動は、妖精の魔法によって幕を下ろす。
このとき、バシールのノートが活躍するのが、また楽しいところだ。

「やさしい、子どもの悪魔」
心優しいひとになりたいと願った、子どもの悪魔のお話。

子どもの悪魔は地獄に住んでいる。
地獄は、地上とはなにもかもあべこべ。
そのため、子どもの悪魔のすることは、両親を大変悲しませる。

「今日は何をしたんだい?」
「学校へ行きました」
「あきれたやつだ! 宿題はすんだかい?」
「ええ、パパ」
「ばかなやつだ! 勉強は分かったかい?」
「ええ、パパ」
「困ったやつだ!」
――という具合。

年季奉公にだされた子どもの悪魔は、中央大型炉で、大鍋の火を守る番人をすることに。
ところが、大鍋で煮られる罪人のために、火力を加減していたことが、悪魔鍋監督官の定期巡回視察により発覚。
次は、炭鉱ではたらくことになる――。

なにもかもあべこべな話というのは、それだけで面白い。
子どもの悪魔はその後、人間界にいき、法王の手助けを得て天国にいき、試験を経て、ついには天使の仲間入りをする。
こういう話があるのは、いかにもカトリック国らしいというべきだろうか。

「ほうき置場の魔女」
これはめずらしく〈ぼく〉の1人称のお話。
〈ぼく〉がピエールさんに、自分の身に起こったことを話す。
本書中、1人称はこの話だけだ。

さて、〈ぼく〉はポケットから5フランを発見。
さっそく公証人のところに駆けていき、1軒の家を購入。
それにしても、5フランとは安すぎる。

じつは、家のほうき置場の物入れには、魔女がいる。
ある歌をうたうと、魔女がでてくるという。
お気をつけなさいといいながら、公証人はその歌をうたいだす。
おかげで、〈ぼく〉は、その歌のことばかり考えるようになってしまい――。

2年後、ついに〈ぼく〉は歌をうたってしまう。
でてきた魔女は〈ぼく〉にこういう。
ありえないものを3つ、もとめなさい。
その3つをおまえにやれたら、わたしはおまえの命をもらおう。

困った〈ぼく〉はバジールに助けをもとめる。
バジールは、金魚鉢に2匹の魔法の魚を飼っている。
その魚たちと話ができるのは、ハツカネズミ。
ハツカネズミの通訳を介して、〈ぼく〉は2匹の魚から助言を得る。

オチは、「長くつをはいたネコ」のバリエーションといえるだろうか。
「赤靴下をはいた巨人」の、巨人の魔力の源は赤靴下だったけれど、この話では髪の毛だ。

「ピエール伯父さんの家」
これは、「クリスマスキャロル」風の一篇。

ある村に兄弟がいた。
兄はお金持ちで、けちんぼ。
弟は貧乏で親切だった。

あるとき、雇い主にひまをだされてしまった弟は、妻とともに兄の家に身を寄せた。
兄には、深夜に金貨を数えるという妙なくせがあった。
その兄は、冬のさなかに急死してしまった。

兄の財産を相続し、弟たちはお金持ちに。
ところが、家には深夜、兄の幽霊がでるようになった。
生きているとき同様、どこからか鉄の小箱をとりだし、そこにしまってある金貨を数えだす。

弟たちは司祭に相談。
すると、司祭はこたえる。
激しい感情というものは、それがよいものでも悪いものでも、魂に安らぎをあたえてくれないことがある。
あなたのお兄さんは、金貨にたいする執着が強すぎた。
お兄さんが自身が、自分のおこないのばかばかしさに気づくまで、このことは続くだろう。

弟と妻は、近所に土地を買い、なに不自由なく暮らすことに。
そのうち、男の子と女の子が誕生。
母は、ピエール伯父さんの家にはいってはいけないと2人にいいきかせる。
が、ある雨の日、2人は雨宿りをしに伯父さんの家に入りこむ――。

よく首尾のととのった一篇。
収録作中、どれかひとつを選べといわれたら、この作品を選ぼう。

「ブリュブ王子と人魚」
ある大海原の島に、ブリュブという名前の王子がいた。
王子には、幼いころからの遊び友だちである、1匹の人魚がいた。
2人は毎日、王子の専用海水浴場で会っては遊んでいた。

15歳になった王子は、人魚に結婚を申しこむ。
しかし、人魚と結婚するためには、王子は2本の足を魚の尻尾に変えなければならない。
そうして水の精になると、人間は不死身になる。
でも、そうなると、人間は大地や死すべき運命をなつかしく思うようになる。
あなたが20歳になったときにその話をしましょうと、人魚は王子の求婚をしりぞける。

が、王子は自分の希望を、父である王さまに述べる。
王さまは、宮廷付司祭に相談。
司祭は、人魚を悪魔だと断言。
人魚は死なないのだから、死んで天国にいき、神様に会うことはできない。

王さまは、王子と人魚を引きはなそうと画策。
人魚は捕まり、魚屋に売られ、寸切りにされる。
でも、不死身の人魚はすぐ元通りに。

いっぽう、王子は王さまのいとこの、ロシア皇帝のもとへ送られる。
しかし、水さえあれば、どんなところでも2人は出会うことができる。
浴槽で、洗面器で、コップで、王子は人魚と出会う。
王子と人魚を会わせないようにするためには、王子を渇き死にさせるよりほかない。
ロシア皇帝はさじを投げ、王子は国に送還される――。

「やさしい。子どもの悪魔」と同様の、あべこべ話。
これは、「人魚姫」をあべこべにした話だろう。
この話では、王子が試練の果てに人魚となる。
ひょっとすると、「人魚姫」に納得のいかなかった子どもたちが、アイデアをだしたのかも。

このあとも、王子と人魚の試練は続く。
王子は切手に変身させられてしまうし、国では戦争が起こる。
ラスト、王子を失った王さまが、再び子どもをさずかる場面は、なんとも美しいものだ。

「ずるがしこい子豚」
子どもの神さまがいた。
宿題を終えると、お母さん神さまの許可を得て、世界をひとつつくった。
最初に天と地をつくり、次に太陽と月をつくり、それから海をつくり、植物と動物をつくった。
でも、まだ空はからっぽ。
そこで、子どもの神さまは、空に住みたいものはいないかと叫んだ。
たくさんの動物たちが、それに応じて、夜空の星となった。

ところが、子どもの神さまの声を聞いていなかった動物がいた。
それが、子ブタ。
ドングリを食べるのに夢中で、気がつかなかったのだ。
なんとかしてくださいと、子ブタは子どもの神さまにお願いするが、もう空はいっぱいだと、子どもの神さまは聞き入れない。

そこで、子ブタは逆恨み。
毎早朝、星の片づけをするオーロラに、手伝いをすると申し出て、空にのぼり、北極星を盗んで逃走。
フランスはパリのブロカ通り69番地、サイド小父さんの食料品兼居酒屋に飛びこむ。

「まえがき」ある通り、このお話は実在する子ブタの貯金箱から想を得た作品。
「なぜ子ブタの貯金箱がそこにあるのか」を説明する、由来譚といえるだろう。
天地創造から、いきなりブロカ通りというローカルな場所に話が移るのがなかなかすごい。

さて、子ブタが飛びこんだとき、店には小父さんも小母さんも、ナディアもバシールも留守だった。
ちょうど、ナディアは1話目の、ムフタールの魔女に誘拐されていたところで、バシールは姉を救出に向かっていたところだった。
そこで、子ブタへの応対は、マリカとラシダがすることに。
2人は、オーロラに追われているという子ブタを穴蔵にかくまう。
こんな風に、別の話がかかわってくるところも、たいそう楽しい。
その後、この性悪な子ブタは相応の報いを受けるはめに。

「誰やら、何やら、もしくは賢い妻」
昔、3人の息子をもつ金持ちの商人がいた。
3人の息子のうち、最初の2人は利口者だったが、3人目はバカだった。
ある日、商人は息子たちを呼んでこういった。
おまえたちも大きくなったのだから、仕事をおぼえなくてはならん。
金貨を100枚やるから、それで商品を仕入れなさい。
また、船も一隻ずつやるから、外国にいって、商品を売ってきなさい。

そこで、長男は毛皮を仕入れ、次男はハチミツを仕入れ、それぞれ船に積みこんだ。
が、バカ息子は金貨100枚で子どもたちからいじめられていたネコをすくいだし、そのネコを連れてきた。

3人は、めいめいの船で出発。
3か月後、見知らぬ島にたどり着く。
この島にはネコがいなかった。
そのため、ネズミが大繁殖していた
長男の毛皮はかじられ、次男のハチミツは樽から流れだし、みんなダメになってしまった。

おかげで、バカ息子のネコはとても高く売れる。
その値は、金貨3樽。
そのうち、2樽は兄たちにあげてしまう。
そして、自分はこの島に残るという。
ここは、ぼくをまだバカ扱いしない唯一の国ですから――。

ここまでは、イギリスの昔話、「ディック・ウイッティントンとねこ」と同様。
ところが、このあといろいろあって、バカ息子は賢い妻を得る。
すると、島の王さまがバカ息子の妻に懸想し、無理難題を吹っかけてくる。
そこで、賢い妻は夫を助け、王さまの無理難題を解くことに。

と、後半は賢い妻のパターンに。
いろんな話をないまぜにしたような、不思議な一篇だった。

さて。
長ながと紹介してきたけれど、全体として。
時空間がはっきり定まっていないところや、ストーリーの飛躍が大きい点がなんともフランス風。
シュールでナンセンスで、ちょっと意地の悪いところは、シュペルヴィエルやエーメの作品を思い起こさせる。
そして、物語のむこうには、物語の進行に夢中になっている子どもたちの姿がみえる。
それが、本書の愉しいところだ。



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