象を洗う

「象を洗う」(佐藤正午 光文社 2008)

光文社文庫の一冊。
2001年に岩波書店から出版されたエッセー集を文庫化したもの。
エッセーのあいだに、「葉書」「ドラマチック」「そこの角で別れましょう」という掌編が3つ入っている。

以前、著者が岩波のPR誌「図書」に連載していた読書エッセーを毎月楽しみに読んでいたことがあった。
連載中のタイトルは「書く読書」だったと思う。
小説のひとことにこだわり、そこをいきつもどりつする筆致がすこぶる楽しい。
連載は、「小説の読み書き」(岩波新書 2006)として一冊にまとまり、これもまた楽しく読んだ。

そんな記憶があったので、最近文庫化されたこのエッセー集も手にとってみた。
これまた楽しい。
著者はさまざまな可能性を列挙することに長けている。
その例をあとがきからとろう。

今回の文庫版で装丁を担当した高林昭太さんは、カバーそのほかでつかわれた佐世保の写真を自分で撮ってきたそう。
そのさい、佐世保に住んでいる著者にはなんの連絡もくれず、仕事を終えて帰京したという。
そのことについて、著者はあとがきでこう述べる。

「何の連絡もなかったのが無視されたようで傷ついた、というのではなくて、そういう仕事のやり方、人付き合いよりも仕事の中身を優先する姿勢が僕には好ましく思われるので、余計な裏話かもしれないがあえて書いておく」

「というのでは」ないのなら、はじめっから書かなければいいのに。
起こらなかったことを書くことで、読者になにごとかを察せさせるというユーモア。

「脚本」というエッセーもそう。
著者は以前、小説を書きたくなることはあっても、脚本を書きたくなることはない、というようなことをエッセーに書いたという。
でも、著者にいわせると、エッセーというのは謙虚さ旨とするものであって、たとえ他人が書いたものであっても、割り引いて読まなくてはならない。

「最近、めっきり本を読まなくなった、とでも書いてあればその筆者はいまでも一日一冊程度は読んでいるのである。年とともに体力はなくなった、と書いてあれば、それはマラソンを完走するのは無理だが20キロならまだ軽く走れるというくらいの意味である」

「だから、エッセイとはもともとそんなふうに謙虚な性質なものだから、脚本なんかに興味がないと書いてあれば、これは自動的に、そちらから依頼があればいつでも書きますよ、というくらいの意味になる」

こんな著者のもとに、ついにはじめての脚本の仕事がやってくる。
「やっと僕の謙虚さが日の目を見るときが来た」

ユーモラスな感じは、対象や自分との距離のとりかたからも生じている。
デビュー直後のインタビューについて、それから20年近くたった著者はこんなふうに書く。

「地方に住むずぶの素人が、独力で、長い小説を書き上げて、出版社に認められた。その直後のインタビューだから、多少、有頂天になって我を見失うのも無理はない。多めに見てやってほしい。と自分でかばってやりたくなるような生意気な発言である」

それから3年後、まだ新人賞を自慢している記事をみつけて、こう。

「新人賞を受賞し小説家として認められたことがよほど嬉しかったのに違いない」

この後、むかしの自分を自慢したいとは思わないが、否定しようとも思わない、なぜならもう忘れかけているからだ、と文章は続く。

ところで。
著者の書くエッセーには女友達がやたらとでてくる。
その真似ではないけれど、上記の脚本の話を、こういうところが面白いんだと知りあいの女性にみせてみたら、

「まわりくどい」

と、ひとこと、まわりくどくない表現でいわれた。

自分が気に入ったものを、ひとに気に入ってもらえないのはさみしいものだけれど、でもこの場合、こういわれるのが、この著者のエッセー的といえなくもないか。


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