作家の生き方

「作家の生き方」(池内紀 集英社 2007)

集英社文庫の一冊。
もとは「生きかた名人 たのしい読書術」のタイトルで、綜合社より発行、集英社より発売された本とのこと。

内容は、あるキーワードをもとに作家の人生を点描したもの。
キーワードと、とりあげられた作家を目次から写してみよう。

借金 内田百鬼園
飲み助 吉田健一
心中 太宰治
病気 堀辰雄
妬み 芥川龍之介
退屈 坂口安吾
借用 井伏鱒二
貧乏 林芙美子
反復 小川未明
気まぐれ 洲之内徹
おかし男 長谷川四郎
雑学 植草甚一
小言 三田村鳶魚
かたり 柴田錬三郎
腹話術 堀口大学
子沢山 与謝野晶子
メランコリー 若山牧水
偏屈 正岡容
ホラ 寺山修司
生きのびる 田中小実昌

みな、池内さん偏愛の作家たちだという。

作品そのものではなく、作品についての解説やら評論やらエッセイを読むことを、個人的に「周辺的読書」と呼んでいる。
あなたは周辺的読書が好きねえと、知りあいにしみじみいわれたのがその由来。

周辺的読書好きにとって、池内さんの書くものにはつねづねお世話になっている。
その主語と接続詞を拝した軽みのある文章で紹介された本は、なんでも面白そうに思えるから妙だ。

口当たりがよすぎて、つい読み飛ばしてしまうけれど、作家の来歴の紹介や、キーワードに則した語り口、作風の核をそっと披露するところなど、その手際には舌を巻く。
紹介している作家を分析するのではなく、味方についているところも好ましい。

そのとりあげかたの例をいくつかあげてみよう。

まず、堀辰雄。
堀辰雄は雄々しい作家だったと池内さんはいう。
病いとツバ競りあいをしながら、作品をものした。
ペン一本で、軽井沢の面目を一新した。

その作風は、読書で得た知識をみごとに秩序づけものだそう。
「読書の成果を置き換えて、まったくべつの文学世界をつくり出した」
その仕事は日本が軍国化していくなかでなされた。
「どうしてこれが弱い人などであるだろう」

ここで池内さんが、当時威勢のよかった軍人やプロレタリア文学者などを引きあいにだして、さんざんやっつけているのが面白い。
きっと池内さんは、威勢のいいものが嫌いなのだろう。

つぎに、井伏鱒二。
井伏鱒二を語るのに、「借用」というキーワードをもってきたところがまず面白い。

井伏鱒二は、資料をもとに作品をつくるということが好きだったらしい。
資料がないときは、架空の資料をでっち上げる。
この手法で書かれた「漂民宇三郎」について、池内さんはこういう。
「架空の史料が加えられてはじめて現存の史料が威力を発揮した」

現代小説であっても、その手法は変わらない。
「多甚古村」では、村の巡査の日記をわざわざ創作して、それを語り手が編みなおしたというスタイルにしたそう。

こうなると、話は「黒い雨」におよばないわけにはいかない。
「黒い雨」には窃盗の疑惑がある。
作品のおおよそ半分が、重松静馬の「被爆日記」ほかの引用でできている。
しかし、著者はここで果然、作者の側に立つ。

「資料をそのまま使えば、それが盗みになるのか? 一字一句変えなかったからこそ創作の名に値する場合があるのではないか」

粉飾また文飾をほどこすことなど容易にできたが、作者はそれをしなかったのだとしてこう続ける。

「ことのほか重いテーマであれば、何よりも素材を生かすべきであり、借用へのひとしおの敬意がなくてはならない。つまるところ、人が窃盗とするところこそ、とびきり高度な創作であって、「創作部分」とされたところは、現存する資料を生かすための架空の資料にあたる」

「『黒い雨』は、むろん、井伏鱒二のとびきり優れた創作である。借用し、そしてこの上ない利子をつけて返却した」

こう引用しているときりがない。
あと、ひとつ、坂口安吾だけ。

安吾は「日本文化私観」で、必要に応じたものこそ美しい、必要なら法隆寺をこわして停車場をつくればいいといい放って、後世のひとにくり返し引用されてきた。
しかし、「私観」は四部構成で、くり返し引用されるのは「一」のみ。
「二」以下はだれもとり上げないと、著者。

「二」以下で書かれているのは、京都だったり取手だったりですごした、空々漠々
たる毎日。
つまり「私観」は退屈(アンニュイ)の土から咲いた人工の華だという。

「どこまでも誠実な彼は、エッセイの「二」以下で、きちんとそのことを明示していた。人がわざとのように見すごしただけである」

ここのところを読んだとき、「私観」を読み返してみたくなり、本をひっぱりだしてみた。
ひさしぶりにとりだした本には、茶色いしみが点々としていた。
読んでみたらたしかに著者のいうとおり。
ただ、自分の記憶力を棚にあげていうのだけれど、激烈なことばの並ぶ「一」とか「四」の終わり以外は、記憶に残らなくても仕方がないと思う。
退屈は忘れやすいのだろう。

まあ、それはそれとして。
ひさしぶりに安吾のエッセイを再読したら楽しかった。
この本には再読のきっかけとなる力があり、それも魅力のひとつだ。


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