謎の解剖学者ヴェサリウス

「謎の解剖学者ヴェサリウス」(坂井建雄 筑摩書房 1999)

ちくまプリマーブックスの一冊。

図書館にいくと、「どこが児童向けなんだ?」と思うような内容のものが多い岩波ジュニア新書は、たいてい児童書の棚においてある。
同じことは、ちくまプリマーブックスにもいえる。
「どこが児童向けなんだ?」という内容のこのシリーズも、たぶん児童書の棚にずらりとならんでいると思う(プリマー・ブックスは発刊をもうやめてしまったようだから、かたづけられてしまっているかもしれないけれど)。

でも、つくり手は多少とも子どもむけを意識しているらしい。
図版が多く、記述は簡潔、分量は少なめ。
それで、こちらが知らないことを、示唆に富む筆致で教えてくれる。
岩波ジュニア新書同様、子どもむけを意識した恩恵を、大人が受けることができる、ありがたいシリーズだ。

さて、先日「解剖学者ドン・ベサリウス」(ペトリュス・ボレル 沖積舎 1989)を読んだところ、手元にこの本があったのを思い出した。
読んでみると、ボレルが小説に書いたような残酷趣味はいささかもない。
ヴェサリウスは一般に近代医学の祖と位置づけられている。
それはいったいどういうことなのか、というのが本書のテーマ。

ヴェサリウスの仕事は、ひとことでいえば「人体の真実は人体にある」ということだった。

ヴェサリウス以前の解剖学者は、自分で解剖の執刀はしなかった。
助手にやらせ、自分は高椅子にすわり、文献を読み上げた。
解剖は文献の内容を確認するための作業だったので、文献の記述と人体にくいちがいがあると、文献のほうが正しいとされた。

ヴェサリウスはそうではなかった。
自分で文献を読み、自分で解剖をおこなった。
人体をもとに、文献を判断したり、批判したりした。

「科学としての医学において当たり前のことが、ここからはじまった」

ヴェサリウスの仕事で、もっとも大きなものは、「ファブリカ」という名前の解剖学書を出版したこと。
それ以前のものとはくらべものにならないほど、精緻な図版がつけられた本。
この本をつくるための膨大な仕事について、著者は思いをはせている。

まず、当時の医学の権威は、2世紀ごろの古代ローマの医師、ガレノスだった(千年以上前に生きた人物が権威になるのが、中世という時代だ)。
ガレノスの説を否定するなり、肯定するなりするにせよ、ガレノスの著作を徹底的に読みこんでおかなくてはならない。

それから、当たり前だけれど、当時はまだ解剖学用語というものがなかった。
そのため、ヴェサリウスは用語をラテン語だけでなく、ギリシア語、アラビア語、ヘブライ語でも紹介した。

さらに、図版の監督。
図柄はヴェサリウス自身がスケッチを描いて指示をだしたらしい。
それを元に、原画は画家に描いてもらわなければならないし、彫板師に原版をつくってもらわなければならない。
図版の監督はよほど厄介だったのか、ヴェサリウスはのちに「ファブリカ」の製作を回想して、画家や彫板師の不機嫌を我慢するほうが、解剖中の遺体を自宅で保管するよりもずっとみじめただったと述べているそう。

本書にはヴェサリウスの生い立ちについても記されている。
アンドレアス・ヴェサリウスは、1514年12月31日、現在のベルギーの首都であるブリュッセルに生まれた。
宮廷医師の家系で、父親のアンドリエスは神聖ローマ皇帝でハプスブルグ家のマクシミリアン1世の宮廷薬剤師を務めていた。
アンドリエスが宮廷医師になれなかったのは、その父エヴェラードの私生児だったので、正規の医学教育が受けられなかったためであるらしい。

当時最高の教育を受けたと思われるヴェサリウスは、15歳のときにブリュッセルから少しはなれたルーヴァン大学に進学。
この大学は1426年に開校され、エラスムスやトマス・モアが学んだ名高い大学。

18歳のとき、パリ大学へ。
当時、医学がもっとも進んでいたのは、北イタリア。
アルプス以北は保守的で、パリ大学も医学教育の水準は低かった。
ヴェサリウスがパリで経験した解剖は、3日間の粗雑な解剖が2回だけだったと、のちにヴェサリウス自身が述べているそう。
その少ない機会に、ヴェサリウスは積極的に執刀をかってでたという。

神聖ローマ皇帝カール5世とフランス王フランソア1世のあいだで戦争がはじまり、パリが外国人であるヴェサリウスにとって危険になったため、卒業試験を受けずに3年の滞在で帰国。
ブリュッセルにもどり、またルーヴァンへ。

22歳のヴェサリウスは、ついに医学の先進地である北イタリアのパドヴァ大学におもむく。
試験を受け、医学士の資格を認められる。
と同時に、いきなり外科学と解剖学の教授に任命されるという大抜擢をうける。
古典医学の文献が読めて、解剖の腕もいい若者が、はるか北方のベルギーからやってきたので、ひとつやらせてみようという判断が、大学側にあったのではないかと著者はみている。
ヴェサリウスは、その期待によくこたえた。
「ファブリカ」と、その要約版である「エピトメー」の出版により、解剖学を最先端の学問に押し上げた。
ヴェサリウスの当初40フロリンだった年俸は、パドヴァ大学を去る6年後には200フロリンにまで上がっていたという。

と、ここまでがヴェサリウスの前半生。
カール5世の宮廷侍医になり、またカール5世からスペイン王位を継いだフェリペ2世の宮廷侍医となった後半生については省略(ボレルの小説は、フェリペ2世に仕えていたころをもとにしたものだ)。

すごいのは、入学の記録や、年俸の金額までわかること。
さらに、ヴェサリウスの講義をうけた学生のノート、「ファブリカ」の版木、当時の骨格標本まで残っているそう。
なんてものもちがいいんだ。

また、解剖用の遺体を手に入れるための苦労も並大抵ではなかったというエピソードも、当時の世相が察せられて面白い。
ヴェサリウスはパリ大学時代、骨格の標本をもとめて、共同墓地を探索し、野犬の群れに襲われたりしている。
ルーヴァンでは、夜にわざと市外から閉め出され、絞首台から罪人の死体をひきずり下ろし、翌日に少しずつ隠しもって、町の別の門から運びこんだそう。

当時の解剖用の遺体は、処刑された犯罪者だった。
パドヴァ大学時代の刑事裁判所の判事は、ヴェサリウスに好意的で、解剖の都合にあわせて処刑時間まで調節してくれたという。

さて、最後に。
著者はダ・ヴィンチを引きあいにだしながら、ヴェサリウスが成し遂げた仕事の上に近代医学が成り立った理由を考察している。
ヴェサリウスより一世代前のダ・ヴィンチも、解剖図を残したことで有名。
けれど、そこから近代医学はおこらなかった。
それはなぜか。
著者による解答はこうだ。

「ヴェサリウスという人物にあって、レオナルドという人物になかったもの、それは学識である」

独学のひとだったダ・ヴィンチは、独学のひとらしく、解剖図も全身を網羅するには至らなかった。
いってみれば、いいとこどりのつまみ食い。

いっぽう、ヴェサリウスの学識は、人体の構造すべてを網羅するという特徴をその解剖学にあたえた。
また、それをするための枠組みをヴェサリウスはつくり上げた。

それに、ダ・ヴィンチの解剖図は一見正確そうにみえるけれど、専門家がみると、当時の通説による思いこみがあったり、ダ・ヴィンチの興味のあわせた変形が加えられていたりして、必ずしもすべて正確ではないのだそう。
ものを正確に観察し、正確に表現するということは、ダ・ヴィンチですらむつかしかったということだろうか。

また、ボレルの小説を読んだ身としては、あの小説の扇情的なおどろおどろしさが気になる。
幻想小説は、場合によると偏見を助長したり、固定したりするものなのかもしれない。

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