タナカの読書メモです。
一冊たちブログ
名画に描かれた女性たち
「名画に描かれた女性たち」(高草茂 ランダムハウス講談社 2008)
副題は「レンブラント、フェルメール、そしてドラクロワは何を語るのか」。
美術エセー。
すこし大きめのハードカバーの本。
図版がきれい。
内容は副題に尽きている。
絵について語るにはいろんなやりかたがある。
著者の場合は、当時の社会や画家のおかれた状況から絵を読み解いていくというもの。
西洋の画題は聖書からのものがほとんど。
だから、一枚の絵は、聖書と、当時の社会と、画家個人という3つの層から成っている。
まず、取り上げられるのがレンブラントの「ダビデの手紙を読むバテシバ」(というタイトルで書かれているけれど、たんに「パテシバ」のほうが通りがいいかも)。
聖書によれば、ヘト人(ヒッタイト)ウリヤの妻バテシバは、ダビデ王に見初められて子を宿し、夫はダビデ王の策略により、戦場で殺されてしまったという。
パテシバが手にもっているのが、夫ウリヤの死を知らせる「ダビデの手紙」。
これが、聖書の層。
これに、当時の社会と画家個人の事情がかさなる。
バテシバのモデルとなったのは、レンブラントの家政婦ヘンドリッキエだと著者はいう。
ヘンドリッキエはレンブラントの子を宿した。
「紛れもない“不倫の子”を宿しながら、戦場で命を失う夫の死に心を乱したバシ・シェバ(バテシバ)の表情は、レンブラントの子を宿し、教会から罪深い生活を譴責されたヘンドリッキエの、苛まれる心の動揺から汲みとったものだろう」
ところで、ジンメルはレンブラントについてこう記しているそう。
「彼のすべての油彩の宗教画、銅版画、素描は、宗教的人間という、たった一つの主題しか持っていない」
〈たった一つの主題〉をもつにいたった理由は、社会状況から説明できるだろう。
当時は、ネーデルラントが政治と宗教の確執から南北に裂かれた時代。
ひとびとの心に信仰上の痛ましい傷がきざまれたこの時代に、レンブラントは聖書の世界にのめりこんだ。
55歳のときの自画像は「使途パウロとしての自画像」。
それよりだいぶまえだけれど、「十字架建立」では、聖ルカ組合員の正装で、十字架を支える自画像を描きこんでいる。
レンブラントは文字通り、聖書の世界に入りこんだのだ。
さて、しかし。
26歳年下のフェルメールでは、すこしばかり事情が変わってくる。
フェルメールも、聖書に材をとり、自分が入りこんだ作品を描いた。
けれど、それよりも聖書の世界をデルフトの町に招き入れたことが重要。
フェルメールは、「マルタとマリアの家のキリスト」で、マルタとマリアの姉妹に話かけているイエスを描いている。
そのマルタとマリアの家は、デルフトの家の室内だ。
そして、代表作のひとつである「牛乳を注ぐ女」も、同じ文脈で語れるという。
「この女性はイエスに飲んでいただく牛乳を土鍋に注ぐマルタの姿である」
そうだったのか!
「マルタが牛乳を注いでいるところは、ベタニア村ではなく、デルフトの静かな家の厨房に移された。マルタは街角の家の、淡い光が溢れるお勝手で、牛乳を温めて上げようとしている。どなたに? 多分デルフトにお出でになったイエスのためだろう」
(ところで、「フェルメールの受胎告知」(シリ・ハストヴェット 白水社 2007)では、「真珠の首飾りをもつ女」は受胎告知の絵ではないかという解釈がなされていたと思う(ちゃんと読んでいないのであやふやだけど)。それを援用すれば、フェルメールの作品でいちばん有名な「真珠の耳飾の少女」も受胎告知の絵だということができるかもしれない。あの絵は、天使のお告げにおどろいた少女を描いたものなのだ――と、これは冗談)
フェルメールの作品では「絵画芸術」でも、興味深いことが書かれている。
あの、青い服をきて、本とトロンボーンをもっている女のひとを画家が描いている絵。
この絵には、壁に地図がかけられているのだけれど、その地図は分裂以前のネーデルラントの地図だという。
「ネーデルラント南部出自の自らの系譜にこだわり、歴史的には北部七州と南部が一体であったことをここで明らかにし、地図には南北の境界を表すような折り目がついているものの本来は揺るぎなき「一つの国」であることを言おうとしたものであろう」
「ネーデルラント南部出自」というのは、フェルメールの祖父がもともとフランドル(南部ネーデルラント)のひとだったため。
仕立て職人だったこの祖父は、オランダ独立戦争直前、デルフトに移り住んだ。
また、再洗礼派(メノ派)だった一家は、デルフトにきてカトリックに改宗したらしい。
このあたりにも、フェルメールのこだわりがあったよう。
そこで著者は、画家が歴史の女神クリオに扮した女性を描くという趣向の、「絵画芸術」をこう読みこむ。
「芸術は、信仰を超えて永遠のものである、と画家は告げたかったのだろう」
(また余談。赤瀬川源平さんの「赤瀬川源平の名画読本」(光文社 2005)にもこの「絵画芸術」が取り上げられていたように思う。この本のなかで赤瀬川さんは終始、画家の服の描かれかたや床の文様など、「筆づかいの気持ちよさ」にのみ着目していたはず。絵を語るにはいろんなやりかたがある)
ゴヤにもふれたい。
1824年、フェルナンド7世から6ヶ月の休暇をあたえられた78歳のゴヤは、フランスに赴く。
滞在予定だったボルドーで3日すごしただけで、ゴヤはすぐパリに旅立ってしまう。
これについて、著者はこう書く。
「6月30日から2ヶ月もパリに投宿していたのは、若い頃からの知人や親友との再会を果たすためであったと推測されている。しかし、一番の目的は同年8月25日に開催されたサロンへの出品作を見ることだったのではなかろうか」
サロンへは、フランス古典派のアングルが「ルイ十三世の誓願」を、ロマン派のドラクロワが「キオス島の虐殺」を出品していた。
それ以前のサロンの出品作の評判もゴヤには届いていたらしい。
「ゴヤが老躯を駆ってパリを訪れた目的は、明らかにジェリコー(1819年に「メデューズ号の筏」を出品している)やドラクロワの作品を直に見るためだったのである」
と、著者は断言している。
さて、ゴヤといえば、堀田善衛さんの「ゴヤ」(朝日新聞社 1994)だ。
堀田さんが、ゴヤのサロン鑑賞についてどう書いているのか気になり、本を引っ張りだしてみた。
堀田さんは、万事慎重。
「パリを去るにあたってこのサロンを彼が見に行ったであろうと仮定することは許されるであろう」
「ゴヤがそれをどういう心持で見たものであったか。一切は明らかではない。それは痛快なほどに、何の記録もなく、かつ爾後の彼の仕事の上にも何の反応もなかった」
作家である堀田さんのほうが慎重なのが面白い。
それにしても、書き手によってずいぶん解釈がちがう。
堀田さんの「ゴヤ」が出たあと、新資料でも発見されたのだろうか。
(ところで堀田さんはサロンの出品作であるアングルの絵を「ナポレオン三世の誓願」と記している。グーグルの画像検索でもみつからなかったし、これは単なる間違いかもしれない)
「裸のマハ」についても、両人の意見は分かれている。
「裸のマハ」の顔は、なんとなくとってつけたような感じをしている。
高草さんの見解はこう。
「筆を取った折、ゴヤの脳裏にはアルバ公爵夫人(ゴヤとつきあいがあったらしい)の姿が浮き沈みしただろう。その顔をここに描くことは断念して、のちに艶な生気を欠く顔をつくり、この横たわる裸の体に据えたのである。ゴヤの描く人物として、これ程不自然で、身体と顔が一体となっていない例はない。無理もないことである」
高草さんにくらべて、堀田さんはそっけない。
(首をすげかえたという疑問は)
「X線検査によってその疑問は否定された」
顔を描きなおしたのではなく、描いている最中に顔を変更したのなら、高草説もありえるだろうか。
それにしても、あんまりひとによって解釈がちがうと、読んでいて不安をおぼえてくる。
できれば、どこまでが通説で、どこからが個人の解釈なのかわかりやすく書いてくれるとありがたいと思った。
あと、一枚の絵について、どんなことが書かれてきたのか、まとめられた本があると便利かもしれない。
個人的に、そんな本があったら読んでみたいものだけれど。
副題は「レンブラント、フェルメール、そしてドラクロワは何を語るのか」。
美術エセー。
すこし大きめのハードカバーの本。
図版がきれい。
内容は副題に尽きている。
絵について語るにはいろんなやりかたがある。
著者の場合は、当時の社会や画家のおかれた状況から絵を読み解いていくというもの。
西洋の画題は聖書からのものがほとんど。
だから、一枚の絵は、聖書と、当時の社会と、画家個人という3つの層から成っている。
まず、取り上げられるのがレンブラントの「ダビデの手紙を読むバテシバ」(というタイトルで書かれているけれど、たんに「パテシバ」のほうが通りがいいかも)。
聖書によれば、ヘト人(ヒッタイト)ウリヤの妻バテシバは、ダビデ王に見初められて子を宿し、夫はダビデ王の策略により、戦場で殺されてしまったという。
パテシバが手にもっているのが、夫ウリヤの死を知らせる「ダビデの手紙」。
これが、聖書の層。
これに、当時の社会と画家個人の事情がかさなる。
バテシバのモデルとなったのは、レンブラントの家政婦ヘンドリッキエだと著者はいう。
ヘンドリッキエはレンブラントの子を宿した。
「紛れもない“不倫の子”を宿しながら、戦場で命を失う夫の死に心を乱したバシ・シェバ(バテシバ)の表情は、レンブラントの子を宿し、教会から罪深い生活を譴責されたヘンドリッキエの、苛まれる心の動揺から汲みとったものだろう」
ところで、ジンメルはレンブラントについてこう記しているそう。
「彼のすべての油彩の宗教画、銅版画、素描は、宗教的人間という、たった一つの主題しか持っていない」
〈たった一つの主題〉をもつにいたった理由は、社会状況から説明できるだろう。
当時は、ネーデルラントが政治と宗教の確執から南北に裂かれた時代。
ひとびとの心に信仰上の痛ましい傷がきざまれたこの時代に、レンブラントは聖書の世界にのめりこんだ。
55歳のときの自画像は「使途パウロとしての自画像」。
それよりだいぶまえだけれど、「十字架建立」では、聖ルカ組合員の正装で、十字架を支える自画像を描きこんでいる。
レンブラントは文字通り、聖書の世界に入りこんだのだ。
さて、しかし。
26歳年下のフェルメールでは、すこしばかり事情が変わってくる。
フェルメールも、聖書に材をとり、自分が入りこんだ作品を描いた。
けれど、それよりも聖書の世界をデルフトの町に招き入れたことが重要。
フェルメールは、「マルタとマリアの家のキリスト」で、マルタとマリアの姉妹に話かけているイエスを描いている。
そのマルタとマリアの家は、デルフトの家の室内だ。
そして、代表作のひとつである「牛乳を注ぐ女」も、同じ文脈で語れるという。
「この女性はイエスに飲んでいただく牛乳を土鍋に注ぐマルタの姿である」
そうだったのか!
「マルタが牛乳を注いでいるところは、ベタニア村ではなく、デルフトの静かな家の厨房に移された。マルタは街角の家の、淡い光が溢れるお勝手で、牛乳を温めて上げようとしている。どなたに? 多分デルフトにお出でになったイエスのためだろう」
(ところで、「フェルメールの受胎告知」(シリ・ハストヴェット 白水社 2007)では、「真珠の首飾りをもつ女」は受胎告知の絵ではないかという解釈がなされていたと思う(ちゃんと読んでいないのであやふやだけど)。それを援用すれば、フェルメールの作品でいちばん有名な「真珠の耳飾の少女」も受胎告知の絵だということができるかもしれない。あの絵は、天使のお告げにおどろいた少女を描いたものなのだ――と、これは冗談)
フェルメールの作品では「絵画芸術」でも、興味深いことが書かれている。
あの、青い服をきて、本とトロンボーンをもっている女のひとを画家が描いている絵。
この絵には、壁に地図がかけられているのだけれど、その地図は分裂以前のネーデルラントの地図だという。
「ネーデルラント南部出自の自らの系譜にこだわり、歴史的には北部七州と南部が一体であったことをここで明らかにし、地図には南北の境界を表すような折り目がついているものの本来は揺るぎなき「一つの国」であることを言おうとしたものであろう」
「ネーデルラント南部出自」というのは、フェルメールの祖父がもともとフランドル(南部ネーデルラント)のひとだったため。
仕立て職人だったこの祖父は、オランダ独立戦争直前、デルフトに移り住んだ。
また、再洗礼派(メノ派)だった一家は、デルフトにきてカトリックに改宗したらしい。
このあたりにも、フェルメールのこだわりがあったよう。
そこで著者は、画家が歴史の女神クリオに扮した女性を描くという趣向の、「絵画芸術」をこう読みこむ。
「芸術は、信仰を超えて永遠のものである、と画家は告げたかったのだろう」
(また余談。赤瀬川源平さんの「赤瀬川源平の名画読本」(光文社 2005)にもこの「絵画芸術」が取り上げられていたように思う。この本のなかで赤瀬川さんは終始、画家の服の描かれかたや床の文様など、「筆づかいの気持ちよさ」にのみ着目していたはず。絵を語るにはいろんなやりかたがある)
ゴヤにもふれたい。
1824年、フェルナンド7世から6ヶ月の休暇をあたえられた78歳のゴヤは、フランスに赴く。
滞在予定だったボルドーで3日すごしただけで、ゴヤはすぐパリに旅立ってしまう。
これについて、著者はこう書く。
「6月30日から2ヶ月もパリに投宿していたのは、若い頃からの知人や親友との再会を果たすためであったと推測されている。しかし、一番の目的は同年8月25日に開催されたサロンへの出品作を見ることだったのではなかろうか」
サロンへは、フランス古典派のアングルが「ルイ十三世の誓願」を、ロマン派のドラクロワが「キオス島の虐殺」を出品していた。
それ以前のサロンの出品作の評判もゴヤには届いていたらしい。
「ゴヤが老躯を駆ってパリを訪れた目的は、明らかにジェリコー(1819年に「メデューズ号の筏」を出品している)やドラクロワの作品を直に見るためだったのである」
と、著者は断言している。
さて、ゴヤといえば、堀田善衛さんの「ゴヤ」(朝日新聞社 1994)だ。
堀田さんが、ゴヤのサロン鑑賞についてどう書いているのか気になり、本を引っ張りだしてみた。
堀田さんは、万事慎重。
「パリを去るにあたってこのサロンを彼が見に行ったであろうと仮定することは許されるであろう」
「ゴヤがそれをどういう心持で見たものであったか。一切は明らかではない。それは痛快なほどに、何の記録もなく、かつ爾後の彼の仕事の上にも何の反応もなかった」
作家である堀田さんのほうが慎重なのが面白い。
それにしても、書き手によってずいぶん解釈がちがう。
堀田さんの「ゴヤ」が出たあと、新資料でも発見されたのだろうか。
(ところで堀田さんはサロンの出品作であるアングルの絵を「ナポレオン三世の誓願」と記している。グーグルの画像検索でもみつからなかったし、これは単なる間違いかもしれない)
「裸のマハ」についても、両人の意見は分かれている。
「裸のマハ」の顔は、なんとなくとってつけたような感じをしている。
高草さんの見解はこう。
「筆を取った折、ゴヤの脳裏にはアルバ公爵夫人(ゴヤとつきあいがあったらしい)の姿が浮き沈みしただろう。その顔をここに描くことは断念して、のちに艶な生気を欠く顔をつくり、この横たわる裸の体に据えたのである。ゴヤの描く人物として、これ程不自然で、身体と顔が一体となっていない例はない。無理もないことである」
高草さんにくらべて、堀田さんはそっけない。
(首をすげかえたという疑問は)
「X線検査によってその疑問は否定された」
顔を描きなおしたのではなく、描いている最中に顔を変更したのなら、高草説もありえるだろうか。
それにしても、あんまりひとによって解釈がちがうと、読んでいて不安をおぼえてくる。
できれば、どこまでが通説で、どこからが個人の解釈なのかわかりやすく書いてくれるとありがたいと思った。
あと、一枚の絵について、どんなことが書かれてきたのか、まとめられた本があると便利かもしれない。
個人的に、そんな本があったら読んでみたいものだけれど。
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