「捜神記」 2005.8.29〈再掲〉

時代をさかのぼり、こんどは「捜神記」
読んだのは東洋文庫版(竹田晃訳 平凡社 1964年)。

解説によれば、著者の干宝(かんほう)は4世紀なかば晋の時代のひと。
細かいことはよくわからないそう。

「捜神記」は志怪小説のはしりの1冊だとも書いてある。
後漢末から六朝にかけて、儒教のちからは弱まり、知識人たちはおおいに怪力乱神を語るようになった。
語るだけでなく、記録にとどめた。
で、「志怪小説」というジャンルができたという。

「志怪」とは、「怪」を「志(しる)す」、という意味。
「小説」は、「とるにたりない小さな話」のこと。

というわけで、「捜神記」は、全編ふしぎな、とるにたりない小さな話に満ちている。

三国時代直後のせいか、ときどき三国志でなじみのひとたちがでてくる。
三国志は子どものころ夢中で読みふけった。
こんなところでまた会うとはなつかしい。

たとえば、干吉(うきつ)の話。
干吉は、呉の主君、孫策の機嫌をそこねて、雨乞いをさせられる。

注によれば、当時の雨乞いというのは、術者を裸にして縛りあげ、日にさらすものだとのこと。
仙人を縛りあげてなんの益があるのかと思うが、はたして雨がふる。
ひょっとすると、効くのかもしれない。

雨がふったのだから干吉は助かる、と将兵らは思ったが、干吉はすでに孫策に殺されていた。

以後、孫策は干吉の幻を見るようになった。

戦傷を負った孫策は、その傷が治りかけたころ、鏡で傷を見ようとした。
すると、そこに干吉がいた。
孫策は絶叫し、同時に傷がひらき、たちまち死んでしまった。
……

話はとぶけれど、鏡に死んだひとが映るという話はいつからあるのだろう。
鏡ができたときからだろうか。

べつの話。
いろんな動物に角が生える話がある。
宮中の馬に角が生える。
左耳のまえ、というところが細かい。

兎にも角が生える。
犬にも生える。
70歳あまりの老人にも角が生える。
おいおい。

これらはすべて、政治が乱れる前兆だったそう。
なんでも政治のせいにするところが中国らしいところだろうか。
この章は、話というより事項の羅列で、後代の手によって追加されたところらしい。

また、「羽衣の人」という話。
これにはびっくりした。
ずいぶんヘンテコな話なのだ。

ある男が畑仕事の途中、木陰でひと休みしていた。
すると羽衣を着た男があらわれて、男は犯されてしまった。

その後、男の腹は大きくなり、月満ちて子どもが生まれそうになった。
すると、また羽衣の人があらわれて、刀で男の腹を切りひらき、蛇の子をとりだして去った。

結果、男は去勢されてしまい、朝廷にまかり出て以上の話をものがたり、宮中で養われることとなったという。

なんだかもうよくわからない。
すごい話があったものだ。

これ以上はないというくらい、とるにたりない話もある。
「針鼠」という、ワン・センテンスの話。
ぜんぶ引用しよう。

「はりねずみは刺(とげ)がいっぱい生えているので柳の枝のあいだを通りぬけることができない」

…以上。
なんというかもう、そうですか、というほかない。
こんな話が千年以上もつたえられてきたと思うと、たまらなくうれしい。


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