「封神演義」 2006.5.21〈再掲〉

古典というのは、いろいろ評判を聞いて、わかったつもりになっていても、じっさい読んでみると、こちらの想像をはるかに超えていることが多い。

さすが読みつがれてきただけのことはあるな、と感じ入る。

「封神演義」(安能務訳 上中下巻 講談社 1988)もそうだった。
いやあ、こんな話だったとは。

まえがきに、この作品の由来が述べられている。
これによれば、「封神演義」は、商周の易姓革命を道教的に潤色したものであるらしい。
最初は講談だったが、明代なかばの小説勃興期に「商周演義」としてまとめられ、それが「封神演義」とよばれるようになったそう。
また、「封神榜(ぼう)」、「封神榜演義」ともよばれたりしたとのこと。

ストーリーは、まず商の紂王が、女神である女禍をまつった女禍宮をおとずれるところから。
紂王は女禍像の美しさに感動し、壁に女禍をたたえる詩を書く。

これが女禍のカンにさわった。
壁を汚すな、と腹を立てた女禍は、紂王を破滅させるため、手下を三人送りこむ。

手下のひとりの女狐は、女禍に似ているという冀州候蘇護の娘、妲妃を襲いこれに化ける。
同時に、奸臣の策謀やらがいろいろあり、 妲妃は紂王の後宮におさまり、以後は悪行三昧。

これに仙界再編のうごきがくわわる。

それまでの宇宙は、天界・仙界・人界に分かれていた。
そこに、神界というものを創設する計画が、仙界上層部で生まれた。
できの悪い仙人や、修行をしたものの仙骨がなく、下界にもどった仙人くずれをそこに押しこめてしまうのだ。

これを「封神計画」という。
不出来仙人はリスト化され、それは「封神榜」とよばれる。

そして、ここからがスゴイ。
仙人を封ずるには殺さなくてはいけない、という。

どうせ下界は王朝の交代で戦争は避けられない。
なら、この戦争を期に、リストにあがった仙人たちを皆殺しにしてしまおう。

それから、殺劫(さっこう)ということをいいだす。

たとえ仙人になっても殺しあいはしたい。
我慢するものの、1500年もすると我慢もきかなくなる。
ひとを殺すことを、「殺戒を犯す」というが、それをすることで、気がおだやかになり、心に平和がもどる。
やろう。

…なんというか、すっかり居直っている。
仙人になると、こうも居直ってしまうものか。

さて、計画遂行のために、元始天尊より命をうけたのが、太公望姜子牙(きょうしが)。
本編の主人公だ。
姜子牙は下界にくだり、封神計画を遂行する。

妲妃とは、ともに易姓革命をすすめる味方同士ともいえるが、早々に対立する仲に。

姜子牙は、釣りをしているところを文王姫昌に乞われるという有名な場面ののち、軍師となり、あとは戦争。

仙人たちは、宝貝(パオペエ)とよばれる魔法の武器をつかってたたかう。
あらわれてはたたかい、あらわれてはたたかいして、ばったばったと死んでいく。

「一道の魂魄が封神台へとぶ」
と、いうのが決まり文句。
封神台というのは、魂魄を封じておくところだ。

この作品、とにかく仙人たちがでてきては死ぬ。
だれも死んだ仙人に思いをはせたりはしない。
おかげで、 残酷な感じはぜんぜんない。
むしろユーモラスな感じ。

そうそう。
「封神演義」でも男女を結ぶ糸は、赤縄(ツシュン)とよばれていた。
やっぱり中国では、赤い糸ではなく、赤い縄のようだ。

また「繋足の縁」といういいかたもでてきた。
やはり結ぶのは足らしい。
小指に赤い糸の日本人の目には、じつに豪快に見える。

この 「繋足の縁」があったため、地中をすすむ仙術をつかうモグラ仙人、土行孫と、絶世の美女、蝉玉とは夫婦になる。
このあたり、もと講談の、路上で練られたユーモアという感じがした。
そして、このふたりもあっけなく死んでしまう。
このときは、さすがに悲しかった。


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