小学生に「死ぬな」と諭されたT先生

2006-11-29 11:00:43 | 塾あれこれ
現在の話ではありません。
昭和30年代。団塊世代の私たちに向かって
小学校の先生が仰ったのです。

当時、市内の百米道路にもまだバラックに人が住んで
おられ、太田川の岸辺にも沢山の家がひしめいていま
した。
宇品に住んでいた我家も貧しかったけれど、年末ご近
所から「年を越せない」と泣く声を耳にして「ウチは
まだ良いほうなんだ」と言い、親を苦笑させたことが
あります。

世の中はまだ貧しく、なんとか生きるのだ、という
ことがあたりまえの空気でした。

ですから、小学生の私には先生が言われる
「君たち、死んではいけない」
の意味がピンときませんでした。

「死ぬル言うことは怖いで、先生に言われんでも」
こんな感想でしたね。

まして先生の話の根拠など記憶に残っていません。
もしかすると、余り根拠は話されなかったのかも
しれません。
説明などしないで、折りあれば「死ぬな」と
メッセージを出しておられた、そんな気がします。

これから多感な時代を迎えるからこそ、小さな間に
伝えたいと思われたのではないでしょうか。

自死を戒められた言葉は胸のどこかにとどまって
支えてくれた気がします。

偏ったキツイ性格の私は数少ない友達ともぶつかり
一人おいていかれました。
大人になっても同様です。
ここには書けないようなことも再三ありました。

関係者が生きているので自分の勝手なウラミになる
事は言いませんが、その時はきつかった。
橋から覗きこんだこともあります。

今振り返ると先生の言葉がどこかで聞こえていた
ような気がするのです。

気持ちが本当に落ち込めば通常の考えができなくな
るオソレがあります。
後戻りし難いそこへ到る前に一歩立ち止まってみる
ことができればと思います。
そのためには自分の中に「生きる」という気持を
ふだんから刻んでおくことが大切です。

T先生。
大切に教育していただきました。
11.17

なぜ死んではいけないのか、を明確に

2006-11-29 10:46:00 | 塾あれこれ

昨日のT先生も子供に向かって細かな理屈を言われな
かっただけで、もちろんお考えはあったと思います。
そうでなければ言葉に力がありませんから。

仰られなかったのではなく、聞いていた私のほうが
ボーっとしていたかもしれません。

大人が発信しつづければよい、と考えます。
その発信に力があるためには、自分の考えが明確に
なっている必要がありますね。
どこまで話すかは状況次第でしょう。

自分に確信があれば話に力があるだけでなく、
ブレません。これも大きなことですね。

現在、文科大臣をはじめ様々な方がご自分の考えを
述べられています。
根拠となりそうな話は出つくしているかもしれませ
んが、決定打もなさそうです。
そんなに簡単にあるものなら人間て簡単すぎます。

で、いろいろ読むのですが、どれも「でも」と
思う部分があります。
これは、自分の考えも同様に充分ではなく欠点が
あるものだということになりますね。
でも、それでよいと思うのです。

私たちは神様ではないので、自分が心から思うこと
を発信するしかないのです。

私は「生きるとは素晴らしい」とはこの社会を見て
とうてい思えませんので積極的に「生きよう」と
は言いづらく思います。
子供達も直感で分かっているようですね。

私は「人が悲しむ」と伝えます。
ただT先生のようにはいかず、そのような話をする
場面があるときに限りますけれど。
もっと発信すべきと反省しています。

私にとっては、自分のごくごく身近では自死した人
はいませんのでつらい思いもまだしもです。
それでも、大学のクラブの仲間、将来部長になると
皆で思ってい、私も友人になりかけた人が1年の
時に死にました。私たちにはその理由は分からない
ままです。
それから近年にいたるまで、いくつもの自死と向か
いあいました。
「なぜ?」
答えは戻ってきません。
残された者は何もできない。

ごく身近の人でなくても哀しみは大きいのです。

ふっと一つの笑顔でもいい、自分に送ってくれた人
心配の言葉を掛けてくれた人、遠くから見守ってくれ
た人、思いもよらない人が皆悲しい思いをし、
とりかえしのつかない無力感を抱きます。

その人にそんな思いをさせてはいけない。
人は自ら死を選んではいけない。

同じ苦しみを抱く人は自分だけではありません。
歯を食いしばって生きている。
なぜか?
生きなければならないから。

死を直前にした人には届かない言葉かもしれませ
ん。
だから、普段から言いつづけなくてはいけないの
です。
11.18