味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

至善は是れ心の本體なり。

2017-08-15 18:09:51 | ブログ
第3151号 29.08.16(水)

至善は是れ心の本體なり。只だ是れ明徳を明らかにして、至精至一の處に到れば便(すなわ)ち是なり。30
 父に事(つか)ふるの孝、君に事ふるの忠、友に交わるの信、民を治むるの仁の如き、其の間許多の理の在る有り。『伝習録』(伝習録巻上)31 


 〔通釈〕至善の理こそ心の本体であって、わが明徳を明らかにすることによって心を天理に純一にし、その極点に到達すればよいのである。30
 父によく事える孝や、君によく事える忠、朋友と交わる信や、民を治める仁などについても、そこには為すべき多くの理があるのです。33


 【コメント】このところは至善の質問から始まって、孝行の問題が中心的な話題ですが、孝行は形式的な要素が多いので、書物に基づいて学ぶ必要があると考えたのに対して、王陽明は、まず孝の根本を心に求め得たなら、細かい孝行の仕方は自然に理解できるようになると説いています。
 孝の根本とは、わが心を天理に純一にして、一毫の人欲も留めないことであります。人欲を去って人間本来の純真な精神で臨めば、人は自ら孝行せざるを得なくなると言うのです。一部に拘泥して根本の精神を忘れ、形式のみを論ずる人にとっては、理解し難い教えにとられるでしょう。

------------- 
『不動心』(第19回)

 時は過ぎ去り、機会は二度と自分のものにならない

 なすべきことをずるずると延ばし延ばしにしてきた長い歳月について考えてもみてください。しかも、どんなに猶予の期間をくりかえし与えられたところで、それを利用しようとはしなかったのだ。もうこの辺で、あなたの属している宇宙の本質と、あなたを生み出したその支配的な力について自覚し、時間には限りがあるということを理解してもいい頃だ。自分を啓発するために時間を使いなさい。さもなければ時は過ぎ去り、二度とあなたの意のままにはできなくなってしまう。

-------------
「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第96回)

 「その後不逞の徒は、県(旧藩出身者で構成された当時の県)そのものを転覆させなければ、開墾を止めさせることができないとして、県庁の過誤失策を探索して大衆に呼びかけ、中央の諸官庁に反覆提訴しました。表面では謝金を要求しております」
 「政府においては、初めは正当に理解された開墾の趣旨が、ここに至って真意がぼやけ、かえって疑いを抱く結果になりました」
 「すなわち明治八年には元老院大書記官の取り調べ、次いで九年には臨時裁判を開廷して審理の結果、規則に抵触する者がありましたが、それらは開墾を奨励する趣旨からでたものであったにもかかわらず、有罪とされるなど、開墾の趣旨が正しく認識されず、開墾への謗りが紛々としている状態であります」
 「このような状態にあって、開墾に従事する者は政府の嫌疑を憚って、開墾をすてて離散する者もでるなど、われわれ有志の者は、長年の努力がこのような事態を招いたことをはなはだ残念に思いますが、なおも初一念を奮って勉励すれば、政府は開墾の本旨を正しく理解される日もあることを確信して、(政府への)憤りを鎮め怒りを押さえて開墾に勉励している次第であります」

-----------
昨夜はNHKテレビでインパール作戦のドキュメンタリー報道がありました。半世紀以上前の出来事であったとは申せ、上層部の理不尽な指導によって不毛の死を遂げられた方々の悲哀は想像を絶するものがありました。

 中でも大将・東條首相が明治天皇に虚偽めいた報国をしたことを知った時は、東條首相への信頼の想いが消え失せて行く思いでした。
 東條首相は戦争責任者としてNHK元解説委員長・岡村和夫氏らの厳しい指弾を受けたことがありました。その時でも私は、東條氏を庇う気持ちがありました。

 それは長年付き合いをしてきた平井政明先生が、東條氏に殊の外敬愛の情を寄せていたからでした。平井先生からも東條氏の人柄を聞いていたからでした。

 平井先生は京都大学卒業後、東京で教鞭をとっていました。実は平井先生は東條氏の愛娘・マキコ様を担当していたのでした。そこへ或日軍刀を提げた東條氏がやってきたのでした。その祭、東條氏は平井先生に最敬礼をして(娘・マキコを)よろしくお願いします、と深々と挨拶をしたのだと平井先生から伺ったものです。

 戦後70年が経過しました。二度と戦争をしてはならないと思います。だが、お隣には若殿様が物騒な物を打ち上げ楽しんでおられるように思います。ですから、国を防備する術は準備しなければならないと思います。
 
 戦争をせず、平和・安全・繁栄は大変いいことですが、教育理念上は戦時体制同様、厳しく教育する必要があるように思われます。厳しさがないと、特に男子は遊び心としてワルの方へ行きがちです。

 昨日は枕崎水産高校の講師がスマートホンで女性のスカウト内を映そうとして捕えられ逮捕される事態になっています。 思うに、漢籍の世界を逍遥するキチガイになって欲しいものだと思います。これほど楽しいものはないと確信します。

-------------

 

君子は其の賢を賢として、

2017-08-14 17:26:19 | ブログ
第3150号 29.08.15(火)

君子は其の賢を賢として、其の親を親しみ、小人は其の楽しみを楽しんで、其の利を利とす、赤子を保(やすん)ずるが如し、民の好む所は之を好み、民の悪む所は之を悪む。此れを之民の父母と謂ふ、と云うが如きの類は、皆是れ親しむの字の意なり。民を親しむ、は猶ほ孟子の、親を親しみ、民を仁す、の謂ひのごとし。之を親しむは即ち之を仁するなり。『伝習録』(伝習録巻上)29

 〔通釈〕『君子は賢人を尊敬して同族のものを愛するが、小人は自己の享楽を喜び自己の利益を求めるものだ。』とか、『明君は赤ん坊を保護するように人民を大切にして、人民の好むことは好み、人民の悪むことは悪むもので、これを人民の父母という。』などとあるのは、すべて民を親しむ意味である。民を親しむというのは、孟子にある『同族の者を親しみ、一般人民を愛する。』の語と同じことで、親しむとは仁愛することなのである。

 【コメント】賢人も小人も人それぞれ人を愛するわけですが、人間の自然の感情として、人に敬意を表すると同様の愛の感情を抱いて日々にのぞんだら、お互い共感すると思います。

 親しむとか尊敬の念を抱いたらどんな人でも喜ぶものです。

 でも世の中には、自ら生きる世界を狭めている人もいるようです。そういう懐の狭い生き方をしていると、人生は上手く行きません。
 
 何を言われようが、思われようが、世の為人の為と信じて世渡りをする人情味溢れる生き方をしてこそ天も味方をするでしょう。

-------------------
「妄語せざるより始まる」

 中国の宋の時代に、司馬温公という偉い人がいました。この人は大学者であり、また政治家でもありました。西郷隆盛が、人々にお話をしたのをまとめている『南洲翁遺訓』にも、司馬温公のことが記されています。司馬温公は、誠の人であったと言われています。そういう人であったからこそ、西郷隆盛も、立派な人だということで尊敬したのだと思います。
 その司馬温公が、小さいとき、子供たちとカメの上で遊んでいました。カメというのは、焼き物で作った大きな大きな器で、水などをいれるタンク見たいなものです。そのカメに水を入れて、ふたをして置いていたわけです。子供たちがそのカメの上で遊んでいたときふたがこわれて、一人がその中に落ちておぼれてしまいました。子供たちは、大騒ぎになりました。どうにかして助けなければと思いながらも、みんなどうすることも出来ません。
 その時に、司馬温公が大きな石を抱えて来て、カメに投げつけました。カメは壊れて水が流れ、子供は助かりました。そういう機知にとんだ、賢い人であったと言われています。
 その司馬温公の、門人(弟子)であった劉安世という人が、先生に質問をしました。
 「人間の一生で、大事な守るべき言葉があるなら、教えてください。」
 「それは誠という言葉である。誠の心こそは、人間一生守りつづけても、何の間違いもないものである。」と、司馬温公は教えたのです。
 「それなら、その誠を身につけるにはどうしたらいいのでしょうか。」とさらにお尋ねしました。
 「妄語せざるより始まる。」と司馬温公は教えました。
 妄語というのは、妄りの言葉という意味です。妄りにべらべらと、口からでまかせに言わない、でたらめを言わない、嘘を言わないということです。そこから誠ということは始まるのだ、と教えたのです。

 その昔、読書をしたという男が、知ったかぶりに人生訓を義理の弟に話して聞かせました。ところがその読書氏は結婚して初夜の晩に、妻を殴りつづけ妻は瀕死の重傷を負いました。妻は初恋の女でしたが、再婚だったのです。
 知ったかぶりの読書氏は50歳になる前に、仕事中に倒れ、救急車で搬送されました。80歳で亡くなるまでに5回救急車にお世話になったのだそうです。
 要はどれだけ読書して詳しくなっても、誠の精神を抱きつづけ、妄りの言葉を遣ってはならないという戒めの姿を世の人々に見せてくれたのでした。

---------------
「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第95回)

 「しかし開墾の趣旨は政府の認めるところとなり、明治七年一月には過分の賞典と、多大の資金をくださいましたので、感泣した士族はもちろん市街、郷村の者までも、あるいは労力、あるいは私財を提供して開墾に協力しています。これらはいずれも国に尽くす良心からでたもので、われわれは敢えて辞退せず、これらを受入れて引き続き開墾に努力してまいりました」
 「これが明治六年に、松ヶ岡六十万坪と以前の開墾と合わせて百万坪を成就し、桑苗を植え蚕室を建て養蚕を興し、明治十年になって物産が次第に莫大の額に達し、開墾はようやく成功を見ようとしています」
 「しかるに不逞の徒は、開墾の資金を市民に課し、農民には労力を強制したといいがかりをつけ、その上、報国を口実に士族を束縛して、不法な反逆を企てたなどと流言をながし、新聞紙上に掲載して、開墾の真意を覆い隠しました」

-----------

先生明睿天授、

2017-08-14 09:47:07 | ブログ
第3149号 29.08.14(月)

先生明睿天授、然れども和楽坦易、邊幅を事とせず。人其の少時豪邁不羈(ごうまいふき)にして、又嘗て詞章に泛濫(はんらん)し、二氏の學に出入せしを見、驟(にはか)に是の説を聞いて、皆目して以て異を立て奇を好むと為し、漫(みだり)に省究せず。先生の夷に居ること三載、困に處り静を養ひ、精一の功、固より已に聖域に超入して、粹然たる大中至正の帰なるを知らざるなり。『伝習録』(伝習録巻上)26

 〔通釈〕先生は天性聡明で、しかも温好和静、なりふりに無頓着な方である。世間では先生が若い頃に豪放で飾りのなかったことや、文章に耽ったり、仏教や老子の思想に出入りしたことを知っているので、突然この説を聞いた時は、皆先生が好んで奇抜な説を立てるものとして、一同に関心を示さなかった。これは先生が貴州の蛮地に滞在すること三年、困苦の中にあって静思を重ね、心を精一にする修養をされた結果、すでに遠く聖人の境に入られ、まことにこの上ない理想の人格に達せられたことを知らないためである。

 【コメント】私も困苦の中にあって<静思を重ね、心を精一にする修養>をしているのですが、まだまだ埒があきません。それでもわからずとも、楽しんで楽しんで漢籍を繙いています。

 書斎には三種類の伝習録が保存されており、今まで繙いてきました。安岡先生が、分からずとも読みつづけなさいとと力説していますので、教えを遵守しています。

 昨日は高齢者の方々が麻雀に興じている風景が映像で紹介されましたが、漢籍を繙いた方が健全であるのにと思うことでした。およろしかったら漢籍の世界を逍遥されませんか。

-----------------
『不動心』(第17回)

 今日一日をはじめるにあたっての心得

 一、一日の初めに、まず自分にこういいきかせなさい。
 妨害や恩知らずな行ない、傲慢、背信、悪意、利己主義----そういうものに今日出くわすにちがいないが、それは何が善であり、悪であるのかも知らぬ不心得な連中の仕業なのだ。
 私はといえば、善の本質とその尊さ、また悪の本質とその下劣さはとうにわかっているし、罪人の本性についてもよく理解している(私にとって罪を犯す人間は、血のつながりはなくとも、理性といくらかの神性を授けられているという意味では兄弟なのだ)。たとえ何人であろうと、私を下劣なものにまきこんだりはできない。したがって私を傷つけるものは何もない。
 また私は、自分の兄弟ともいえる罪人たちに怒りを抱いたり争ったりもできない。罪を犯す人間と私とは、ちょうど両手、両足、両のまぶた、あるいは上の歯と下の歯のように協力して働くために生まれてきたのだから、たがいの邪魔をするのは、「自然の法」に反するのだ。そして腹を立てたり反感を抱いたりするのは、たがいに邪魔しあうことにほかならない。

--------------
「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第94回)

 「また、旧藩主酒井忠篤は、自分の欧州留学は、士族一同と共に国に報いる趣旨であるとねんごろに諭したので、士族は大いに奮起して銃を鍬に代え、明治五年八月からは新たに松ヶ岡の開墾に取組みました。その困難は戦場にも比すべきものでしたが、一年足らずで三十万坪の開拓に成功しました」
  「このことは、わが旧藩が政府から莫大の恩恵を受けたとに対して、天下に先駆けて富国の基礎を築き、国恩に報ずることを願ったものであって、私田を開いて生計を営む趣旨ではなかったのであります」
 「しかるに、異端の徒が盛んに商業の利益と農業の苦難を強調して、開墾を妨害しただけではなく、県の(旧藩出身の)役人や開墾幹部の過誤を拾って司法省に提訴しました。そこで明治五年七月、早川判事の取り調べによって有罪となり、相当の処分をうけました」

-------------

大学の格物の諸説に於て、悉く舊本を以て正しと為す。

2017-08-12 14:57:13 | ブログ
第3148号 29.08.13(日)

先生(陽明)、大学の格物の諸説に於て、悉く舊本を以て正しと為す。蓋し先儒の所謂誤本なる者あり。愛始て聞いて駭(おどろ)き、既にして疑ひ、已にして精をつくし思をつくし、参互錯綜し、以て先生に質す。然る後に先生の説は、水の寒(つめた)きが若く、火の熱きが若く、断断乎として、百世以て聖人を俟ちて惑わざる者なるを知る。『伝習録』(伝習録巻上)25

 先生は大学の格物などの諸説に対し、すべて礼記の旧本のままを正しいとされた。それは程子・朱子が誤本と言ったものである。私は始めてこれを聞いた時は大いに驚いたが、やがて半信半疑となった。その後大いに力を入れてよく考え、またいろいろ広く取調べたり、先生に質問したりして確かめたところ、先生の説は水が冷たく、火が熱いのと同じことで、全く理の当然であり、百代の後聖人が出て来ても変え難い正しい説であることを知ったのである。25  

 【コメント】旧本というのは『礼記』にあるままの大学のことであります。程子は礼記中の大学に誤りがあるとして改訂されたことがあります。朱子はそれに従って更に改訂を加えて大学章句を作ったとされています。  
------------------
『不動心』(第16回)

 自然の理にかなった生活について

 十三 神々のおかげで私は、よき祖父母、よき両親、よき姉妹や恩師、よき知人や親戚、そして例外なくよき友人に恵まれた。こういう人たちと仲たがいもせずにやっていけたのは、私がどのような過ちをもしでかしかねない気性の人間だったにもかかわらず、私にそのようなめぐり合わせが与えられなかったからなのだ。
 私は祖父の愛妾の手で育てられれる期間が短かったから、純真さを失うこともなく、成人するのが待ち遠しくも思われず、むしろのんびりと成長できた。また父なる皇帝には大言壮語の癖を直され、宮廷生活には衛兵だとか王衣、燈火、彫像の類の見せかけの壮麗さは必要なく、国事をとり行う指導者としての信望と権威さえ持てば、生活はむしろ一般の水準に近づけるべきだと教えられたが、その点でも感謝する次第である。
 私は弟を一人授かった。彼の人柄に接していると自分を磨く必要性を常に感じ、彼が私に抱く尊敬と愛情の念にはとても元気づけられた。また私は、心身ともに健全な子供たちも授かった。

-----------
「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第93回)

 「ところが、明治四年廃藩置県となり、酒田県となりましてからは、藩兵が解隊されたので、われわれ一同は国防を目的とする報告の目途を失いました。そこでわれわれ地方のなすべき急務は、勤労して遊情に耽る民衆をなくし、国に尽くすの義を知らせることにあると考えまして、まず士族をして不毛の地を開拓させ、国産を繁殖し、勤労の風を奨励し、国家を富ませるならば、政府の方針である、万国並立の基礎を建てる趣意にも添うこととなると考えました」 
-------------
今日は弟の三回忌でお寺に行きました。初盆に弔う人々が19組紹介されました。弟は平成二十七年八月十三日死去し、今日は三回忌でした。

 読経終了後、御坊様のお話がありました。最近の異常気象について、人間の横暴に対して天が、自然が怒っているのではないかと思われると申されました。
 
 とにかく足るを知る思想、謙虚さが大切だとお話された時は、私と同じ考え、捉え方をしているなと思いました。とにかく年少で社会経験がない人々は、テレビのコマーシャル等に翻弄されている感なしとしません。

 もう少し人々の生活・生き方に寄与できる内容であって欲しいものです。先の大戦に敗北してからの世に生きてきた私から見たら贅沢この上ないと思っています。

 そして仕事もしない内から賃上げを要求する労働組合も困ったものです。まだまだ天災地変に苦しめられると思います。 要求は仕事に専念してから後、対処するものだと心得ます。

 私は32歳の時、大根占電話局に赴任してから、体力を鍛えるため、深夜の時間外サービス超勤を1千時間位したものです。健康と長生きは自分との闘いに勝つことだと心得ます。そして天風論を学ぶことです。

-----------
今朝のテレビ報道に国政進出を目指そうとしている若狭勝様が会見しました。自民党の受け皿つくりに徹したい意向のようです。

 自民党の権力者が正直に説明をしない森友・加計問題には国民は辟易しているのです。

 たまたま『南洲翁遺訓』との出会いによって荘内の方々を存じ上げた私は、荘内南洲会初代理事長を歴任された菅原兵治先生が国を代表する立場だったらどうであろうか、と何時も考えています。

 私は安倍さんは好きなのですが、夫人の喚問にしても、加計の責任者にしても喚問に応じるべきだと思います。荘内南洲会の皆様は迚も真摯です。
----------------
 昨日、電電時代に仕事を一緒にしてきた堂元信秀様から西郷隆盛に関する新資料をご恵送頂きました。西郷隆盛の終焉の地は現在の所とは異なるとのことです。

 この堂元様は、大へん実直にして当今見られない真摯な精神溢れるお方なのです。こういう素晴らしい人を存じ上げて光栄この上も無く存じています。

-----------------

夫れ禮は、先王以て天の道を承け、以て人の情を治む。

2017-08-11 17:31:57 | ブログ
第3147号 29.8.12(土)

夫れ禮は、先王以て天の道を承け、以て人の情を治む。故に之を失ふ者は死し、之を得る者は生く。詩に曰く、鼠を相るに體有り、人にして禮無からんや。人にして禮無くんば、胡ぞ遄(すみやか)に死せざる、と。
 是の故に、夫の禮は必ず天に本づき、地にならひ、鬼神に列し、喪祭・射御・冠昏・朝聘に達す。故に聖人禮を以て之に示す。故に天下国家得て正しくすべきなり、と。『礼記』(礼運第九)331


 礼という物は、先王がこれによって天の道を悟り、これを用いて人の喜怒哀楽の情を調えたものである。礼をよく心得れば生きてゆけるが、礼を弁えねば生きてゆけない。詩に『鼠も五体を備えているが、礼を知らない。人が礼を知らなければ、五体を備えても、鼠に等しい。人にして礼を弁えなくてよかろうか。礼を弁えないなら、速やかに死なねばなるまい』とある。
 -----即ち礼は天道に基づき、地道に則り、鬼神の道に合い、吉凶の祭、射御の作法、冠婚朝聘の儀式など万般に及んでいる。それゆえ聖人は、何事についても、みずから礼を行なって手本を示し、これによって天下国家の政治を正しく行わせようとするのである。


 【コメント】昭和の碩学・安岡先生は漢籍は分からずともいいから、読んで書いてを繰り返しなさいと言われています。
 
 その言葉を信じて来て、これほどよい勉強はないと思って20年この方、読んで買いてを繰り返しています。老人にとってこれほどよい遊びはないと思って楽しんでいます。

------------------
『不動心』(第15回)

 生活を快適にする糧

 十ニ 父の敬服すべき資質、それは温厚な人柄、熟慮の末に決断したことは断じて変更を許さぬ一徹な態度、そして見かけだおしの栄誉には目もくれないところにあった。父は勤勉で、堅忍不抜の精神を持っていた。公共の利益に役立つ進言には喜んで耳を藉し、人はそれぞれの真価に応じた報奨を受けるべきだといつも主張していた。事を運ぶにあたっては、どこで手綱を締め、どこで緩めるかの勘どころを知りつくしていた。
 人づきあいをする上でも、各人がそれぞれの言い分を持っていることをよくわきまえていたから、父は食事や旅行に友人を無理に誘うこともなく、別の用事でしばらく遠くへ行っていた友人にも別れる前と変わらぬ態度で接した。会議では、提出された問題を逐一徹底的に根気強く審議し、通りいっぺんの印象でものごとを片づけたりはしなかった。友情においては忍耐強く、気まぐれのつきあいや常識はずれの交遊はしなかった。機に臨めば立派に働き、快活にふるまい、しかも人目につかぬところでは、実に些細な点にいたるまで事前に手を打っておくという先見の明を持っていた。

----------
「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第92回)

 そこで、開墾地の一切を挙げて政府に投げ出すことを決定します。
 開墾士族総代林源太兵衛と同じく赤沢源弥の名儀で、山形県令三島通庸宛てに願書を提出します。文書の日付けは明治十一年三月二十四日でした。
 県はこの重大事に対して、処置に困り、内務省に直接上申するようにすすめました。そこで両人は上京して内務小輔前島密に趣意書を提出しました。明治十一年十二月でした。

  開墾地一切差上げ

 県に提出した趣意書は二千四百字余の長文ですが要旨はこうです。
  「われわれは戊辰戦争で、寛大な処分の皇恩に浴しましたので士民一同は感激しました。そこで小繙ながら我々は兵器を購入し兵を練って国に報いようとしました」

------------
今朝は日本ファーストという政治団体を組織し立ち上げようとしている若狭さんが、少しく説明しました。名称はまだ決定していないそうです。
 自民党に代わる受け皿づりに奔走しているとのこと、大へんよいことです。現在野党の民進党などは問題外だとの認識でした。
 揚げ足とりに終始していて何も成果を挙げることの出来ない野党は国民に見離されているということでしょう。
 若狭さんは20年間、検事生活をして自民党の汚い部分に辟易していたとのことでした。
 国民が開眼してヨシとする政党が誕生することを期待したいと思います。

 とにかく森友・加計学園問題で明確な説明が必要だと思います。

-----------