味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

克く天心に享り、天の明命を受け

2017-08-23 09:53:07 | ブログ
第3158号 29.08.23(水)

惟れ尹の躬曁(みおよ)び湯(とう)、咸一徳(みないっとく)有り、克く天心に享(あた)り、天の明命を受け、以て九有の師を有(たも)ち、爰(ここ)に夏正を革(あらた)む。、天我が有商に私するに非ず、惟れ天一徳を佑(たす)く。商下民に求むるに非ず、惟れ民一徳に帰す。徳惟れ一なれば、動きて吉ならざる罔く、徳二三なれば、動きて凶ならざる罔し。惟れ吉凶僭(たが)はず人に在り、惟れ天災祥を降り徳す在り。『書経』(咸有一徳)429

 〔通釈〕尹自身と湯王は、みな純一な徳を身につけていましたので、よく天の心にかない、天の明らかな命を受けて、九州の衆民を保有することができ、夏の暦を殷の暦に改めたのでした。これは、天がわが殷にえこひいきをしたのではなくて、天が純一な徳のものを助けたのです。また、殷が下々の人民に無理に求めたのではなくて、人民が自然に純一な徳のものに付き従ったのです。徳が純一であるならば、その行うことはみな吉でないことはなく、徳が不純であるならば、その行うことはみな凶でないことはありません。吉と凶は、間違われずにその人の行うことに基づくのですし、天が幸いと災いを下すのは、その徳の如何に基づくのです。430

 【コメント】この書経のくだりを読み、考えさせられます。上の解説にある<天が幸いと災いを下すのは、その徳の如何に基づく>のですとありますが、この所の気象変動の凄さを見て思うことです。

 先般、弟の三年忌の祭、お寺の住職さんも私が思っていることと同じようなことを述べられました。気象予報士の方々は雲の発生等によっての事を解説されますが、私が言うのはその前段階のことなのです。

 地球上を多くの車両が走り回っているわけですが、その動く熱量だけでも地球に及ぼす影響は計り知れないものがあると思います。

 人間の生き方は人それぞれですから、出来るだけ質素倹約に勤めたいものです。空手道教室で私は、「人様を見下げない、暴言を吐かない、贅沢をしない、人を大事にする、勤勉であること、勤労精神旺盛であること」等々を子供の内から培うように心がけましょうとお話しているのです。

 今朝はナマゴミを棄てる日でしたので、ゴミステーションまで行きました。ところが煙草の吸殻が4本捨てられていました。歩きながらのポイステ行為なのですが、テレビコマーシャルもくだらないのを終日放送していますが、煙草のポイステ、車の暴走行為をやめましょう」と何故言わないのでしょう。それでは世の中悪くなり放題だと思います。

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『不動心』(第27回)

今失おうとしているこの「現在」以外を生きることはできない。

 覚えておきたまえ。仮に三千年、いや三万年の間生きようが、死によって失われるのは「現在」の一瞬を生きているその生にほかならないということを。さらにいえば、生とは、死によって失われようとするその一瞬以外の何物でもない。だからどんなに長生きしようが短命であろうが、それは同じなのだ。誰にも等しく与えられているのはこの過ぎ去りゆく一瞬だけで、過ぎ去ってしまえばもはや誰のものでもない。死が奪うものは飛び去るように過ぎる現在の瞬間だけで、過ぎ去った過去やまだ見ぬ未来が失われるわけではない。なぜなら、誰も持っていないものは奪われようがないからだ。
 以上のことから、二つの点を銘記しておこう。一つは、世界が始まって以来万物は変わることなく循環し回帰していくので、それを百年にわたって、あるいは二百年にわたって、いや永遠にわたって見続けたとしても、それらの間には少しの違いもないということ。もう一つは、長寿を全うする人間も夭折する人間も、その失うものは等しいということ。というのは、人間が「現在」という時だけしか持たず、しかも持っていないものは失われようがないとすれば、死によって失うものは長命・短命を問わず誰の場合でも、この「現在」のみということになるからである。


 コメントとして、西郷南洲翁は不幸にして短命に終わりましたが、死んでも尚「現在」に生きているような存在だと思います。それは上の解説にもありました、人間の徳からくる思慕の情であります。

 西郷どんの大河ドラマに伴い、その人物を紹介する専門家に遊郭出身と思われる女性がいると知人の人から連絡がありました。そういう歴史的偉人を人々に紹介をするような人は、人間の品性が人々に優れて豊かでなければならないでしょう。

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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第103回)

 留学に出るとき中佐で、一旦辞任したとはいいえ、最新のドイツ兵制を八年間も学んできた忠篤に、政府は二階級下げの中尉の辞令を与えました。西郷の息のかかった忠篤への明からさまな憎しみ、捧腹、懲罰的処遇であったことは、誰の目にもはっきりしていました。政府の庄内敵視はここにもあらわれていたのです。明治十三年三月のことでした。
 忠篤は即座に辞任して鶴岡に引上げました。忠宝もそうしました。開墾士たち周囲の人々の失望が大きかったことは想像に余りあります。

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