味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

天下の治まらざる所以は、只だ文盛んにして実衰へ、

2017-08-28 15:59:07 | ブログ
第3164号 29.08.29(火)

 天下の治まらざる所以は、只だ文盛んにして実衰へ、人己の見(けん)を出して、新奇を相高ぶり、以て俗を眩(くら)まして譽(ほまれ)を取り、徒に以て天下の聡明を乱し、天下の耳目を塗り、天下をして靡然(びぜん)として、争ひ務めて文詞を修飾し、以て世に知られんことを求めて、復た本を敦(あつ)くし實を尚(たっと)び、朴に反り淳に還るの行有るを知らざしむるに因る。是れ皆著述する者の以て之を啓く有るなり、と。『伝習録』(伝習録巻上)55

 天下の治まらない原因は、要するに文が盛んで実が衰え、人びとは自己の私見を発表して新奇を誇り、俗衆の目を眩ませて名を売り、徒に世の中の視聴を乱し、衆人の耳目を塗り塞いで、天下の風潮を一様にそこに向け、争って表面的に美しい文章を作り、それによって世に知られんことを求めるだけで、根本に力を注いだり、真実を貴んだりして、天下を質朴純粋(誠実で飾り気がない)にかえすべき仕事のあることを知らせないようにしたことにある。これらは皆著述をしたものが悪例を開いたのである。57

 【コメント】この一文は文中子と韓退之の人物・学問について言及した一部分ですが、後世の著述は文詞のみ多く、人の耳目を眩ませ世を乱すから、世人を淳朴にかえらせ儒家の精神を実行するためには、世の人々の顰蹙をかうことも吝かではないという論旨のようです。論は些か過激にも感じられるが実践を重んじる熱意のあらわれとみていいと思います。
 解説にある「天下の治まらない問題は」は、「世の中の諸問題は」として現代にあてはめて考えてみれば符号する所があるように思われます。

 兎に角後々の世に生きる人々がヨシとして受け止め、参考にしてくれたらいいのではないかと思う次第です。
 人の世は連綿と続くのですから、後々の人々がいいお手本を示してくれたと称賛してくれる日々でありたいと思っています。

 自民党が政治生命をかけて闘った茨城県知事選が七期目の人を制して初当選を果たしました。七期目というのは欲の皮が突っ張っていたという人がいましたが、時期がきたら他の人に譲る度量があっていいのではないでしょうか。
 我が鹿児島も欲を出し四期目に挑んだ人がやぶれました。


 今朝6時前、お隣の殿様がミサイルを発射しました。北海道の襟裳岬上空を飛来したとのことです。これはまさしく暴挙だと思います。こういう物騒なことをするより話し合いを進めた方がよろしいのにと思うことです。
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『不動心』(第33回)

 行動をおこすときの慎重さと機敏さのバランス

 行動するに際しては、自ら進んで機敏に対処し、しかも公益に反しないように心がけなさい。ものごとを慎重に考えるのはいいが、いつまでもぐずぐずしてはいけない。うわべだけを整えた意見ならいわないほうがいい。口数は少なくし、いらぬお節介はやくな。男らしくて分別を備えた立派な人間としてふるまえ。そうすれば心の内なる神が守ってくれるだろう。 あなたは人生の戦場からの退却合図を期待し、救出されるのを今や遅しと待ち望んでいる兵隊のごとく自分の陣地を固守しつづけてきた。あなたの名声と権威は、あえて自分から宣言する必要もなければ、他人に保証してもらうにも及ばない。だからこそ快活にふるまえるし、外からの助けに頼らなくとも、人から心の平安を与えられなくともやっていけるのである。人は自分の力でまっすぐに立たねばならない。他人の力で立たせられるべきではないのだ。

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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第109回)

 「不義にして富みかつ貴きは我れにおいて浮雲のごとし」といった孔子を思いだしますが、菅は貧窮の弟子を案じているのです。
 菅が弟子の「犬塚一瓢に寄す」という詩に、
 君が家 何の有する所ぞ
 宝となす 義と仁と
 瓢を撫して酒無きを嘆じ
 帙を開いて古人を思う
 「この一首によっても、菅のもとに集まっていた弟子たちちの生活がどのようなものであったかが想像される。と同時に、同志の苦しい生活を自分の責任として、ひそかに憂える心情がくみとられるように思われる」と。『菅臥牛』を書いた加藤はいっています。帙は書物です。

 菅が大久保たち、現実主義者の誘いを断って、西郷の理想主義に殉じたのは、庄内郷学の理想主義を貫こうとしたものでしょう。菅の美学だなどといい捨ててしまうわけにはいかないのです。

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